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『Favor』

「何だあれは?」
昨夜までの嵐が嘘のように収まり、日課の散歩に出かけた浜辺でモーリオスは訝し気に呟く。波打ち際に倒れている小さな人影があった。そっと近づきのぞき込むと幼い女の子だとわかる。髪から全身ずぶ濡れで倒れており、周囲には丸太や板切れが散乱していた。船で嵐に遭い流されてきたのだろうか。
「おい、しっかりしろ。」
軽く頬を叩き呼びかけるが反応はない。人を呼ぼうとしたが辺りには誰もいなかった。散歩中に人と会うのが嫌で、早朝に人気のないここへ来るようにしたのだ。やれやれと首を振り、静かに少女の身体を仰向けにして呼吸と脈を確かめる。どちらも正常だ。擦り傷がいくつかあるものの大きな外傷は見当たらない。医者に診せるべきだろうと考えため息を吐いた。他に人はいないし人を呼ぶ手立ても無い。面倒な事になったと思うものの、そのまま捨て置くわけにもいかず、モーリオスはそっと少女を抱き上げた。白い簡素なワンピースが水を吸っているものの、思いのほか軽い。額に張り付いた黒髪をそっと払う。歳は十代前半くらいだろうか。顔色が良くないのをのぞけば、取り立てて特徴の無いどこにでもいそうな女の子だ。街へ向かって静かに歩きながら考える。おそらく乗っていた船が嵐に遭い、板切れにでもつかまってあの浜に流れついたのだろう。だが、質素な身なりの子供が船に乗る状況を、モーリオスには思い付けなかった。馴染みの医院に辿り着くと肩で扉を押し開ける。受付にいた医師のカシューが顔を上げた。
「おや、旦那。こんな時間にお珍しい。そのお子さんは? お孫さんですか?」
「馬鹿言ってないで診てやってくれ。浜辺に倒れていたんだ。嵐で難破したらしい。」
「何ですって?」
モーリオスの言葉に笑いを引っ込めると、カシューは少女を診察台に寝かせ脈と呼吸、瞳孔を確認し診察を進める。
「後は任せたぞ。」
「ちょっと待って下さい!」
立ち去ろうとしたモーリオスの腕を勢いよく引き呼び止める。
「任されても困りますよ。最後まで面倒見てあげて下さい。」
「何で私が?」
「旦那が連れてきた子でしょう。」
「私は保護者じゃない。」
「私も違いますよ。」
「ここにはベッドがあるんだし、医者のあんたがついていれば問題ないだろう。」
「お言葉ですがここは小さな診療所なのでベッドは今いっぱいなんですよ。旦那のお屋敷ならベッドの一つや二ついくらでも余っているでしょう。」
「連れて帰れと言うのか?」
「無論です。それともこのかわいそうな子を放り出すんですか? 嵐の海に投げ出され、やっとの思いで陸に辿り着いたというのに、またしても放り出されるなんて何という悲劇!」
芝居がかった仕草で顔を覆い大仰に嘆いてみせるカシューに、モーリオスはため息を吐く。
「わかったからそう騒ぐな。」
「あぁ、やはり神はいらっしゃったのだ!」
「いいからさっさと診察を済ませろ。私は忙しいのだ。」
「えぇ、えぇ。わかってますとも。おや、何だろうこれは?」
診察を再開し傷の手当てをしていたカシューは怪訝な顔で少女の足首を見つめている。
「どうした?」
「これを見て下さい。」
カシューが示した足首には他とは明らかに異なる傷痕があった。足首をぐるりと一周する痕。拘束の跡を思わせるその傷は、言いようのない不快感を二人に沸き起こさせる。
「この子を、旦那のお屋敷へ連れて行ってあげて下さい。」
カシューの真摯な眼差しにモーリオスは無言で頷く。ホッとした口調でカシューはカルテを書きながら言葉を続ける。
「大きな外傷はないですし、脈も呼吸も正常です。命に別状はないでしょう。恐らく嵐の海に落ちたショックと、漂流した疲労で眠り込んでいるのだと思います。目が覚めて彼女が動けるようなら、もう一度ここへ連れて来て頂けますか。再度診察して、それから親元なりなんなりへ帰す手立てを考えましょう。今日の診察代もその時にお願いしますよ。」
「私が払うのか?」
「他に誰がいるんです? それとも、このいたいけな子に診察代を要求しろとおっしゃるのですか?」
再び大仰な仕草で天を仰ぎ嘆いてみせるカシューにモーリオスは仏頂面で答えた。
「請求書を書いておけ。後で使いの者に持ってこさせる。」
ペンを走らせるカシューにため息を吐きながら告げる。
「それから馬車を呼んでくれ。子供を抱えて歩いている所なぞ見られたら敵わん。」
「かしこまりました。馬車代も請求に加えておきますね。」
カシューから着替えさせるようにと渡された子供用衣類の入った袋を見つめ、面倒な事になったと嘆息をもらしながら、モーリオスは馬車の到着を待った。
「おかえりなさいませ、旦那様。馬車でお戻りとは珍しいですね。あら、そのお子さんは……?」
散歩から戻った主を出迎えたメイドのマーシルは、困惑した顔でモーリオスに抱えられた子供を見つめる。
「浜辺で倒れていたのを見つけて医者に診せてきた。命に別状はないようだ。医院のベッドはいっぱいだからうちで保護してくれと言われて仕方なく連れてきた。適当な部屋に寝かせてやれ。」
「かしこまりました。まぁまぁ、こんな小さな子が浜で倒れていたなんて、いったいどうしたのかしら。かわいそうに……。」
たちまち痛ましげな顔になったマーシルに抱えた子供を託す。着替えの入った袋も渡すと、やっと肩の荷が下りたと伸びをしながら自室へ向かった。後はマーシルに任せておけばいいだろうと、朝食を済ませ仕事に向かう。だが、事態は思いもよらない方向へ向かっていた。
「旦那様、大変です!」
「何だ、騒々しい。」
その夜。仕事から戻ったモーリオスを慌ただしくマーシルが迎える。屋敷仕えも長くめったな事では動じない彼女がここまで慌てふためくのも珍しい。
「今朝のお嬢さんが目を覚ましたんです。」
「そうか、それなら良かったじゃないか。」
「それが、その……。」
困り果てて言葉を濁すマーシルに詰め寄る。
「何だ、はっきり言え。」
「名前や出身を聞いても、浜に辿り着くまでの事を聞いても『何も覚えていない』と言うんです……。」
「何だと? 自分の名前すら覚えていないとはどういう事だ?」
「記憶喪失というものでしょうか。」
「馬鹿な。家出したか何かで素性を明らかにしたくないのだろう。私が話す。案内しろ。」
荒々しくマーシルの後を歩く。助けてやった上に部屋まで用意してやったのに、名乗りもしないとは恩知らずなガキだと憤る。マーシルが突き当りの部屋で立ち止まり扉をノックした。
「入ってもいいかしら? 屋敷の主が帰ってきたの。」
「は、はい。どうぞ。」
緊張気味の返事が聞こえると同時に、モーリオスはマーシルを押し退け部屋に入った。大きな枕に上半身を預け座っていた少女は、慌ててベッドから降りモーリオスを見上げる。
「私を助けて頂いたそうで、ありがとうございます!」
真摯な口調で深々と頭を下げられ、怒鳴りつけてやろうとしていたモーリオスは鼻白む。咳払いを一つして呼吸を整えると、少女を見下ろした。
「そのくらい、たいした事ではない。私は貿易商をしているモーリオスという。それで、何も覚えていないと言ったそうだがどういう事だ?」
顔を上げた少女は不安げな目でモーリオスを見つめた。
「自分の名前も、どこに住んでいたのかも、どうして浜辺で倒れていたのかも、何も思い出せないのです。どうして思い出せないのかもわからないのです。」
モーリオスは今日何度目かのため息を吐いた。真っ直ぐに自分を見つめる少女の不安そうな目は、嘘を言っている目ではないと感じる。
「体調はどうだ、動けるか? 今朝お前を診た医者に、明日もう一度診察させようと思う。」
彼女が目を覚ましたらもう一度連れてくるように言われていたし、医者なら何らかの回復手段を講じるだろう。少女が頷いたのを見て、彼女とマーシルに告げる。
「では明日の朝一番に診療所へ行くから支度を整えておくように。」

「記憶喪失ですか。」
モーリオスの話を聞きカシューは眉根を寄せる。カルテを開くカシューにモーリオスは詰め寄った。
「どうすれば治るんだ?」
「こればっかりはねぇ……。」
「何だ。あんたは医者だろう?」
「無茶を言わんで下さい。記憶喪失、全健忘ともいいますが、これは心因性のものが多いのです。自然に思い出すのを待つしかありません。」
カシューの言葉にモーリオスは少女を見下ろす。
「ここに来るまでの間に何か思い出せたか?」
申し訳なさそうに目を伏せ、首を振る少女にモーリオスはため息を吐いた。
「全く……。」
「まぁまぁ、そう怖い顔なさらずに。異国の言葉で話されたらどうしようかと思いましたが、言葉が通じるなら何とでもなります。忘れているのは自分に関する事だけですし、一般的な常識や知識は年齢相応にあるはずですよ。」
カシューの言葉に嫌な予感を抱きモーリオスは眉間にしわを寄せる。
「私にどうしろと言うのだ?」
にっこり笑ってカシューはモーリオスを見つめた。
「記憶が無い事以外に異常はありません。漂流したので疲弊していますがすぐに回復するでしょう。マーシルさんが言ってましたよ、『お屋敷にもう一人くらい人手が欲しい』って。」
モーリオスはますます眉間に深くしわを寄せる。
「私の屋敷に置けと言うのか?」
「それ以外にどうするんです?」
「役人に任せればいいだろう。」
仏頂面のモーリオスの腕を引きカシューは声を潜めた。
「彼女の足首の傷をお忘れですか? 役人に任せるのが最善とは思えません。」
深いため息を吐くモーリオスを尻目に、カシューはにこやかに少女に話しかけた。
「おそらく君は、何か怖い目に遭ったり辛い事があったりして、一時的に記憶を無くしてしまったんだと思う。時間をかけてゆっくり思い出していけばいい。その間はこのおじさんが君の面倒を見てくれるから。」
仏頂面で立っているモーリオスを少女は不安げに見つめる。
「でも、そんなのご迷惑ですよね?」
「このおじさんはお金持ちだから気にしなくて大丈夫だよ。」
「あんたは黙ってろ。」
カシューを押し退けるとモーリオスは少女を見据える。昨夜彼女が目を覚ましてからここへ来るまでのやり取りで、礼儀作法はそれなりに身についているようだと感じる。知識や教養がどれほどあるのかわからないが、何かの役には立つだろう。倒れていたのを助けてやり診察代も出してやるのだから、屋敷の雑用くらいさせてもよいのではないかと考える。
「お前の記憶が戻るまでは屋敷に置いてやる。その代わりマーシルの指示に従って屋敷の仕事を覚えろ。」
「お世話になってもよいのですか?」
「記憶も金もない子供を放り出すわけにもいかんだろう。」
「ありがとうございます。精一杯お役に立ちます。」
立ち上がり深々と頭を下げた少女に「では帰るぞ」と促すと、カシューがモーリオスの袖をそっと引いた。
「旦那、彼女に仮初の名前を付けてあげたらいかがです?」
「名前?」
「えぇ。可憐な女の子を『おい』だの『お前』だのと呼ぶのはあまりにも不憫ですよ。」
少女に目を向けると緊張と期待の入り混じった目で見つめ返してくる。やれやれと溜め息を吐くとぼそりと呟いた。
「……ティニー。」
「いいですねぇ。どんな由来があるんです?」
「昔、飼っていた猫の名だ。」
「猫ですか……。」
「あんたの意見は聞いとらん。おい、気に食わんか。」
モーリオスが見下ろすと少女は勢いよく首を振った。
「いいえ、とってもきれいです。それに、名前を付けるといってまっ先に思い出すってことは、その猫さんをとても大事に想ってらしたのですよね? そんな名前を頂けるなんてとっても光栄です。」
面白い考え方をするものだとモーリオスは感心する。前向きなのは良い事だ。それに、その猫を可愛がっていたのは事実だった。猫の名と聞いて呆れたカシューよりも見所があるかもしれない。
「では帰るぞ。身体の具合はいいのか? 動き回れるようならすぐにマーシルに屋敷の仕事を教われ。」
「はい、大丈夫です。よろしくお願い致します。」
屋敷に戻りティニーをしばらく雇うと伝えると、マーシルは喜々としてティニーの手を取り屋敷を案内し始めた。マーシルに任せておけば大丈夫だろうという予測通り、ティニーは数日で仕事を覚えモーリオスを感心させた。街の人々はティニーがモーリオスの屋敷の新入りメイドと知ると幼くも礼儀正しい彼女を可愛がり、しきりに「旦那様は怖いだろう」と同情を寄せる。自分にも他人にも厳しいモーリオスにとって周囲から「怖い人」と言われるのは日常茶飯事だったが、ティニーには不思議な事に映った。

「旦那様はたくさんの方に慕われていらっしゃるのですね。」
手紙を整理し部屋に届けにきたティニーは机に向かうモーリオスにそう言った。どこか嬉しそうなその口調にモーリオスはティニーを見遣る。
「そうかね。」
「えぇ。だってお仕事のもの以外にもこんなにたくさんのお手紙が届くんですもの。それに、個人的なお手紙にはとってもお洒落な封筒が使われているものがほとんどです。旦那様を慕っていらっしゃる証拠です。」
「なるほど。義理を尽くしたくともなかなか会えない人物には、こちらからも手紙を送って誠意を示すのが道義だからな。その積み重ねだろう。」
頷くモーリオスにティニーは言葉を続ける。
「でも、街の皆さんは旦那様を怖い方だと仰います。旦那様は誰に対しても理不尽に怒ったり、無茶な要求を押し通したりはなさいません。なのにどうして街の皆さんは旦那様を怖がるのだと思われますか?」
「考えた事もないな。」
手紙の封を切りながら事もなげに言うモーリオスをティニーは一心に見つめる。
「旦那様が笑わないからだと思います。」
「おかしくもないのに笑えるか。」
「笑うって、面白おかしくて笑うだけではないと思うんです。現に、旦那様はマーシルさんやカシュー先生と話す時には微笑んでいらっしゃいます。」
意外な言葉にモーリオスは顔を上げた。
「微笑している? 私が?」
「はい。マーシルさんとよく話すのですが、旦那様は本当は優しい方なのに、多くの人が誤解されているのは何だか悲しいです。」
心底悲しそうな眼差しで見つめられモーリオスは困惑する。その沈黙を不興を買ったと思ったのか、ティニーは深々と頭を下げた。
「生意気な事を言って申し訳ありません。」
失礼します、と部屋を後にしたティニーにモーリオスは戸惑った。私が優しいだと? 誤解されているのが悲しいと? そんな事を言われたのは初めてだった。街の人々から嫌われようが怖がられようが気にした事などなかった。しかしそれを悲しがる者がいる。付き合いの長いマーシルが、そして会って間もないティニーまでもがそんな風に感じていたとは思いもよらなかった。自分は最も身近な人物に不義理をしていたのかもしれない。悲しそうなティニーの声が、モーリオスの胸に引っかかっていた。

「旦那様はティニーが来てから表情が柔らかくなったわ。」
ある日、マーシルがティニーにそう言うのを耳にしたモーリオスは思わず鏡をまじまじと見つめる。別段、変わった所は無いように思うのだが、長年仕え自分を見てきた彼女が言うのならその通りなのだろう。また、幼い割に礼儀正しく聡明で、仕事も早いティニーを気に入っているのは確かだ。記憶が戻る気配は見られないが、このままうちに置くのも良いかもしれないなどと考え始めていた。だが、そんなモーリオスの思いを揺るがす事態が起きる。
「ご苦労だった。では帰るぞ。」
「はい。」
ティニーを伴って得意先へ出向いた帰りの事だった。馬車を降り屋敷の門をくぐったモーリオスとティニーに向かって、見知らぬ男が二人駆け寄ってくる。
「王女様!」
「ご無事でしたか!」
ティニーを見て大声を上げた二人組の男は、薄い金属製の簡素な鎧を身に着け腰に長剣を提げていた。鎧の胸元には見慣れない紋章が刻まれており、どこかの国の兵士だとわかる。
「あ、あの……。」
物々しい装いの兵士に突然呼びかけられたティニーは、わけがわからず怯えた顔でモーリオスを見上げる。怯えるティニーを背後に庇いモーリオスは兵士を睨み据えた。
「不躾な連中だな。この子供はうちの使用人だが、何の用だ。」
「王女様に対して使用人とは何事だ!」
気色ばむ一人を制しもう一人の兵士がモーリオスを見据える。
「我々はシュトノス王国に仕える者。我が国の王女が行方不明になっておりずっと探していたのだ。」
「王女?」
シュトノスはこの国から海を真っ直ぐに渡った先にある王国だ。ティニーを見下ろすと相変わらず怯えた顔でモーリオスの背に隠れている。
「この連中を知っているか?」
問われたティニーは大きく首を振った。ティニーの反応に困惑する兵士達をモーリオスは睨む。
「彼女はお前達を知らんと言っているが?」
モーリオスを押し退け兵士はティニーに詰め寄った。
「何を仰るのですか!? 心配していたのですよ!」
「ご立腹はもっともですが、どうか王国へお戻り下さい。今王国はたいへんな事になっているのです。」
「残念ですが私はあなた達の事を知りません。王国って、王女って、何の事ですか?」
「我が儘を仰らないで下さい!」
「放して下さい!」
苛立たしげな口調で兵士は乱暴にティニーの腕を引く。ティニーの悲鳴にモーリオスは声を荒げた。
「私の敷地で勝手な振る舞いは許さん! 彼女に話があるのなら出直してこい!」
兵士達を突き飛ばし門を閉ざす。モーリオスの怒声を聞いたマーシルが駆けつけてきた。震えるティニーをマーシルに託すとモーリオスは兵士達を睨みつける。
「これだから役人は嫌いなのだ。明日の夕刻に時間を取ってやる。彼女に順を追って説明しろ。こちらからも話す事がある。」
一方的に告げモーリオスは肩を怒らせ玄関に向かう。兵士達は一旦引き下がったようだ。動揺している自分に戸惑う。ティニーが王女だと? 彼女が記憶を無くした事態と、「王国はたいへんな事になっている」といった兵士の言葉は関連があるのだろうか。兵士達の話を聞いたら、彼女は記憶を取り戻すかもしれない。彼女の責任感の強さは屋敷での仕事ぶりを見ていてわかっている。たとえ思い出せなかったとしても、自分が王女であり王族としての責任を考え、王国に戻ると決断するかもしれない。だが彼女の身の危険が予測される王国へ帰らせても良いのだろうか。ティニーの足首の傷を思い出す。王女が拘束され船に乗せられたのだとしたら、そんな王国へ帰らせてはいけないのではないか。モーリオスは自分がティニーを帰したくない、失いたくないと考えている事に気付きさらに動揺する。浜で倒れていたのを助けた恩なら充分に返してもらったではないか。勝手なのはどっちだ。冷静になれと首を振る。
「決めるのは彼女だ。」
翌日、同じ時刻に兵士達は屋敷を訪れた。マーシルが応接室に通しモーリオスとティニーを呼ぶ。ティニーは眠れなかったのだろう、朝から顔色が良くなかった。モーリオスは動揺を悟られまいと仏頂面を作り兵士に対面する。
「私は貿易商のモーリオスだ。まずはそちらの話から聞こうか。彼女は何者で、何が起きたのか。」
年かさの兵士が頷いて口を開く。
「我々はシュトノス王国に仕える兵士でイムザ、こちらは部下のマクアト。そちらにおわすのはシュトノス王国の王女、ユノーシュ様。」
自分が王女だと言われたティニーは困惑した顔でイムザを見つめている。
「ユノーシュ様にはクレイオス様という兄王子がいらっしゃる。クレイオス様は亡くなられた前王妃の、ユノーシュ様は現王妃のお子でいらっしゃり、どちらが王位を継ぐかで王宮は荒れているのだ。」
言葉を切りイムザはティニーの反応を見る。彼女が記憶を無くしていると知る由もないイムザは、ティニーがなぜ怯えているのかわからず苛立ちを隠せずにいた。
「クレイオス様を推す連中は強硬手段に出た。あろうことかユノーシュ様に毒を盛り、仮死状態にさせたのだ。王家専属の医師を味方につけユノーシュ様の死を捏造し、葬儀まで行ってしまった。」
震えだしたティニーの手をモーリオスは思わず握る。その目には憤りが沸いていた。
「お前達は大事な王女がむざむざ殺されるのを黙って見ていたのか。」
モーリオスの言葉に顔をしかめイムザは話を続ける。
「黙って見ていたわけがなかろう。仮死状態だと解りユノーシュ様を蘇生させるべく手を尽くしたが、解毒の方法は解らなかった。医師がユノーシュ様の死を民衆に知らせてしまい、成すすべがなかった。」
イムザは悔しそうに拳を握る。
「医師が懐柔されていたとは思いもよらなかった。恐らく毒も医師が用意したのだろう。ユノーシュ様の葬儀を済ませた奴らは、密かに棺からユノーシュ様と別の遺体を入れ替え、ユノーシュ様を奴隷船に売り渡したのだ。嵐でユノーシュ様を乗せた船が難破したと聞いて近隣諸国を探し回っていた。」
イムザは立ち上がり、ティニーの手を握るモーリオスの手を振り払った。
「お迎えが遅くなり申し訳ありません。ご立腹なのは重々承知しております。王国へ戻りましょう。クレイオス様を支持する連中に王国を好き勝手にさせるわけにはいきません。」
イムザの言葉にティニーは静かに首を振った。
「申し訳ないのですが、私は何も覚えていないのです。」
「何ですって?」
ティニーの手を取ったイムザの手を叩き落とし、モーリオスが口を開いた。
「私から説明しよう。彼女は嵐の翌朝、この近くの浜辺に倒れていた。屋敷で目を覚ましたら名前も出身も何も覚えていないと言う。懇意にしている医者によれば、心因性の健忘だろうという事だ。」
愕然とした表情でイムザはティニーを見つめる。
「何も覚えていらっしゃらないのですか? ご自身の事も、我々の事も王国の事も?」
小さく頷くティニーの肩を掴みイムザは叫ぶ。
「馬鹿な事を仰らないで下さい! お救い出来なかった事を責められるのは致し方ないですが、だからといってそんなやり方で王国を見捨てるのですか!?」
「乱暴はやめたまえ。」
イムザの手を掴みモーリオスは睨み据える。
「ずいぶんと勝手な理屈に聞こえるのだが。すべては謀略を暴けなかったお前達の責任ではないか。」
「お前に関係ないだろう!」
「今彼女を保護しているのは私だ。それに彼女はうちの使用人として契約を交わしている。」
「ユノーシュ様を使用人にするとは何事だ!」
「彼女は身一つで放り出されたのだぞ。無能なお前達のせいで。記憶も無い金も持っていない、孤児同然の子供を保護し生活の場を与えるのは大人としての義務だ。それに私は彼女をただ使役しているわけではない。衣食住を与え仕事に対する正当な報酬も与えている。仕事のミスを叱った事はあったが、不躾な態度を取った事は一切無い。」
モーリオスは震えるティニーを見つめた。過酷な仕打ちに腹が立った。こんな連中の所へ行かせたくない。
「ティニー、奴らの話を聞いて何か思い出したか?」
「いいえ。」
しっかりとした声でティニーは首を振った。
「聞いたか? 何も覚えていない彼女を王国へ連れ戻したところで誰にも利は無いだろう。」
「ユノーシュ様は王族だ! 民間人には解らんだろうがな、王女が王国にいるだけで利になるのだ!」
ティニーの腕を掴みイムザ達はティニーを無理やり連れて行こうとする。二人の肩を掴んでティニーから引き離しモーリオスは怒鳴りつけた。
「彼女の気持ちを考えろ!」
考えるより先に言葉が出た。イムザの勝手な理屈に激しい憤りを覚える。たとえティニーが戻ると言っても行かせてはならない。もみ合う三人の背後から凛とした声が響いた。
「やめて下さい!」
ソファから立ち上がり、ティニーは二人の兵士を見据える。その目は怒りと悲しみに満ち赤く潤んでいた。
「旦那様は、何のつながりも無い私を助けて下さいました。記憶を失くした私に生きる道を与えて下さいました。しかし、私を守る立場のはずのあなた方は、私が危険にさらされるのを黙って見ていた。奴隷船に乗せられても何もしてくれなかった。そうして無事だとわかって無理やり連れ戻そうとする。私が旦那様とあなた方のどちらを信用するか、明白ですね。」
息を整えイムザ達を見据えるとティニーは言葉を続ける。
「記憶の無い私が王国に戻ってもできる事はありません。その上私は死んだ事になっているのでしょう? 私が戻れば王国は混乱に陥ります。また私を邪魔に思う人が同じ事を繰り返すでしょう。それに引き換え、ここには私にできる事がたくさんあります。私を必要として下さる方がいて、私を疎んじる人はいない。私をただ利用する人も。」
愕然とした表情のイムザ達に言い放つ。
「ユノーシュ王女は死にました。どうぞお帰り下さい。シュトノス王国に恩義はありません。」
モーリオスに視線を移しティニーは微笑んだ。
「私は新しい生命と名前を下さった旦那様の恩義に報いるために、ティニーとして生きていきます。」

 翌朝。朝食の支度が整ったと呼びにきたティニーに、モーリオスは問いかける。
「ここに残って良かったのか?」
後について歩くティニーは微笑んだ。
「もちろんです。旦那様は、私が帰った方が良かったと思われるのですか?」
即座に首を振りモーリオスは笑った。
「王族の暮らしを捨て使用人の道を選んだお前に、敬意と感謝を表する。これからもしっかり働いてもらうぞ。」
「はい、旦那様。」
おどけた仕草で敬礼して見せたティニーに笑う。こんな風に笑ったのは久しぶりのような気がした。
「ご機嫌麗しいようで何よりです。」
マーシルのからかうような笑みに笑い返し、食堂のいつもの席に座る。マーシルとティニーの給仕を受けながら、自分も彼女達の恩義に報いなければと思った。


                   END

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