短編の間へ翠玉館玄関へ

生物室の片隅にアクアリウムを作った。
水槽を見つめて過ごす僕を変わり者扱いしないのは、彼女だけだった。

『生物室のアクアリウム』


 子供の頃から他人と接するのが苦手だった。そんな僕が、どうして非常勤とはいえ教師なんて職に就いたのかと聞かれれば、ただ何となくとしか言いようが無い。僕自身、自分が教師に向いているとは到底思えない。兄の方がよほど向いているだろうと思う。2歳上の兄は無口で陰気な僕と違い、素直で明朗快活で周囲の大人に可愛がられていた。親も始終兄と僕を比較し、僕を失望の目で見た。飼い犬さえも僕には懐かなかった。兄や親には尻尾を振って飛びつくのに、僕には噛みつかんばかりの勢いで吠え飛びかかってくる。親は案の定といった顔をし、兄は何とか懐かせようと必死だったが、その犬は死ぬまで僕には懐かなかった。散歩やら何やらの世話をしなくて済んだのがありがたいと思ったくらいで、死んだ時も特に何の感慨も湧かなかった。
人に従順だという犬にも嫌われた僕は、人とも動物とも接触を避けるようになった。そんな僕が、ある時学校で飼っていた魚に興味を持った。魚はいい。人や犬と違って相手によって態度を変えたりしない。それどころかこちらの存在を意に介していない。水槽に顔を近づけても、媚びを売る事も威嚇する事もなく、ただ悠々と泳いでいる。こちらが邪魔をしなければ、むこうもこちらを気にする事なく泳いでいる。そんな距離感が心地良かった。自分の部屋にも魚が欲しくなり、水槽の管理など全て自分でやる事を条件に小遣いで熱帯魚を買ったのが始まりで、僕は魚を始めとする海洋生物に興味を持った。生物学科のある大学へ進み、そのまま大学院で研究を続けたかったのだが、親は僕にそれ以上お金をかける気はなく就職する事を強いられた。いつか自力で海洋生物を研究したいと思いながらも、生活と研究費を得るためと教職課程を取った。その後教員採用試験を受け、ある私立高校で非常勤の教師として生物を教える事になった。生徒の前に立つのは始めは苦痛だったが、淡々と授業をしていれば生徒達は勝手にノートを取り、あるいは寝ていたり内職していたりと、こちらに干渉してくる事はほとんど無かったのでどうにか続けていられた。職員室にいる方がよほど苦痛だった。非常勤なので担任を持っていないのが救いだったが、教師同士でクラスの成績や生徒からの人気、保護者の評判等などで反目し合っている。意外にも僕の授業は生徒から人気のようで、常勤の生物教師がやっかみ半分に絡んでくるのが面倒臭い。サボっていても注意しないから都合がいいのだろうと言うと、したり顔でそれではいけませんよと言ってくる。気弱なもので、とかわしながら内心放っておいてくれと溜め息を吐く。子供の頃よりは多少人との付き合い方を覚えたつもりだが、それでも苦痛で仕方なかった。担任を持っていないから用事が少ない事もあって次第に職員室へは立ち寄らなくなり、ほとんど使われていない生物準備室で時間を過ごすようになった。標本や資料が劣化しないよう厚いカーテンが下がった生物準備室は、職員室よりずっと居心地が良かった。授業の無い時は準備室で過ごす僕を他の教師や生徒達も変わり者だと言ったが気にならかった。だが生物室も準備室も、標本やレプリカはあるが本物の生き物がいない。生物室とは名ばかりだ、そんな事を思い生物室にアクアリウムを作った。校長の許可を得ず勝手に作ってしまったが、生徒の情操教育に良いとかえって評価された。とはいえ、生徒達はアクアリウムには見向きもしなかったのだが。熱帯を再現した水槽の中を青い小さな魚が泳ぐ様は、日々の煩雑な何もかもを忘れさせてくれる。水槽を眺めて過ごす僕を周囲はやはり変わり者だと言った。けど何と言われても別に気にならなかった。静かな水槽が僕の世界。誰にも邪魔されない穏やかな時間が流れていく、はずだった。
ある日、水槽を見つめている生徒がいた。悪戯をされたのではないかと警戒しながら近づくと、水槽を見つめていた女生徒は振り返った。
「あぁ、河村先生。これ、先生が作ったんですか?」
どうやら悪戯されたわけではないようだと安心し、小さく頷く。
「そうだけど。」
彼女は水槽に視線を戻してこう続けた。
「魚っていいですよね。人間や他の動物と違って、相手によって態度変えたりしなくて。」
同じ事を考える者がいた事に少々驚きながら「そうだな。」とだけ答える。たいてい魚が好きだという人間は見た目の美しさに惹かれる。外見の美しさも魅力の一つだが、コミュニケーションを必要としない点に惹かれるのは僕ぐらいだろうと思っていたのに。しばらく水槽を見つめた後、彼女は僕を振り返った。
「邪魔しちゃってすみません。また見に来てもいいですか?」
「好きにしなよ。」
そう答えると彼女は微笑んで「じゃ、また来ます。」と一礼して生物室を後にする。その時僕の脳内に生じたものを何というのか解らない。ただ、自分が受け持つ生徒である彼女の名字すら知らない事に少し罪悪感を抱き、そんな自分に困惑した。何故「好きにしなよ。」と答えたのかもよく解らなかった。
翌日、1限目の授業に彼女はいた。一番前の席で、居眠りや内職をする事なく、真っ直ぐに黒板を見つめノートを取っている。出席簿を確認すると彼女の名字は天野だと解った。生徒達には出席番号順に座るよう指示しているが、破っても特に何も言わない。だが彼女は律儀に一番前に座っていた。いつも通り淡々と授業を進める。生徒を指名して問題を解かせたり教科書を朗読させるような事はしない。生物の授業には不必要な事だ。授業が終わると生徒達は一目散に出ていくが、天野は少しだけアクアリウムを眺めてから僕に会釈して生物室を出て行った。
不思議な存在だと思った。賑やかなクラスの中にいても周りに関心を示さず、かといって同級生を見下しているわけでもない。天野の周りには彼女と周囲を隔てる水があり、その静かな水の中を悠々と泳いでいる魚のようだった。その後も天野は昼休みや放課後にアクアリウムを眺めに来た。僕がいても気にする事なく一心に水槽を見つめている。僕もそんな彼女を気にする事は無かった。無言で並び水槽を見つめる僕と天野。彼女が滅多に話しかけてこない事もあって、僕は一人きりじゃなくても不快感や窮屈さを感じなかった。そんなある日の放課後、彼女は水槽を見つめたままふと口を開いた。
「先生も何だか魚みたいですよね。こっちにまるっきり関心が無くて、ガラスの向こうにいるみたい。でもそういうの心地いいです。私、先生の授業好きですよ。無駄が無くて解りやすいし、ちょうどいい距離感で。」
何と言っていいか解らず僕は混乱し始めていた。
「サボってても何も言わないからだろ。」
辛うじてそう言うと彼女は相変わらず水槽を見つめたまま答える。
「そう言う子もいますけどね。解ってないんだな、きっと。先生の持つ雰囲気って、居心地いいんですよ。」
そうして僕を振り返ると何故か眩しそうに眼を細めながら「それじゃ、先生。さようなら。またね。」と会釈しながら手を振り去って行った。そういえば天野は授業中サボっていた事など無かったなと思い返す。まずい事を言ってしまったかと思い、そう感じた自分に困惑した。生徒に関心などなかったのに、天野がサボっていない事を知っている。他の生徒の名前と顔はいつまで経っても一致しないのに、彼女の事はすぐ覚えた。あの日以来、水槽の前に天野がいない日は物足りなさを感じるようになった。水槽を眺めて過ごす僕を変わり者扱いしないのは彼女だけだった。天野は僕を魚のようだと言った。僕も天野を魚のようだと思った。僕と彼女は似ているのだろう。水槽を見つめる天野の横顔が、「居心地いいんですよ」という言葉が、脳裏に何度も再生される。会話などほとんど無かったのに、脳内では僕のアクアリウムと彼女が結びついていた。僕が他人に関心を示すなんてと混乱する。だけど、僕の水槽に近付いていいのは彼女だけ。これは確かだ。僕の世界に彼女がいるのはとても心地良く、自然な事だと思えた。僕の水槽に、僕の世界に、新たな彩りを――。

 生物準備室に新しいアクアリウムを作った。誰にも触れさせない、僕だけのアクアリウム、僕だけの世界。見つめているととても穏やかな気持ちになれたけど、何かが足りない。しばらく考えて物足りなさの原因に思い当たる。
「僕が外側にいるからだ。」
僕の世界なのに、外から眺めているのは不自然だ。彼女も言っていた。僕はガラスの向こうにいるようだと。

完成したアクアリウムは、薄暗い生物準備室に静かに佇んでいる。


              END