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『雨と鏡と静かな部屋と』



外は雨だった……。

薄暗い部屋で、幼い少女は一人留守番をしていた。少女は母親のアンティークな化粧台の前に座って鏡に映る自分と話す事が好きだった。その日も少女は鏡の前に座っていた。
「うちのママはね、いっつも忙しい忙しいってゆってちっとも遊んでくれないの。」
少女は拗ねた顔をする。鏡の少女も同じように拗ねる。
「今日だってあたしのお誕生日なのにさっ。ホットケーキ焼いてくれるって約束したのに。」
鏡の少女は同じように少女を見つめる。
「ねぇ、あなたのママもお仕事してるの?」
鏡の少女のふりをして少女は話す。
「ううん、うちのママはおうちにいるよ。今ホットケーキ焼いてくれてるんだよ。」
また少女は鏡に向かって話す。
「いいなぁ……。」
と淋しげに呟く。すると、どこからかいい匂いが漂ってきた。聞き慣れた声が響く。
「由香ちゃん? 誰とお話してるの?」
「あっ、ママー!」
なんと鏡像の少女が立ち上がり台所へと駆け出して行く。
「ねぇねぇ、あの子にもホットケーキ焼いてあげて!」
「あの子ってどの子?」
さらに鏡の向こうにエプロン姿の母親が立っている。その手には焼きたてのホットケーキの皿が、美味しそうな湯気を立てている。少女は驚いて振り返った。部屋は薄暗く静かで、少女は一人だった。鏡の向こうの少女が叫んだ。
「ねぇ、おいでよ! こっちへおいで! ママがホットケーキ焼いてくれるって!」
鏡の向こうでは母親が微笑んでいる。手招きしている。そして焼きたてのホットケーキの湯気が揺れている。少女がしきりに呼んでいる。
「うん!」
少女は答えて鏡に手を差し伸べる。鏡像の少女と手が触れた瞬間、少女の姿は音も無く消えた。鏡に映し出されていた親子の姿も消えていた。

開かれたままの鏡は、薄暗い部屋を静かに映している。

雨が激しさを増した。

鍵を開ける音が部屋に響く。母親が帰って来たのだ。
「あら……?」
いつもなら駆け出してきて出迎えてくれる娘が今日は出て来ない。首を傾げながら靴を脱ぐ。
「驚かそうと隠れてるのかしら?」
部屋に入っていく。
「ただいまぁ。由香ちゃん? どこに隠れてるの?」
部屋は静かで薄暗い。明かりを点けて部屋を見回す。
「もう。ホットケーキ焼いてあげないわよ。」
雨音が激しく部屋中に響く。
「また化粧台をいじってたのね。叱られるのが嫌で隠れてるんだわ。」
鏡をそのままにしてまた呼ぶ。
「ほら、いい加減に出て来なさい!」
鏡は静かに、明るくなった部屋を映し続けている。



                        END
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