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『秋の精霊と冬支度の温もり』

 収穫を祝うお祭りも無事に終わり、人間の世界は秋から冬へ移り変わろうとしています。秋の精霊の少年は、厳しい冬に備える人間の村を眺めていました。周囲は深い森が広がり、その向こうに山が連なっています。森も山も赤く紅葉し、まるで冬に備えて火を焚いているようだと少年は思いました。静かに冬へ向かっていくこの景色が少年は大好きでした。
 ある日。少年はいつものように里の片隅にある泉から、人間の世界の景色を見つめていました。すると森の方から大きな熊が村に近付いていくのが見えました。冬眠に備えて餌を探しているのでしょう。しかし、こんなに村の近くまで出てくるのを見るのは初めてでした。森や山に餌が少ないのでしょうか。人間と鉢合わせてしまったら、熊にとっても人間にとっても危険です。心配しながら見守っていると、その日は人間に見つかる事無く熊は森へ戻って行きました。熊の行方を追うと、森の奥の巣穴に生まれて間もない子熊がいるのが見えます。子熊のために、例年より多くの餌が必要なのでしょう。近年、人間の数が増えてきて、熊達の暮らす森にまで人間が入り込んでいます。樹々が切り倒され、熊達の住む場所や餌となる草木が減っているのです。そして村の近くに現れた熊を人間達が警戒し始めています。猟銃を持った村人が周囲を見回っているのが見えました。人間にとっては、熊は強大な生き物です。万が一襲われたらひとたまりもありません。それに、人間達が丹精込めて家畜の世話をしたり田畑の手入れをしたりして、この秋の収穫を無事迎えられた事に安堵しているのを、少年は知っています。どちらも生きるために一生懸命なのです。人間と熊が共存できるように何とかしてあげたいと思いつつも、精霊である少年が直接何かをする事はできません。どうか熊と人間が争わないようにと祈りながら、少年は熊と村の人間達を見守っていました。しかし少年の祈りも虚しく、ある日村の近くに現れた熊を、猟銃を持った村人達が狙っています。罠にかかってしまったのでしょう、熊の足に縄が複雑に絡まって身動きが取れないでいます。刃物も仕込まれていたらしく、熊の後ろ足から血が流れているのも見えました。村人達は唸り声を上げる熊に警戒しながら、狙いを定めています。もしもあの熊が撃たれてしまったら、生まれて間もない子熊は冬を越えられないかもしれません。
「やめて、撃たないで!」
少年の必死な願いは届かず、銃声が何発か響きました。苦しそうな声を上げ、熊はどさりと地面に倒れてしまいました。動かなくなったのを確認し、村人達は熊の亡骸を村の方へ運んでいきます。
「殺さなくったっていいじゃないか……。」
少年は涙を零しながら森の方へ目を向けます。巣穴の奥で親の帰りを待つ子熊は、先ほどの銃声に不安がっているのでしょうか、しきりに細い鳴き声を上げています。親を亡くした幼い子熊がこれからどうするのか、果たして厳しい冬を一匹きりで生きていけるのか、少年は心配になってしまいました。それと同時に、親熊を撃ち殺した村の人間達にとても腹を立てています。罠にかけて動けなくさせて、大勢で取り囲んで撃ち殺すなんて卑怯だと思いました。少年は思わず走り出します。子熊を助けてあげたい、仇をとってあげたい、そう考えたのです。精霊の世界と人間の世界の境目にある門を目指して走ります。門番の精霊戦士に、少しだけ人間の世界に下ろしてほしいと頼もうと考えました。森を抜けて門のある場所へ近づいて行くにつれ、少年は緊張してきました。門がある場所には、それぞれの世界が交わる事のないように厳重に結界が張られています。精霊が人間の世界へ行く事は、そう簡単には許可されないのです。ふいに森がとぎれ、薄暗い広場に出ました。森の向こうは晴れているのに、ここの空はどんよりとしています。松明が灯され、大きな門が薄闇に浮かぶように建っていました。門番の戦士に、少年は恐る恐る声をかけました。
「あの、すみません。」
「ん? 秋の子か。こんな所に何の用だ?」
大柄な精霊戦士に少し怯えながら、少年は勇気を振り絞って頼みごとを打ち明けます。
「あの、ぼくを少しだけ人間の世界へ行かせてほしいんです。」
少年の頼みに戦士は驚いた声を上げました。
「おいおい、長の許可が無きゃ門は開けられないぞ。」
「知ってます。でも、どうしてもやらなきゃいけない事があるんです。」
先ほど泉を通して見た出来事を戦士に話し、子熊を助けてあげたいのだと告げました。しかし戦士は難しい顔で首を振ります。
「子熊を助けたいって言ったってなぁ。お前さん、その子熊の面倒を一生見てやれるのか?」
少年は困った顔で戦士を見上げました。まだ大人の精霊ほどの強い力はありませんが、それでも秋の精霊としての務めを放り出すわけにはいきません。困り顔になった少年に戦士は話を続けます。
「今だけ餌を与えるのが、その子熊の為になるとは思えんぞ。それに餌の取り方や身の守り方ってのは、自然と共に生きるもの達に生まれつき備わっているんだ。自然の中で生きるには危険がつきものだ。崖から落ちたり天敵に襲われたり、親を失う原因は人間に殺されるだけじゃない。親がいなくなっても、彼らはちゃんと生きていける。」
言葉に詰まった少年に、戦士は小さく微笑みながら手を振りました。
「お前さんが優しいのは分かった。だけどその優しさは、全部の生き物に向けてやらなきゃいけないもんだぞ。お前さんがやらなきゃいけないのは、里へ戻って、精霊の務めと生命に向き合う事だ。さぁ、帰った帰った。」
肩を落とし、少年は里への道を歩いていきます。戦士の言葉はもっともですが、それでも人間があんな風に熊を撃ち殺した事は、どうしても少年には許せませんでした。泉のほとりまで戻ってくると、少年は座り込んで人間の世界を見つめます。猟銃を持った村人が、村の周囲から森にかけての道を見回っているところでした。
「人間め、それ以上森に近付くな!」
思わず叫んで、少年は手近な小石を泉に映る人間めがけて投げ込みました。すると、小石はぽぅっと光を放ち猟銃を持った村人に当たったのです。突然、空から小石が落ちてきた事に村人はひどく驚いていました。
「え? なんで?」
泉はただの水鏡であり、人間の世界と繋がっているという話は聞いた事がありません。しかし、少年が怒りに任せて投げ込んだ小石は、確かに水面に映る村人へ当たったのです。少年は自分の手をじっと見つめます。もしかしたら、子熊を助けて仇討ちをしたいという強い想いが、こんな不思議な事を起こしたのかもしれないと考えました。少年は森の方へ意識を移し、泉に子熊の巣穴を映し出しました。近くに落ちていた木の実を拾い、巣穴の前を狙って泉へ投げ入れます。祈りを込めて木の実の行方を見守っていると、水面に波紋を起こした木の実は、微かな音を立てて巣穴の前に落ちました。物音に気付いたのでしょう、子熊が巣穴からそっと顔を出し、落ちた木の実の匂いを嗅いでいます。
「さぁ、お食べ。」
まるで少年の言葉が聞こえたかのように、子熊が木の実を食べたのが見えました。
「これなら子熊を助けてあげられる!」
少年は思わず叫びました。慌てて辺りを見回し、誰にも見られていない事を確かめます。人間の世界に手を出した事がばれたら、こっぴどく叱られてしまいます。誰にも内緒でやらなくてはいけません。少年はきっとやり遂げてみせると誓いました。
その日から、少年は毎日密かに泉へ通っては、木の実や小魚を子熊の巣穴めがけて投げ入れます。そして森に近付く人間達には、石を投げたり桶いっぱいの水を浴びせたりして、森から遠ざけていました。人間達は不可解な現象に怯えだんだん森に近付かなくなっていきます。そうしてついに、「森の神様がお怒りだ」と人間達の間で騒ぎが起こりました。村の祭壇に例年よりたくさんの捧げ物が置かれ、一日中お祈りの声がしています。騒ぎはすぐに秋の精霊の里に届きました。大人の精霊達が調査を始めた事など露知らず、少年は泉に通い続けます。
「あなたですか。『森の神様』を気取っているのは。」
ある日の早朝。まだ薄暗い内に泉に行くと、長が険しい顔で少年を待っていました。慌てて木の実や小石を入れたカゴを背中に隠しましたが、長は険しい顔で少年に近付きます。
「お話があります。いらっしゃい。」
「はい。」
静かな強い声で言われ、少年は素直に長の後へついて行きました。長の屋敷に辿り着くと、長は自室へ少年を通します。行灯が静かに灯る中、卓の前に敷かれた座布団へ座るよう促され、少年は恐る恐る座りました。禁じられている事をしたのです。どんな罰を受けても仕方ないと思いました。でも、自分の気持ちはきちんと伝えなくてとも考えます。卓を挟んで正面に座った長を、少年はまっすぐに見つめました。何から話したらいいのだろうと考えている間に、長が静かに口を開きます。
「どういうつもりであんな事をしたのかは、だいたい知っています。門番の戦士からあなたの話を聞きました。」
それなら話は早いと、少年は背筋を正しました。
「ぼくは、あの子熊を助けたかったんです。人間が卑怯な手段で親熊を撃ち殺したのが、許せなかったんです。」
長は静かに少年を見つめ返します。
「ならば、人間は熊に襲われたり食糧を奪われたりして死んでしまっても、構わないのですか?」
少年は俯いて首を振りました。
「そんな事はないっていうのは解っています。熊も人間も、生きる為に必死なんだって。だけど、あんなやり方で生命を奪うなんて……。」
「殺生の場面を見てしまって動揺するのは解ります。しかし、人間には熊のような強い力も鋭い爪もありません。人間は、自然の中で一番弱い生き物なのでしょう。だから道具を使い知恵を絞って生きるしかないのです。」
卓の上で強く握られた少年の手を、長はじっと見つめます。
「あなたの強い想いが、鏡像でしかないものに干渉する事を可能にしたのでしょう。強い想いは時に奇跡を起こします。しかしそれは、真摯な善意から生じたものであっても、邪なものをも呼び寄せてしまうのです。」
長は湯気を立てている湯のみに手をかざすと少年の前に置きました。
「これをご覧なさい。」
少年が湯のみを覗き込むと、村の周りを黒々とした悪い霊が群がっているのが映っています。村を襲う機会を窺っているようです。もちろん、少年にはこんなものを呼んだ覚えはありません。
「これは……?」
困惑して長を見つめると、長はため息交じりに答えました。
「あなたが起こした奇跡に吸い寄せられて、悪い霊が集まってきてしまったのです。」
「ぼく、そんなつもりじゃ……。」
自分のした事が、知らない内に大変な事態を招いていたと知り、少年は青ざめました。人間が熊へした事に腹を立て、仇を討ってやりたいと考えてはいましたが、ここまでの大惨事を起こす気はなかったのです。震える少年を長は静かに見つめます。
「安心なさい。すでに戦士を向かわせて、悪い霊は全て捕えました。」
少年はこわばった表情のまま長を見つめ返します。もしも、あのまま人間の世界へ干渉を続けていたら、村は悪い霊に乗っ取られてしまったかもしれません。
「勝手な事をしてたくさんの迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした。」
深々と頭を下げた少年の顔を上げさせ、長は静かに微笑みました。
「あなたの気持ちはよく解ります。しかし、人間も他の生き物達も、自らの力で生きて行かねばなりません。我々が彼らの為にできる事は、邪悪を祓い見守る事と、祈りや願いを神様方へ届ける事です。」
「なら、祈りが届いたかどうかをどうやって確かめるのですか?」
「それは祈りを捧げた当事者が確かめ感じる事です。我々は仲介者に過ぎません。我々の務めを、生命の在り方を、今一度見つめ直しなさい。」
「はい。この度は申し訳ありませんでした。」
再び頭を下げる少年の肩へ触れた長の手から温かな優しさを感じます。自分もこの温もりを持ち、あらゆる生命を等しく優しく見守る存在になろうと誓ったのでした。

 数日後。泉から森を見つめていた少年は、子熊が巣穴の周囲を歩いているのを見つけました。背の低い木を揺さぶり、自分で木の実を落としている姿に少年は安堵しました。人間の村で起きた騒ぎも収まり、冬に備えてござ帽子や藁ぐつを編んだり、除雪具の手入れをしたり備蓄の管理にと大忙しのようです。冬に備え知恵を絞る人間達の暮らしぶりも、大好きな秋の光景の一つなのだと、少年は改めて思いました。
すべての生命が厳しい冬を無事に超えられるように、大好きなこの光景がまた次の秋にも繰り返されるように、少年は祈りを込めて森の周囲を見守り続けました。




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