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『In the forest』




 静かな昼下がりの村に幼い少年の声が響く。飼い犬の姿を探してアルスは村中を走り回っていた。
「キール、どこ行ったんだよぉ!」
物置小屋、田畑の中、井戸の周り、どこを探しても飼い犬の姿は見当たらなかった。アルスは不安げに村の北に広がる森林を見つめる。もしかしたら、狼が出るという噂のあるあの森に入って行ってしまったのかもしれないと。村の子供達は「恐ろしい狼が沢山いるから決してあの森には近付いてはいけないよ」と大人達に厳しく言われていた。実際、村の家畜が何度か狼らしき獣に襲われている。村の中で人間が襲われた事は無いが、猟銃を手に森の奥へ向かった大人達が大怪我をして帰って来た事があった。アルスは鍬を手にした父の姿を見つけ呼び止める。
「父さん、キール見なかった?」
「ああ? 見てないぞ。どっかで遊んでるんだろ。」
「でも朝からずっといないんだ。」
「飯時になったら戻ってくるさ。ほら、仕事の邪魔だぞ、どきな。」
大人達は皆畑仕事に家畜の世話にと忙しそうで、キールを探すのに付き合ってくれる人はいないようだった。アルスは再び森に視線を移す。村の中を散々探してもいないならやはりあの森へ入って行ってしまったのだろうか。キールは何か感じるのかじっと森を見つめては遠吠えを上げる事がよくあったからだ。太陽は頂点を通過し少しずつ西へ向かっている。心を決めアルスは森へ足を向けた。柵が施してあるものの子供や子犬なら容易に通り抜ける事ができる。びくびくしながら木漏れ日の射す森の中へアルスは入って行った。歩みを進める度に薄暗くなっていく森を狼に出くわさないよう祈りながらキールの姿を探す。
「キール……?」
しばらく歩いた先に、小さな草地が広がっていた。薄暗い森の中でそこだけぽっかりと日が射し、暖かい空間を作り上げている。一際大きな木の根元でキールは丸くなっていた。
「キール!」
思わず駆け寄ろうとしたアルスだったが、キールの傍の木で寄りかかるようにして眠っている何かの姿にびくりと足を止める。灰色の毛並みの、大きな狼。まさかキールはこいつにやられてしまったのか。震える足を叱咤しキールを見つめる。キールは眠っているだけのようだ。アルスの気配に気付いたキールが目を覚ます。きゃんきゃんと嬉しそうに吠えるキールの声に狼が目を覚ました。狼はじっとアルスとキールを見つめている。ここにいては襲われる。逃げ出したいのにアルスの足は震えて動かない。
「この子犬の主か?」
「え!?」
突如聞こえた声にアルスは混乱する。ここにいるのは自分とキールと狼だけ。キールが話すはずはないし自分も独り言を言った覚えは無い。恐る恐る狼を見つめる。狼はまるで人間がするように木に背中を預け地面に座り込んでいた。
「私が言葉を発するのが不思議か?」
どこか楽しげに口を開く狼。アルスは混乱しきって狼を見つめる。間違いなく話しかけてきたのは目の前の狼だ。
「私は人狼(ワーウルフ)。名をロキという。この森の動物達を統べている。」
ロキが目を覚ました事に気付いたキールは更に嬉しそうに尻尾を振ってロキの傍にすり寄っていく。キールがロキに懐いているのを見て少し落ち着いたアルスは深呼吸して問いかける。
「人狼って、伝説上の生物じゃなかったの?」
人狼は狼でありながら人語を操り、人よりも獣よりも遥かに長い寿命を持つと言う伝説の生物だとされていた。キールを尻尾であやしながらロキは一瞬悲しげな目をする。アルスの問いには直接答えずに口を開いた。
「我々は人間より長い時を生きる。長い時間の中には色々とあるのだ。」
悲しげなロキの口調にアルスは何と言っていいかわからず沈黙する。ロキはキールとアルスを交互に見つめ口を開いた。
「今日はもう遅い。私の話に興味があるならまた来るといい。私は大抵ここにいる。」

 それからというものアルスはキールを連れて毎日のように森へ行き、ロキの話を熱心に聴いていた。人間よりも遥かに長い時を生きているロキの話は、小さな村で過ごす幼いアルスの好奇心を刺激した。各地に存在する伝説とされる生物の事、自然の織り成す美しい現象、人間の歴史、ロキ自身の冒険譚。様々な事を語る度にロキは「心を広く強く持て」と言った。よくわからないといった顔のアルスにロキは遠くを見つめるような目で話を続ける。
「どんなに理不尽な目にあってもそれを赦す事だ。憎しみからは何も生まれない。憎しみは連鎖して更なる憎しみを広げるだけだ。それは自分自身の為にも世界の為にも良くない事なのだ。全ての事には理由や必然性がある。絶対的な悪というのは存在しないものだと私は思う。」
ロキはアルスの肩にそっと手を置いて言葉を続ける。
「強さというのはどれだけ赦せるか、という所にある。武器や腕力があってもそれを憎しみに任せて揮わない事だ。」
アルスはロキを見上げ尋ねる。
「ロキは、今まで沢山の事を赦してきたんだね?」
「そうだな。」
「それってすごいけど、ちょっと悲しいね。」
「そうかもしれない。強い者というのは悲しみを背負うものなのだろう。」
「でも僕、ロキの言うような強い人になりたいよ。何かを憎みながら生きるのってきっと辛い事だから。」
アルスの言葉にロキは優しく頷いて空を見上げた。遠くで獣の遠吠えが聞こえていた。

 村では周辺で村人が狼に頻繁に襲われ騒ぎになっていた。猟銃を抱えた大人達が一日中村の周囲や森を巡回するようになり、アルスもキールも森へ近づけなくなってしまった。度々響く銃声と険しい顔の大人達にアルス達は怯えた。
「狼だぁ!」
今まで村の外にしか姿を現さなかった狼がある日遂に村の敷地内に姿を現した。森の方から上がった村人の声と銃声にアルス達は駆けつける。ロキが撃たれたのかもしれないと、アルスの胸は締め付けられる。村人達の視線の先には、ロキではない狼が銃傷を負い低い唸り声を上げて村人達を威嚇していた。その声と顔つきからアルスは狼の抱いた深い憎しみを感じ取った。大人達を掻き分けアルスは狼の前に進み出る。
「狼さん、僕達が憎いの?」
「アルス! 危ねぇから引っ込んでろ!!」
「どうしたら赦してくれるの?」
狼は咆哮を上げアルスに飛び掛った。
「アルス!!」
いくつもの銃声が響く。森から飛び出して来た四つ足の影がアルスを庇うように覆いかぶさる。目を開けたアルスの前には安堵した表情のロキがいた。
「アルス、間に合ったか。」
「ロキ!!」
「仲間が来やがった!」
猟銃がロキにも向けられる。ロキは村人の様子を意に介さず、村人を襲った狼を見据える。
「何をしている!」
「ロキ殿、私は人間を赦さない。私の子供はそいつらに殺されたんだ。赦さない。奴らの子供を殺してやるんだ!」
「そんな事をお前の子供は望んでいない!」
「苦しかったろう、無念だったろう。まだ牙も生え揃わない無力な子供だったのに危険だって殺されたんだ!」
大人達には狼の声は唸り声にしか聞こえていない。だがロキと触れ合ったアルスには狼の声が伝わってきた。憎しみと悲しみに満ちたその声にアルスは呟く。
「ごめんなさい。僕を殺したら皆を赦してくれるの?」
「アルス、止せ。そんな事をしても何も変わらない。」
再び狼は咆哮を上げアルスに飛び掛る。ロキが動くよりも早く銃声が鳴り響く。狼の牙がアルスに襲い掛かるより前に銃弾が狼の身体を貫いた。苦悶の声を上げる狼に村人達はとどめの銃弾を撃ち込む。アルスは動けなかった。アルスの瞳から涙が零れる。
「ごめんなさい、狼さん。ごめんなさい!」
銃弾はアルスを庇おうとしたロキにも撃ち込まれた。狼達のやり取りが理解できない大人達には、ロキもアルスを襲おうとした狼にしか見えなかった。
「アルス、早くこっちへ来い!!」
「どうしてっ、どうしてロキまで撃つのっ!?」
倒れたロキに駆け寄るアルスに父親達は蒼白になる。
「アルス、何してんだ! 食われてぇのか!!」
「ロキは悪い狼じゃないよっ!」
大人達を睨みつけ泣きながら叫ぶアルスの声にロキは身体を起こす。
「アルス、行きなさい。」
「嫌だっ、みんな嫌いだ! 父さん達は罪のない狼の子を殺したんだ!」
ロキはアルスの瞳をじっと見つめる。
「あの狼は子供を育てる為にアルスの村の家畜を襲った。村人はアルス達を育てる為に家畜を飼育し守っている。罪は誰にも無いのだ。」
「でも……っ!」
泣きじゃくるアルスにロキは優しい眼差しを向けた。
「大人達を憎んではいけない。憎しみからは何も生まれない。アルス、お前はあんなにも愛されているのだから。」
ロキはゆっくりと立ち上がる。後ろ足に血が滲んでいた。キールが悲しげに吠えその傷口を癒すように舐めた。キールに礼を言いロキはアルスに視線を戻す。
「アルス、心を広く強く持ちなさい。」
足を引きずりながら森へ歩き出すロキの背にアルスは叫ぶ。
「ロキ、行かないでよ!」
ロキは振り返り細く高い咆哮を上げた。それは「また会おう」と言っているように聞こえた。

それから何度森へ行ってもロキの姿は無かった。他の狼も現われなくなり、村には平穏な日々が戻ってきていた。だがアルスはロキの言葉を片時も忘れた事はなかった。いつかまた会えると信じて、強くなろうと誓った。そして、時を経てロキが時々見せた悲しい目の理由もわかるようになった。強い者が背負う悲しみ。そして悲しみを背負う度にロキは放浪してきたのだろうと思った。ロキが赦してきた数々の事の中に、あの日の銃弾も含まれるのだろう。傷を負った足を引きずりながら森へ向かうロキの姿はアルスの目に焼き付いている。自分のせいで傷を負わせた。もう一度会えたら、あの日の事をきちんと謝るんだとアルスは心に決めていた。何も出来ない子供だった自分自身を赦し強い心を持つ為に。


                END

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