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あの日あの時、あの電話をかけていなかったら、今頃どうなっていただろう。

『Calling』

 それは携帯電話が普及し始めた頃の事。
行きつけの小さなバーにはガラス張りのレトロな電話ボックスがあった。2人がけの席を設置できそうなスペースを占領する電話ボックスを、僕はずっと不思議に思っていた。携帯電話の普及で電話ボックスを利用する人は減っているし、スペースの無駄だと思うんだが。マスターにそう言うと「あの良さがわからないとは、お客さんもすっかり現代人ですねぇ。」 と笑うばかり。たしかにバーの雰囲気には似合っているんだけど。
付き合って1年になる恋人の紗希をバーに誘ったある日、電話ボックスを話題にすると彼女はレトロな外観を気に入ったようだった。
「いいじゃない、私こういうの好きよ。」
紗希の言葉を聞きつけたマスターが嬉しそうに笑う。
「お嬢さん、いい趣味をしていらっしゃる。」
僕の彼女だから当然だよ、という軽い冗談をマスターは華麗にスルーして紗希の前にカシスソーダを置く。
「あれはちょっと不思議な謂れがあるんですよ。」
そんな事初めて聞くぞ。
「私、そういうお話大好きなんです。」
目を輝かせる紗希にマスターは得意げな笑みを浮かべた。
「あの電話から恋人に向けて留守電メッセージを録音すると、2人にとって必要な時にそのメッセージが聞けるんです。聞けた恋人達は必ず幸せになれるんですよ。」
「どういう事?」
首を傾げる僕に視線を移すとマスターは話を続ける。
「留守電を入れてもすぐには聞けないんです。そして運命に繋がれていない恋人達には永遠に聞けないそうですよ。メッセージを預かったあの電話が、聞かせる必要が無いと判断したという事なんでしょうね。」
「不思議な話ね。」
僕を見つめて紗希は電話ボックスを指差した。
「明彦君、私達もやってみない?」
「えぇ?」
馴染みのマスターを信用しないわけじゃないけど、電話自身がメッセージを伝えるかどうか判断するなんて余りにも非現実的な話だ。全く疑っていない紗希の順応性の高さに少々呆れながらも、特に断る理由も思い付かなかったから話に乗る事にした。
「どうすればいいんですか? マスター。」
「恋人の携帯電話なり自宅の電話なりにかけて、留守番電話へ想いを込めてメッセージを録音して下さい。それから、何を言ったのかを相手に話してはいけません。お2人が結ばれる運命なら、いずれ必ず聞ける日が来ます。」
「じゃ、私先にやってみるね。」
財布を手に嬉々として紗希は電話ボックスに入って行く。僕はジントニックを飲みながらマスターに問い掛ける。
「その話、本当なの?」
「信じる方が素敵で面白いじゃないですか。ロマンですよ。」
「ロマンねぇ。」
しばらくして戻って来た紗希は僕をつつく。
「ほら、明彦君も早く。」
「わかったよ。」
女の子ってこういうの好きだよなぁと思いつつ、財布からもう使う事も無いだろうと思っていたテレホンカードを引っ張り出す。捨てなくて良かった。紗希の携帯の番号を押すとすぐ留守番電話サービスに繋がった。そういえば、紗希がかけていた時も僕の携帯は鳴らなかった。圏外じゃないのにどうしてだろう。自分の携帯の電波を確認してる間に音声ガイダンスが終わり慌てて受話器を握り直す。留守電は苦手だ。何を言おうか考える。営業先で出会って一目惚れし紗希。仕事以外のやり取りをするようになって、僕から口説いて付き合い始めて1年が過ぎた。これからもずっと、生涯一緒にいたいと思う人だ。このメッセージを聞く必要のある時ってどんな時だろう? もしかしたら2人にとって試練の時なんだろうか。たとえ何があっても僕らは乗り越えていけると信じてる。ずっと一緒にいよう。そんな気持ちを込めてメッセージを吹き込んだ。信じていないくせに真面目に喋ってる自分に恥ずかしくなる。照れ臭さと留守電独特の緊張が重なってつっかえつっかえになったけどどうにか録音を済ませて席へ戻った。
「ずいぶん長い事話してたね。」
「留守電は苦手なんだよ。」
他愛ないやり取りをする僕らをマスターが微笑んで見つめていた。

 それから数年が経ち、僕はそのメッセージの事は忘れて日々を過ごしていた。互いに仕事は忙しかったけど、まめにデートしたり電話やメールを交わしていた。そんなある日、僕は職場の友人と新しい事業を始める事になり、結婚資金として貯めていたお金をそっちへまわさなきゃいけなくなった。紗希は少しがっかりしたようだったけど、やりがいのありそうな仕事できっと上手く行くと説得して頷いてくれた。「頑張って。」と励ましてくれた微笑みが眩しくて、申し訳なくなったけど、絶対に事業を成功させて彼女を幸せにしようと誓った。新しい仕事の準備にかかり始めると僕はますます忙しくなっていった。紗希と会う時間は減っていて淋しい想いをさせていたし、僕も会いたくてたまらない時があった。この仕事が安定したら、彼女にプロポーズしようと決めていた。彼女も僕のそんな気持ちをうすうす察していてくれていたと思う。もう少し頑張れば彼女と一緒になれる、そう自分に言い聞かせて多忙な日々を乗り切っていた。僕も紗希も、この先に幸せな未来があると信じて疑わなかった。だが、それは思い込みだったと知る事になる。
間もなく開業というある日、借りたばかりの事務所が無くなっていたのだ。入り口の鍵は僕の持っている鍵では開かなくなっている。どういう事だ? 窓から中を覗くと運び込んだはずの机や棚も一切が無くなりがらんどうになっている。入り口に戻ると事務所の看板も無くなっている事に気付く。慌てて友人に電話をかけたが、その番号は使われていないというアナウンスが流れてくるばかり。メールもエラーで返ってくる。何が起きたのかさっぱりわからなかった。ビルの管理人に問い合わせると、事務所を移転する事になったと昨日急に引き払って行ったらしい。僕らの共通の友人に連絡を取ってみる。しばらくして連絡が取れた友人から衝撃的な事を聞かされた。事業を起こすなどとは真っ赤な嘘で、借金を抱えていた彼は周囲の友人知人から金を騙し取り姿を消したのだという。電話の向こうで自分も同じように騙されたのだと怒る彼に何と言って電話を切ったのか覚えていない。目の前が真っ暗になった。貯金も職も一気に失った。真っ先に浮かんだのは紗希の事だった。淋しさや不安を堪えて応援してくれていたのに、こんな結末になったと知ったら一体彼女はどんな顔をするだろう。これからは独立しなきゃと大見栄を切った自分が恥ずかしい。紗希との時間もお金もつぎ込んで未来にかけたのに。取り戻せない。これまでの時間もお金も、そして恐らく僕に対する紗希の信頼も。騙したあいつが悪いのだけど、紗希には関係の無い事だ。これからの失意の日々に彼女を巻き込むわけにはいかない。全てを失った僕といる事は、彼女の為にならない。だけど別れを告げる勇気が出ない。全て放り投げて消えたくなった自分が情けなくて立ち尽くす。僕はどうしたらいいんだろう。いっそこのまま本当に消えてしまおうか。そんな無責任な事を考えながら、ふらふらと歩道橋に上がって国道を見下ろした。交通量の多い国道を見下ろしていると取り残されたような気分が増してくる。吸い寄せられるように見下ろしていると不意に電話が鳴った。呆然としたまま相手を確認せずに出る。
「……もしもし?」
「1件の、新しいメッセージがあります。」
「え?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、耳慣れた留守電サービスのアナウンスだった。けど、なんで向こうからかかってくるんだ? 更に驚いたのは発信音の後に聞こえて来た声。
「明彦君。」
紗希の声だった。仕事中の紗希が電話をかけてくるなんてあり得ない。何かあったのか。不安になって耳を済ませると、紗希の穏やかな声が聞こえてくる。何かあったのかという僕の問いに答えず、紗希はゆっくりと幸せそうに喋っている。未来の理想と自分への彼女の信頼と愛情、何があっても私達は大丈夫だという言葉に涙が滲んだ。そして背後に微かに聞こえた音楽は、昔行きつけだったバーで流れていた音楽だ。メッセージの最後に紗希が言った日付は、数年前に始めて紗希をバーへ連れて行ったあの日のものだった。マスターが語った不思議な話を思い出す。運命の恋人にしか聞けない留守電メッセージ。それがきっとこれなんだ。もしかしたら紗希も今頃僕のあの日のメッセージを聞いているんだろうか? 彼女に会いたい。会って起きた事を全て話そう。メッセージを聞き終えると、僕は紗希の休憩時間を見計らって電話をかけた。

 あの日あの時、あの電話をかけていなかったら、今頃どうなっていただろう。
結婚式を間近に控えたある日、僕らは久しぶりにあのバーへ行く事にした。不思議な話を聞かせてくれたマスターと、あの電話ボックスに僕らの今の幸せと感謝を伝えよう。路地を曲がって2人でバーの扉をくぐる。まるで時間が止まっているような、変わらないマスターの笑みとレトロな電話ボックスが僕らを優しく迎えてくれた。


                            END


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