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『嵐の夜の夢』


 昔々、ある村娘に恋をした風神の若者がいた。若者は常に穏やかな風を吹かせ、娘の傍にいた。戯れに娘を抱きしめては「お前は私のものだ」と囁く事もあったが、人間である娘に風神の若者の姿は見えず、その腕も囁きも娘には届かない。それでも娘が「今日も風が心地好いわ」と呟き微笑むのが、若者の何よりの喜びだった。
だがある時、娘は川を隔てた豪族の村へ嫁ぐ事が決まった。豪族の息子が娘を気に入ったらしく、小さな村は豪族の庇護が受けられると一も二も無く娘を嫁にやる事を決めたのだった。それを知った風神の若者は荒れた。愛しい娘が他の者の手に渡るなど、またそれが娘の意志ではない事が許せなかった。若者の荒れ様は風神の長にも手がつけられないほど凄まじく、日々続く嵐に村中の小屋がそこかしこで倒され、川は氾濫し多くの作物が流された。村人達は「これは何かの祟りだ」と怯え、嵐が鎮まるようにと祈りを捧げ始めたが、見当違いの祈りは若者の怒りを更に煽るだけであった。
嵐が続くある夜。風神の若者は愛しい娘が蓑を被り、川の方へ向かう姿を見かけた。嵐で氾濫する川に近付くなど、死に行くに等しい。若者は慌てて娘の傍に下りた。
「待て! 川に近付くな!」
すると娘はまるでその声が聞こえたかのように立ち止まり、ゆっくりと辺りを見回す。娘の周りだけ、風も雨も治まっていた。
「風神様、もしかしてお傍にいらっしゃるのですか?」
風神の若者は戸惑いながらも娘の前に立った。
「あぁ、私はここにいる。いつでもお前の傍にいるぞ!」
目の前に立つ若者の姿は見えていないようで、娘は暗い空を見上げながら胸の前に手を組んだ。
「どうかお願いです。この嵐を鎮めて下さいまし。このままでは村は壊滅してしまいます。」
若者は娘の手に自分の手を重ね叫ぶ。
「お前はそんな事を願う為に、この嵐の中へ出てきたのか? お前をいいように利用する村など放っておけばよいではないか!」
若者の怒りに呼応するかのように、稲妻が夜空を走る。その瞬間、娘と若者の視線がはっきりと交わった。娘は驚きと「やはり」といった確信も浮かべた表情で若者を見上げた。
「風神様……。」
自分の姿が娘に見えている事に気付き、若者は尚も叫ぶ。
「あぁ。私はいつもお前を見ていた。働き者で誠実なお前が、理不尽な婚姻をさせられるのが我慢ならないのだ! 私ならお前を自由に、幸せにしてやれる。私の下に来い!」
思いもよらぬ言葉に娘は目を見開き、頬に紅葉を散らした。
「私なぞにそのようなお言葉……。私は何も持たないただの娘、生まれ育った村の為に生きるのが定めでございます。」
「何も持たぬなどと。お前は慈しみの心も嘘の無い誠実さも、誰もが愛おしむ美しさも持ち合わせているではないか!」
娘は「畏れ多い事」と言いながら首を振った。
「美徳や心持ちは、自分以外の誰かの為にあるものでございましょう。戦も起きようとしている大変な世の中で、私をここまで育てて下さった父様と母様に、恩返しができる事が私の幸せでございます。」
「お前はそれで良いのか? 自分の為に生きる事が、お前の幸せなのではないか?」
娘はゆっくりと微笑んだ。
「私を必要として下さる方がいる、誰かの幸せに私が関わっている、それは私にとって大きな幸せでございます。私は独りぼっちではないと感じられるのですから。」
娘の言葉が真の想いからのものである事を感じ、風神の若者は娘を更に愛しく思った。若者は俯き悲しげに呟く。
「私は人として生まれお前と出逢いたかった。」
「そのような悲しい事をおっしゃらないで下さい。畏れながら、私の幸せに風神様も関わっていらっしゃいます。」
若者はそっと顔を上げる。娘は花の如く微笑み言葉を続けた。
「いつも私の周りに優しい風を吹かせて下さっていたのは、風神様なのでしょう? 私はとても幸せな気持ちになれたのです。」
「それしきの事、私は、ただ……。」
頬を紅潮させ言葉に詰まった若者に、娘は微笑んだ。
「ありがとうございます。この嵐も、私の事を思って下さって起こされたのでしょう?」
「すまなかった。私は、己の事しか考えていなかったのだ。」
再び俯いた若者に、娘は大きく首を振った。
「この嵐が無ければ、風神様にこれほど想われていると知る事は出来ませんでした。風神様の想いに触れられて私は幸せでございます。」
娘は若者の目を見つめ言葉を続けた。
「どうかお怒りを鎮めて下さいまし。私は充分に幸せでございます。」
「あぁ、本当にすまなかった。」
若者が天を仰ぐと、空を覆っていた暗い雲がゆっくりと晴れていく。木々を唸らせていた風が穏やかなものに変わり、川を暴れさせていた雨は、静かな音を立て霧雨となりやがて止んだ。若者は娘の手を取り言葉を続けた。
「もうじき夜が明ける。お前の家まで送ろう。」
東の空に光が射し始めていた。若者は娘の背に腕を回し静かに抱き寄せる。右手を空に掲げると一陣の風が吹き、若者と娘の身体を空へゆっくりと浮き上がらせた。鳥の如く空を飛ぶ不可思議な体験と、上空から見る朝焼けの美しさに娘は感嘆の声をもらす。瞬く間に娘の家に着くと、若者は名残惜しげに腕を離し娘の目を見つめた。
「今夜の事をお前は忘れてしまうだろう。私達とお前達は本来、目見えてはならない定め。」
「忘れたりなど致しませぬ。」
首を振った娘に若者は淋しげに微笑む。
「その言葉だけで、私は大いに幸せだ。」
娘の手を若者の手がそっと包む。
「これから全身全霊かけてお前を守る。あのようなやり方ではなく、お前とお前の幸せに関わるものを慈しみ守ると誓う。」
娘の目から若者の姿が薄れ消えていく。
「風神様!」
「愛しき娘よ、幸せであれ……。」
暖かい風が吹き抜け、娘の髪を乱す。重ねた手の温もり、空を飛んだ時の力強い腕、嵐に込められた風神の想い、記憶の中から今にも消えそうなそれらを失わぬように、娘は己の肩を抱き床へ急いだ。

 風神の里へ戻った若者を、幼馴染みの雷神の若者が待っていた。事の顛末を知り満足げな雷神の笑みに、風神は溜め息をもらす。
「やはりお前か。私とあの娘が話せるよう仕組んだのは。」
「仕組んだとは人聞きの悪い。お前が余りにも報われない想いを抱えているから、手を貸してやったまでだ。」
「定めに反する事をして、どうなっても知らぬぞ。」
雷神は大仰に両手を振り風神の肩に手をかけた。
「友達甲斐の無い輩だ。お前こそ、独りよがりな嵐を起こして長達から罰せられる所だったのだぞ。」
はっとした表情で風神は肩を落とす。
「私は何と未熟なのか……。」
落ち込む風神をなだめるように雷神は笑う。
「思い込んだら一直線なのがお前の美点だ、気にするでない。」
ではまたな、と手を振り自分の里へ向かった雷神を見送り、風神は地上を振り返る。
「誰かの幸せに関われる事が自分にとっても幸せ、か……。」

 嵐の続いた日々から月日は流れ、娘の婚姻の日が訪れた。豪族の息子は村にやって来た娘を見つめ満足げに頷く。
「やはり美しい。お前を傍に置いておける私は、何と幸福なのだろう。」
娘が微笑み返した時、空から風花が舞う。
「見よ、天も我々を祝福している。」
「あ……。」
その言葉に、娘の心に忘れていた温かい何かがよぎる。正体の掴めぬそれは、娘を安堵させ喜びで満たす。娘の目から一筋の涙が零れる。
「どうした? 何を泣く事がある?」
狼狽える豪族の息子に、娘は首を振り微笑んだ。
「いいえ、嬉しいのでございます。私は幸せ者です。」

温かい風と共に、風花がいつまでも煌めいていた。


                         END


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