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『時の番人が守るもの』

「何で、ここに……。」
「来ると思ってた。」
深夜の研究所に忍び込んだ俺の前に現れたのは、所長の娘で妻でもある理香子さんだった。唖然として立ち尽くす俺に彼女は冷静な声で告げる。
「研究所の物は所員であっても私用での利用は禁じられている。あなたが知らないはず無いわね? 春彦君。」

 タイムマシンの開発に取り組むと決めたのは、大学在学中のことだった。当時交際していたのは理香子さんではなく、友人の紹介で出会った佐野真理という同い年の女性だった。俺はその頃からタイムマシンに興味を持ち、実現出来ないかと研究を進めていた。だが真理には理解してもらえず、研究に時間を費やす俺と喧嘩ばかりするようになっていた。ある日、待ち合わせの時間に大幅に遅れた俺に腹を立てた真理は、俺の謝罪も言い訳も聞かず背を向けて走り去ってしまった。その先で交通事故に遭い、搬送先の病院で亡くなったのだ。その事故に俺はずっと責任を感じていた。もっと早く待ち合わせ場所に着いていれば、もっと真理の気持ちを大事にしてやっていれば。失ってから気付くとはまさにこの事だと思い知った。研究に没頭し一緒にいる時間を取れなかった。淋しがっていただろう。俺自身も、真理といる時は安らげていたのに。どうしてもっと大事にしてあげなかったのか。それから俺は真剣にタイムマシンの開発に取り組むようになった。あの日に戻って、ちゃんと約束の時間を守って、それからはもっと彼女との時間を大事にしようと決めた。そうして4年生になった時、先輩がタイム マシンの研究をしている研究所を紹介してくれた。先輩の父親が所長を務めているという。その先輩が今の妻、理香子さんだ。卒業と同時に入所して、タイムマシンの研究開発に没頭した。所長は俺の技術や熱意を高く買ってくれた。瞬く間に開発チームの中心メンバーになった俺に、タイムマシン実現の夢を、この研究所を託したいとまで言ってくれた。そうして、俺に時期所長を任せたいという話を持ち掛けられた。条件は同じく施設の研究者でもある一人娘の理香子さんとの結婚だった。同席していた理香子さんのその時の顔を俺はよく覚えていない。彼女は先輩で、尊敬できる研究者で、だけどそれ以上の気持ちは何も無かった。俺は悩んだ。結婚してしまったら、過去を変えて真理の事故を無かった事に出来ても、真理との未来は望めない。だけど、ここで縁談を断れば研究所に居づらくなるだろう。ここの設備は充実しているし、何よりタイムマシンの開発に真剣に取り組んでいる場所を俺は他に知らなかった。俺一人では到底マシンの開発は不可能。だけどマシンを完成させて過去を変えられれば、この縁談を回避出来るかもしれない。悩んだ末に俺は縁談を受け入れた。大学の先輩で上司の娘との結婚生活、複雑な立場に俺はいたたまれなくなった。俺には恵まれた研究環境さえあれば良かった。理香子さんはどうか知らないが、俺の方には愛情はほとんどない。人として研究者として尊敬はしているが、それだけだ。恋愛感情はどうしても沸かなかったし、何より俺には真理を救いたいという想いがあって、他の女性に気持ちが行くはずもなかった。だが、はたから見れば似合いの夫婦だという。俺には解らなかった。理香子さんだって、俺を学生時代から知っているとはいえ、親が決めた結婚相手なんて愛せないだろうと思った。義父の手前、夫婦らしく振る舞っていたが、そこに愛情は無かった。といっても理香子さんを嫌いなわけではないから、冷えた夫婦とは言えないかもしれない。似合いの夫婦に見えるのは、科学者同士で理解し合っているという面もあるだろうか。
そんな奇妙な結婚生活を送って数年経った時、理香子さんから子供が出来たと告げられた時には驚いた。義父から孫の誕生を期待されていたし、夫婦らしく振る舞うならそういう事も必要だろうと思ってはいたが、理香子さんが開発チームから抜けるのは痛手だなと思った。けれど、今まで見た事のない不安げな顔をした理香 子さんにそんな事は言えず、俺は彼女を労り開発の事は心配しないでと告げた。理香子さんの表情は晴れなかった。その日から、理香子さんが抜ける穴を埋める意味でも俺は開発に打ち込んだ。早くタイムマシンを実現させて、真理との未来を目指そうと、そして理香子さんを早く俺から解放してあげなければと思っていた。父親や研究所の為に自分の人生を犠牲にする必要はないのだ。
それから数年。タイムマシンは完成した。数百回に及ぶ起動実験の結果、思い通りの過去へ行ける事と、過去に留まり続ける事は出来ない事が解った。制限時間を超えると強制的に現在に戻って来てしまう。だが俺にはそれで充分だった。あの日に戻った時の事をシュミレートし、どういう行動を取ればいいか、万が一行動が制限された時の回避法を何パターンも用意してある。だがこの成果を世界に向けて発表する前に、いくつもの規約が定められた。過去に干渉してはならないというのが最重要項目として定められた。起動実験中も、過去では傍観者に徹しなければならなかった。俺は不思議に思った。何の為にタイムマシンを開発するのだ。過去をやり直す為ではないのか。そう考えるのは研究所の中で俺一人だけのようだった。ならば密かに過去へ行ってしまえばいい。過去が俺の思い通りに変われば、この研究所に俺がいる現在は無くなるだろう。誰も俺が規約を破った事には気付かないはずだ。そう考えて、深夜の研究所に忍び込んだ。いくつものセキュリティーを解除しマシンがある部屋へ向かう。最後の扉を開けると、そこには理香子さんがいた。
「何で、ここに……。」
「来ると思ってた。」
唖然として立ち尽くす俺に彼女は冷静な声で告げる。
「研究所の物は所員であっても私用での利用は禁じられている。あなたが知らないはず無いわね? 春彦君。」
「それは、知っている。けれど俺は過去へ行く必要があるんだ。」
「何の為に?」
「俺のせいで死んでしまった恋人を助けたいんだ。」
「彼女を助けて、それでどうするの?」
「彼女を傷付けてきた事を詫びて、彼女を大事にする。彼女と約束した未来を作るんだ!」
真理の事を想い返し声を絞ると、理香子さんは悲しそうに笑う。
「私の前でそれを言うのね。」
その言葉と悲しい笑みの意味を捕えかねて俺は困惑する。理香子さんは悲しげな笑みを浮かべたまま俺を見据えた。
「過去を変えてもあなたの記憶はこの現在のままなのに、周囲は何もかも違っている。あなたが手に入れた理想の未来は改竄した偽りのものだと、あなただけが知っている。あなたはそれに耐えられる?」
俺は言葉に詰まった。過去に居続ける事が出来ないのなら、現在に戻ってきた俺の記憶まで変わっているとは考えにくい。俺は必死に言葉を探した。
「だけど、俺が約束を破らなければ彼女は死なずに済んだ。彼女が死んでしまった事は、理香子さんの未来も変えてしまったんだ。彼女が死ななければ、俺なんかと結婚せずに済んだのに。」
理香子さんの顔から笑みが消えて悲しみだけが残る。何でそんな顔をするんだろう。
「でもそのお陰であなたはこの施設の次期所長としてタイムマシンの開発に全てをかける事が出来た。彼女と付き合う前からタイムマシン開発に興味を持っていたんでしょう? それに父はあなたの能力や熱意を本当に買っていたから、あなたに施設の今後を任せると決めた。一人娘の私の事も。未来を約束した恋人を亡くして、今のあなたは幸せじゃないのかもしれない。でもこの充実した設備を持つ研究所の次期所長という得る物がある。それを捨ててでも過去を変える価値はあるの?」
理香子さんの表情は泣いているように見えた。涙は流れていないのに、目を潤ませてもいないのに、とても悲しい泣き顔に見えた。彼女にそんな顔をさせているのは、他でもない俺なのだ。
「あなたにとって私は研究環境を得る為の存在に過ぎないんでしょう。結婚してもあなたは私の事を見ようともしない。だから私もあなたを見ないように心掛けてた。あなたの熱意を邪魔したくなかったから。和馬が生まれても、あなたの前では形だけの夫婦を演じてた。でも、もう限界。どうして私があなたを研究所へ誘ったんだと思う? どうして父に推されるままにあなたと結婚したんだと思う? 私はあなたが好きなのよ。あなたが過去を変えたら、あの子は生まれない。お願い、あの子を消さないで!」
理香子さんの悲痛な声が刺さる。気丈な人だと、尊敬できる人だとしか見ていなかった。俺なんかより相応しい人がいるだろうに。だけど彼女は俺を選んだ。俺が真理と付き合うよりも前から俺を見ていた。結婚してからも、俺が開発に専念出来るように取り計らってくれた。死んでしまった恋人を救う為とマシンの開発に打ち込む俺を、どんな想いで見ていたのだろう。マシンの前に番人のように立ちふさがっていた理香子さんの身体がゆらりと倒れて、俺は慌てて駆け寄った。理香子さんの身体を支えながら、彼女のポケットから落ちた物を拾いあげる。それは、息子の和馬が生まれた時に撮った写真だった。この子も将来科学者になるのかと、それならきっと優秀な科学者になるに違いないと笑い合った事、次は娘だなと気の早い事を言って笑う義父を笑いながら諌めた事を思い出す。理香子さんはこの写真を大事に持っていたんだ。俺は一体何を見ていたのだろう。目の前しか見ず、真理の事もそうやって傷付けて散々泣かせていたのに、俺はまた同じ過ちを犯そうとしていた。
「ごめん……。」
固く握られた理香子さんの手をそっと握る。閉じられた指をゆっくり開いて彼女は俺の手を握り返した。俺が守り築き上げていくのは、この手と、この手が抱くもの達とで作る未来だ。

時の番人が守ったのは過去だけでなく、未来へ繋がる愛――


                    END


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