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30.帽子


 4月から私立の小学校に通う事になった優子は、毎日制服に袖を通し鏡の前で嬉しそうにポーズを決めていた。濃紺のブレザーにチェックのスカート、とりわけ紺のフェルトの帽子が優子のお気に入りだった。
その日も鏡の前で制服と帽子を身に付け、大人の仲間入りをしたようで上機嫌な優子だったが、ほんの数十分、帽子をリビングの床に置きっぱなしにしていたために、優子は悲しみのどん底に落ちる事になる。
優子には小さな弟がいた。よたよたと部屋を歩き回っては、手にしたものをすぐ口にいれてしまうので、母の尚子は常に弟の誠から目を離さないようにしていた。だがその日、尚子がキッチンに立った僅かな間に優子の悲鳴とぴしゃりと肌を叩く音、そして誠の鳴き声が聞こえ尚子は慌ててリビングへ駆け戻る。泣き叫ぶ誠の頬をさらに叩き、優子は目に涙を溜めながら叫んでいた。
「わたしの帽子に何すんのよ!」
「優子! 何やってるの!」
優子から誠を引き離し尚子は優子を叱り付ける。優子の手には紺の帽子が握られていた。誠が口にしてしまったようで、あちこちによだれが付きてかてかと光っている。
「だって誠がわたしの帽子に……」
「あんたが置きっ放しにしてたのが悪いんでしょう!」
最後まで言わせずに怒鳴ると、泣き叫ぶ誠の頬をさすりながら尚子は眉間に皺をよせ優子を睨む。
「お姉ちゃんなんだから、ちょっとくらい我慢しなさい。」
その言葉に不満げな顔をした優子を尚子はもう一度睨む。
「そんなに触られるのが嫌ならしまっておきなさい。」
誠を抱きかかえあやす尚子に背を向け、優子は帽子を手に洗面所へ向かった。踏み台を置いてよじ登り、洗面台で帽子をそっと洗う。大事な帽子を汚されてしまったショックと、尚子が誠にばかりかまう淋しさが重なり、流れる水に涙が混ざった。

 翌日。
優子は尚子に連れられてスーパーへ買い物に来ていた。駅前にある大きなスーパーは昼間でも主婦や春休み中の学生達でごった返す。ベビーカーから降りて歩く誠の手を引き、優子は尚子の後をついて歩いていた。好奇心旺盛な誠はすぐにふらふらと何かに目を惹かれ走り出してしまう。尚子も誠と優子を気にかけながら買い物をしていたが、鮮度が良く安い食材探しにも余念がなく、いつしか2人から意識が離れていた。走り出した誠を追いかけた優子は、一緒に誠を追いかけてきていると思っていた尚子が側にいない事に気付き青ざめる。さっきいた場所からかなり離れてしまったようで、どこをどう行けばもとの場所に戻れるのかわからない。周りは知らない大人ばかり。走り出してはしゃぐ誠をようやく捕まえ、この子がうろちょろしなければと苛立った心のままに強く誠の手を掴んだ。昨日、帽子を汚された事もまだ許せずにいた。思いのほか強い力で掴まれた誠の笑みが、優子の顔を見て消える。尚子が側にいない事と、優子が自分のせいで尚子と離れ離れになって怒っている事を感じたのだろう。一気に不安げな表情になり優子の手を強く握り返す。握り返された手と不安げな誠の顔に、優子の苛立ちが静まっていく。そうだ、こんな時はわたしがしっかりしなくちゃ、弟にかっこ悪い所は見せられない、そんな気持ちが生まれ優子は誠に笑いかけた。
「もう一人でどっか行っちゃだめだよ。さぁ、お母さん探そう。」
優子が笑った事で少し安心したのか、誠は素直に頷いて優子と共におとなしく歩き出す。誠の手を引きながら、この広いお店の中でどうやって尚子を探そうかと優子は考えを巡らせる。そういえば、幼稚園の友達が迷子になった時に、お店の人に頼んでお母さんを呼び出してもらったって話していたのを思い出す。見回すと、惣菜売り場で出来上がったばかりのコロッケを並べている人の姿が目に入った。あの人がきっとお店の人なんだろうと判断した優子は、誠の手を引きその人に近付いていく。尚子より年上らしい女性は「いらっしゃいませ!」と威勢のいい声を上げて揚げ立てのコロッケをアピールしていた。知らない人に声をかけるなんて初めての優子は、どきどきしながら呼びかける。
「すみません。」
「はい、いらっしゃいませ。あら? お嬢ちゃん、どうしたの?」
小さなお客様に満面の笑みを浮かべた店員は、優子に視線を合わせしゃがみ込む。その優しそうな笑みに安心し、優子は言葉を続けた。
「お母さんが迷子になっちゃったんです。探してもらえますか?」
数分後、サービスカウンターで待つ優子達に尚子が血相を変えて駆けつけた。泣きそうな顔で2人を抱きしめ店員に何度も頭を下げる尚子は、優子が不安げな誠をずっと励ましていて、自分も不安だろうにとてもしっかりした娘さんだと店員がしきりに褒めるのを聞いた。「ありがとうございました。」と言って店員に手を振る優子を見つめ、尚子は微笑む。
「やっぱり優子はお姉ちゃんだね。」
「うん! だってもうすぐ1年生だもん!」
得意げな顔で優子は胸を張る。そう、自分はお姉ちゃんなんだ。小さな弟をいざって時には守らなきゃいけないんだ。小さな弟の悪気の無い悪戯にいつまでも腹を立ててちゃ、立派なお姉ちゃんになれないんだ。

 入学式の日――
大事にしまっておいた制服と帽子を身に付けた優子は、長い長い大人への道を踏み出した。


                     END

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