宝物庫へ翠玉館玄関へ

『Small Courage』



 教室に入り自分のロッカーを開けた山崎茜は深いため息をついた。大量に詰め込まれたゴミが異臭を放っている。ゴミを片付けロッカー内を掃除していると、聞こえよがしに「やだぁ、きたなーい。」と呟く声が聞こえる。汚いのはこんな事を平気でやるあんたらの性根の方だろうと思ったが、言ってやっても嫌がらせがエスカレートするだけなのでやめておく。何故自分がこんな目に遭わされるのか、理由はわかっている。この中学に上がった頃、他の小学校から来ていた岡野絵美をいじめから庇ったからだ。よほど気に入らなかったのだろう、それ以来いじめのターゲットは茜に変わった。新たなターゲットを得た事で絵美へのいじめはなりを潜めたが、それでも絵美はクラスに溶け込めていない。そして絵美を庇っていじめられるようになった茜を、絵美は申し訳なさそうな顔をしながらも遠くから見ているだけだった。せっかくいじめのターゲットから逃れられたのだ、また自ら災いに近付きたくないのだろう。間違った事はしていないと思う。だが、絵美のその態度に気持ちはわからなくもないが多少の後悔の念が沸き上がるのも事実だ。
ロッカーの掃除を終え席に戻ると、机に刻まれたいくつもの文字が目に入る。「ブス」「キモイ」「シネ」などの罵詈雑言がわざわざカッターナイフで刻まれていた。それらが目に入らないように大きくノートや教科書を広げる。時折向けられる視線は嘲笑に満ちていた。顔を上げ視線に無視を決め込む。暇人め、と呟き茜は唇を結んだ。憤りと悔しさと悲しみが巻き起こるのを押さえ込む。感情を顕わにしたら負けだと思う。茜へのいじめが始まった頃は止めさせようと戦っていたが、それは相手を煽るだけなのだと気付き、「低俗な連中は相手にしない」と毅然とした態度で無視する事に決めた。だがそれはそれで気に食わないらしく、嫌がらせはエスカレートするばかりだった。
教室前方の扉が開き担任教師が入って来る。「このクラスはいじめのないいいクラスだ」などと嘯き、へらへら笑って生徒のご機嫌伺いをするこの男を茜は誰よりも嫌っていた。教師も、庇った絵美も、茜の味方は誰もいない。他のクラスには小学校時代の友人がいるが、自分が彼女達の所へ行けばいじめに巻き込んでしまう。こんな思いは自分だけで充分だ。事情を知らずに遠ざかった茜を友人達は気遣う事もなく、茜はずっと一人だった。
休み時間になると茜は席を立つ。すれ違いざまにわざとぶつかられる事も、物を投げつけられる事も無かった事にして足早に教室を出た。早く卒業したい、入学して二ヶ月が過ぎた頃だが茜は早くもそう思っていた。教室を離れ階段を上る。屋上へ続く階段の踊り場が、この学校で唯一平穏な気持ちで過ごせる場所だった。屋上へ出る扉は鍵がかかっているが、天井付近の小さな窓からは外の光が差し穏やかな明るさを保っている。風が強く、開いている窓の外からは木々の唸る音が聞こえる。いつものように階段の一番上に腰を下ろし窓から見える空を見つめていると、ギィっと錆び付いた何かが動くような音が微かに聞こえた。何の音だろうと立ち上がり辺りを見回すと、屋上への扉の鍵が壊れているようで微かに開いている。近付くとノブには応急処置のロープがかけられていたが、強く引くとロープは簡単に外れ、古い扉特有の錆び付いた音を立てながらも扉は難なく開いた。茜は何のためらいもなく外へ出る。高い柵が張り巡らされているものの、視界は開けていて広い空とどこまでも続く町並みが見渡せた。
「綺麗だなぁ……。」
緑が残る町並みと晴れた空、春の強く心地良い風に包まれ茜は惚けたように呟く。どれくらいの間そうしていたのか、柵に寄りかかり空っぽになった頭でぼぉっと外を見下ろしていると、背後から突然声が響いた。
「山崎さん! やめて!」
驚いて振り返ると、屋上の出入り口に息を切らして泣きそうな顔をした絵美が立っていた。
「山崎さん、私のせいでごめんなさい! お願い、そんな事しないで!」
「岡野さん、どうしたの?」
駆け寄ってきた絵美に茜は怪訝な顔で問い掛ける。
「え? あ、あの……。」
自分の早とちりに気づいた絵美は顔を赤くしながらしどろもどろに口を開く。
「図書室にいたら屋上に山崎さんが出てきたのが見えて、何だか思いつめてるように見えて、それで……。」
「あぁ……。」
飛び降りようとしていると勘違いされたのだと気付き茜は苦笑する。
「そんな事しないよ。それでわざわざ走ってきたの?」
図書室は茜がいる場所から校庭を挟んで向かいの棟にある。屋上に茜を見つけた絵美は渡り廊下を越えて走ってきたのだ。間に合わないかもしれない、間に合ったとしても、きっと恨んでいるだろう自分の言葉なんか聞いてくれないかもしれない、そんな怯えを振り切って走ってきた。早とちりだとわかってほっと息を吐くと、絵美は茜の足元に座り込み静かに泣き出した。
「私、助けてもらって嬉しかったの。でも、私なんかを助けたせいで山崎さんがいじめられるようになっちゃって、私が今度は助ける番なのに、怖くて何も出来なくて、ごめんなさい、ごめんなさい!」
茜は絵美に視線を合わせて腰を下ろす。
「謝んないでいいよ。間違った事したと思ってないし、後悔もしてない。」
「でも、私なんかのせいであんな目に遭って……」
「それ、やめた方がいいよ。」
泣きじゃくりながら謝る絵美の言葉を遮り茜は口を開く。
「悪いのはあっち。岡野さんじゃない。だから"私なんか"なんて思っちゃだめだよ。」
首を縦に振って頷き、涙を拭いながら絵美は茜を見上げた。
「山崎さんは強いんだね。」
「正義感が強いだけかも。ああいうの許せないんだ。もっと上手いやり方があったのかもしれないけどね。」
足元に視線を落とし絵美はゆっくり口を開く。
「何されてもずっと顔上げてて、凄いなって思ってた。」
「泣いたら負けだから。」
茜の言葉に絵美は顔を上げ大きく首を振った。
「でも、でもね、山崎さんみたいにしっかりしてる人は、泣いてもいいんだと思うの。」
意味が分からないといった顔の茜に、絵美は言葉を選びながら話を続ける。
「あのね、嫌な事されてもじっと顔上げてるって凄く大変な事だと思うの。私にはできなくてすぐめそめそ泣いちゃうんだけどね。だから私が泣くのと違って山崎さんが泣くのは負けじゃないよ。」
「そうなの?」
絵美を見つめ返す茜に力強く頷く。
「そうだよ! 山崎さんはあの人達の悪意を自分の中に溜め込んじゃってるんだと思う。そんなの辛いよ。そのままじゃ山崎さんの心が壊れちゃう。涙は心の中の悪い物全部流してくれるんだから。」
「そうなんだ……。」
絵美は姿勢を正し真っ直ぐに茜を見つめる。
「本当にごめんなさい。今更だけど、助けてくれてありがとう。凄く嬉しかった。私ももっと強くなるから、だから……。」
言葉につまり絵美は肩を震わせる。茜の目が少しずつ潤んでいく。無視して無かった事にするには、あまりにも辛く理不尽な仕打ちを受けてきた。孤独な戦いだった。悪いのは向こうなんだから、泣くのは相手に屈する事になると、間違った事はしていないという思いだけでじっと耐えてきた。泣いてもいいんだという絵美の言葉が、凍りついた心に沁みていく。
「ありが……とう。」
消えそうな声で呟いた茜の目から涙が一筋零れる。ためらい無く屋上へ出たのは、この現実から逃げ出したかったからかもしれないと思う。もしも絵美が来なかったとしても、自分は柵を乗り越えたりなんかしないと言えるだろうか。こぼれる涙をそのままに、茜はぽつりと呟く。
「助けてくれて、ありがとう。」
茜の言葉に絵美は泣きながら笑う。
「助けてもらったのは私の方だよ。私、勘違いして走ってきただけだもん。」
その言葉に茜も思わず笑う。その目には涙がまだ溢れていた。

孤独な絶望の闇から這い上がる力をくれたのは、一筋の涙と小さな勇気――。


                   END


宝物庫へ