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『White cloth』


「それどうしたんだよ。」
棲み処に帰ると仲間は足に巻かれた白い布を凝視し開口一番にこう聞いた。
「何でもないよ。」
「何でもないわけないだろう。」
「怪我したから自分で巻いた。」
「見え透いた嘘つくなよ。俺達の足でどうやってそんなもの巻くんだよ。」
追求から逃れるように寝床に潜り込む。自分にはあの娘を救う事が出来なかった。わずかな期間の片想い、それは幸せな時間だったけれど。

 狼がその少女と出逢ったのは、季節が秋から冬へと変わろうとしている肌寒い昼下がりの事だった。獲物を求めて山を下り人里近くの麓を歩いていた時、うっかり猟師が仕掛けた罠にかかってしまった。どうにか罠を外し逃げる。罠を仕掛けた人間が近くにいるかもしれない。山の奥の方へと前足の痛みをこらえてひた走ったが、やがて痛みに耐えかねて草むらに倒れ込んだ。前足からは血が流れ自分の走ってきた跡を点々と残している。これでは見つかってしまう。傷口を舐め立ち上がる。血の跡を残さぬよう気を付けながら、痛む足を庇いふらふらと歩いていると、小柄な人間の少女が草むらに座り込んでいるのが見えた。こっちに気付いているのかいないのか、少女は微動だにせず空中を見つめている。逃げなくては、とっさにそう考え身体を反転させた時、傷を負った足に激痛が走った。くぐもった声を上げ倒れ込むと落ち葉の積もった草むらががさりと予想外に大きな音を立てる。その音に少女は驚き顔を上げた。
「誰か、いるの?」
怯えと安堵の入り混じった声を上げ少女はこちらを見つめている。逃げなくては、だけど足が痛んで動けない。少女が恐る恐る近付いて来る。威嚇しようと低い唸り声を上げると、少女は狼の存在に気付き足を止めた。
「狼さん? あなたが私を迎えに来たの?」
何を言っているのだろうと困惑する狼をよそに、少女はまたゆっくりと近付いて来る。狼の怪我に気付くと驚きの声を上げた。
「あっ、怪我をしているのね。痛いでしょう? 手当てしてあげる。こう見えて、薬草のこととかけっこう詳しいのよ。」
落ち葉をかき分け少女は狼に駆け寄った。前足の傷に痛ましげに眉を寄せる。
「ひどい怪我ね。薬草は私の寝床にあるの。立てる?」
人間の村になど行けるかと顔を背けた狼の考えを察したのか、少女は悲しげに笑う。
「大丈夫、人は誰もいないから。私の寝床、すぐ近くなの。」
だいぶ人里から離れたはずだが、すぐ近くとはどういう事だ? 家ではなく寝床という言い方も気になった。困惑を深める狼の血だらけの足に少女はためらいもせず手を伸ばす。
「けっこう深い傷だね。歩けるかな? 背負っていってあげてもいいんだけど。」
触れられた手のあまりの細さに、狼は少しだけ警戒心を解いた。悲しげな目と先ほどの「迎えにきたの?」という問いが引っかかってもいた。痛む足を庇いながらゆっくりと立ち上がる。お前の寝床へ案内しろとばかりに顎を上げた。
「来てくれるのね。良かった。」
ぱっと笑顔になった少女に狼は胸のあたりがうずくのを感じた。それは決して不快なものではなかったが、その感覚の正体を狼はまだ理解していなかった。
少女の寝床は、山の中に自然にできたそれほど広くはない洞穴だった。入り口の方こそ陽が射しているが、奥の方はじめじめとして薄暗く、とても人間の子供が暮らせるような場所ではない。雨風を凌げる奥の方へ枯れ葉やぼろ布を敷き詰めて寝床にしているようだった。少女は寝床近くに置かれた小さな篭から束になった薬草を取り出すと、清潔そうな布を見つけ束を包み狼のそばに置く。傍らの桶から水を汲んで狼の傷をそっと洗い、薬草を包んだ布を狼の足に丁寧に巻いた。傷の痛みに耐えながら狼はそっと周囲を見回す。なぜこんな所で少女が暮らしているのか皆目見当が付かなかった。狼の疑問を察したかのように、少女はゆっくりと語り出す。話し相手が、少なくとも自分の声に反応する相手がいる事が嬉しいのだろう。
「私はね、村の飢饉を救うために山の神様に捧げられたの。山の神様に子供をお供えして食べてもらうと村を救ってくれるんだって。お父さんもお母さんもいないから、ちょうどいいだろうって私が選ばれたの。」
生け贄ってやつかと狼は不快気に喉を鳴らす。人間なんて邪神でさえ喰らいやしないだろうに、村の連中は自然をなめているのか。動物でも一頭を犠牲にして群れを守ることはあるが、それは命の危機が明確に目の前に迫っている時の最後の手段だ。そんな胡散臭い言い伝えを信じ、年端のいかない子供をひとり山奥に放り出すなどと、人間とはなんと残酷な生き物なのか。少女は狼の憤りを感じたのか静かに笑う。
「怒ってくれてるの? 優しいのね。私なんか食べても美味しくなさそうなのにね。でも、いつまで待ってても何も起きないから困ってるの。村に帰るわけにはいかないし。まだ来るの早かったのかなって思って、お迎えが来るの待ってたの。狼さんは私を迎えに来たんじゃないの?」
大きく首を横に振ると少女はがっかりしたような安心したような複雑な表情を浮かべた。
「そっか。来るところ間違えちゃったのかな。山は広いしね。でも山の中にいればいつか見つけてもらえるよね。神様には悪いけど、頑張って探してもらおう。怪我してる狼さんを残して動き回れないしね。私はここにいるから、怪我が治るまで休んでていいよ。」
そう微笑む少女を狼は守りたいと思った。冬に向かう山の危険から、何より残酷な人間達から、このか弱い生き物を守らなくてはという想いが湧いた。怪我の手当をしてもらった礼もしなくてはならない。薬草の効果はてきめんで、普段の怪我よりも早く回復に向かっていた。少女の知識の深さに敬服する。歩くのに支障ない程度まで回復すると、狼は周囲の樹々から食べられる木の実を集めて少女のもとへ運んだ。少女は狼の包帯を取り換えながら、嬉しそうに笑う。
「私のために持ってきてくれたの? ありがとう、狼さん。怪我がまだ完全に治ってないのにごめんね。あんまり無理はしないでね。」
細い声で「狼さん」と呼ばれるのが心地良かった。晴れた日には木の実を集めたり水を汲む手伝いをし、寒い日には寄り添って眠った。狼に触れる少女の手は枯れ枝を思わせるほどに細く痩せさらばえていたが、それでも温かい手だった。このままずっと、この温もりと寄り添って生きていきたいと狼は思い始めていた。

 ある日、狼は少女のものではない乱暴な足音を耳にし慌てて少女を探す。傷はもうほとんど癒えていた。嫌な予感に急き立てられ走る。聞きなれない人間の声が響いたのは、川の近くまで来たときだった。桶を手にした少女に大人の男が猟銃を向けている。「まだ生きていたのか」という男の言葉に、少女は怯えた顔で立ち尽くしていた。子供にあんなものを向けるなんて! 狼は咆哮を上げ男の喉を噛み切るべく飛びかかった。
「狼さん!? ダメ!!」
驚いた少女の悲痛な声に狼は攻撃をためらう。凄惨な光景を少女に見せるのは忍びないかと、男の胸倉に蹴りを喰らわせ少女の前に着地する。男から少女を守るように立ち、牙をむき出し低い唸り声を上げて男を威嚇する。突然現れた狼に男は腰を抜かし震えた声を上げた。
「お前、狼なんか従わせて、何をする気だ!」
猟銃を抱え一目散に逃げだす男の背に一際大きな咆哮をかけると、狼は少女を振り返る。少女は水を汲んだ桶を投げ出し狼を抱き寄せた。目に涙をいっぱいに溜め、手も声も震わせる。
「危ない目に合わせてごめんね。私がちゃんと山の神様のところに行かなかったから、こんなことに……。狼さん、みんな、ごめんなさい、ごめんなさい!」
どうしてお前がそんなことを謝らなくてはいけないのかと狼は低く唸る。頬を伝う少女の涙を舐め掬い取りながら、狼は胸を痛めた。この娘はなんと尊く美しい魂を持っているのか、なぜそんな彼女が、こんな目に遭わなくてはならないのか。あんな身勝手な村人のために犠牲になる必要などない、山を下りて自分のために生きろと伝えたかった。彼女と同じ言葉を交わせないことがもどかしかった。ひとしきり泣いた後、少女は静かに立ち上がる。
「ありがとう、本当にごめんね。お水汲んだら、戻ろうか。」
狼を見つめ微笑んだ少女の泣き腫らした目が、夜になっても狼の脳裏に焼き付いて離れなかった。
翌朝。ふと寒気を感じて狼は飛び起きる。昨夜は確かにそばで眠っていた少女の姿が消えていた。どうして気付かなかったのだろうと自分を責めながら狼は洞穴を飛び出す。彼女が水を汲んでいた川、彼女の背丈でも手が届く高さに実がなっている木々、薬草を採りに来ていた草むら、どこを探しても少女の姿は無かった。うかつだった。昨日の件で少女は自分を責めていたに違いない。男を襲おうとした自分の行動は間違っていたのだろうか。彼女はどこへ行ってしまったのだろう。少女の行動範囲よりも遠くへ捜索の足を伸ばす。どうか無事でいてくれと、姿を見せてくれと願いながら、細く高く遠吠えを上げる。人間よりも優れた感覚を持つ狼にも気配を察知させないなんて、いったいどこに消えてしまったのだろう。狼は山の隅々まで駆け少女を探した。だが、どこを探しても少女の姿は見つからなかった。まさか、本当に山の神とやらの所へ行ってしまったのだろうか。冬に向かう山の中で、あんなか弱い生き物が無事でいられるとは思い難い。会いたい、もう一度温かい手で触れられたい、鈴のような声で呼ばれたい、そんな一心で狼は山を駆け続けた。

 狼が少女の捜索を諦め自分の棲み処へ帰ったのは、木々がすっかり葉を落とし山が雪に包まれた頃だった。
「それどうしたんだよ。」
棲み処に帰ると仲間は足に巻かれた白い布を凝視し開口一番にそう聞いた。
「何でもないよ。」
「何でもないわけないだろう。」
「怪我したから自分で巻いた。」
「見え透いた嘘つくなよ。俺達の足でどうやってそんなもの巻くんだよ。」
追求から逃れるように寝床に潜り込む。
「人間のにおいがする。でも嫌な感じじゃないな。」
追及を諦めた仲間にそう言われ、胸が締め付けられるような感覚に陥った。少女が尊い存在であったと仲間も感じたことが嬉しかった。そしてあれは、恋だったと自覚する。動物が人間に恋をするなんてと戸惑うが、少女の自分を呼ぶ声や儚げな笑顔、触れた細い手の温もりは、狼の脳裏に温かく優しいものとして刻まれている。彼女のそばにいた時間は幸せだった。少女にとってもそうであればいいのにと、救ってやれなかったことを詫びながら、どこかで無事に生きていてくれと願った。
少女が最後に巻いてくれた白い布に顔を寄せ、狼は眠りについた。


                  END


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