短編の間へ /翠玉館玄関へ

 アスファルトから陽炎が立ち上る通学路を、沢田香澄はトートバッグを提げ歩いていた。夏休みが始まったばかりであったが、返却期限が過ぎた図書室の本を返すため小学校に向かっている所だった。

『Hello, my friend』


 階段を登り4階の図書室へ向かう香澄の耳にピアノの音が聞こえてきた。音楽室は図書室と同じ4階にある。
「夏休みだってのに誰だろう?」
学校の七不思議の一つである「音楽室の幽霊」を思い出し身震いした香澄だったが、恐怖よりも好奇心の方が勝り香澄はそっと音楽室を覗き込んだ。広い音楽室の前方に置かれたグランドピアノに向かい聞いた事のあるクラシック曲を弾いているのは、幽霊などではなく同い年くらいの少女だった。香澄が入り浸っている図書室でよく見かける少女だ。声をかけてみたい衝動と同じ小学生とは思えない演奏に惹かれ、香澄はそっと音楽室に足を踏み入れる。窓の外から聞こえる蝉の大合唱や、近くに止まったらしい救急車のサイレンも少女の耳には届かないらしく、一心不乱に鍵盤に向かっている。気を散らさないよう静かにピアノ近くの席に座り、香澄は少女の演奏に聴き入っていた。最後のフレーズが、蒸し暑い音楽室に吸い込まれるように消えると、香澄は思わず立ち上がって拍手をしていた。
「すっごーい、上手だね!」
突然響いた拍手と香澄の声に、少女は小さく悲鳴を上げて立ち上がる。拍手の主を探すように一瞬視線を彷徨わせ、驚いた表情で少女は香澄を見つめ返した。
「あぁ、ごめん。驚かせちゃって。凄く上手だったから聞き惚れちゃった。」
少女に歩み寄り香澄は笑いかける。戸惑いながらも少女は香澄に微笑んだ。
「あ、ありがとう。」
少女が笑みを見せた事に安堵し香澄は言葉を続ける。
「ねぇ、よく図書室にいるよね? 私の好きなのと同じ本よく読んでるから気になってたの。何年何組? あ、私は6年3組の沢田香澄。」
「私も6年生。1組の遠藤真澄。」
「名前1字違いだねー。同い年だったんだ。真澄ちゃんって呼んでいい? ピアノ凄い上手だったよ。ここでいつも弾いてるの?」
「うん、いいよ。今日本当はレッスンの日だったんだけど、今の先生嫌いだからサボっちゃったの。」
翳りが射した真澄の表情に香澄は首を傾げる。
「どうして?」
「今の先生ね、「楽譜の通りに弾きなさい」って言うの。「あなたの解釈や感情は込める必要無い」って。そんな弾き方つまんないよ。」
真澄の言葉に、わかるわかると香澄は深く頷いた。
「そんなのつまんないよね。音楽は自由に表現した方が絶対楽しいよ。」
目を輝かせて真澄は香澄を見つめ返す。
「やっぱりそう思う? 私間違ってないよね!」
「うん、真澄ちゃんは間違ってない。」
「うん、ありがとう、香澄ちゃん。」
悩みに共感を得た事ですっかり警戒心を解き真澄は笑顔を浮かべた。ピアノや好きな本の事を喋り笑い合った後、真澄は思い出したように香澄に問い掛ける。
「そういえば、香澄ちゃんは夏休みなのに何しに学校へ来たの?」
「あ、そうだ。図書室の本が期限切れてたから返しに来たんだった。あれ? 私、本入れたバッグどうしたっけ?」
「えー? わかんない。私はずっとここにいたし。」
「そうだよねぇ。もう返してきたんだったかなぁ。」
ぶつぶつ考え込む香澄を真澄はじっと見つめる。
「一緒に探してあげるよ。」
立ち上がった真澄に香澄は顔の前で両手を合わせた。
「ごめんね、真澄ちゃん。ありがとう!」
音楽室を見回したが、備品と真澄のバッグ以外には何も無い。2人は図書室へ向かった。夏休みの自由研究の調べものに使えるようにと、図書室は夏休みでも解放されている。本とノートを広げる同級生の姿がちらほらとあった。真澄が司書室へ聞きに行き、香澄は図書室の中を探す。「借りたい本があるので探して欲しい」と真澄が声をかけ題名を告げると、司書教諭の江口はパソコンで貸し出し記録を検索する。
「6−3の沢田さんが借りたままになってるわね。次の予約入れとく?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました。」
「今日返しに来るって連絡があったんだけどまだ来ないわね。どうしたのかしら。」
ごめんね、と告げる江口にいいんですと一礼し真澄は司書室を出る。焦った顔で図書室内を探す香澄の姿が司書室からも見えていた。
「返却されてないって。」
「どうしよう。」
青ざめた表情でうな垂れる香澄の背後で司書室のドアが開いた。怒られる、と香澄は硬直する。江口が丸めたポスターを手に出てきて真澄に微笑みかけた。
「本戻ってきたら教えてあげるわね。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
「沢田さんと遠藤さんって趣味が似てるわね。2人ともよくここで1人で本読んでるし、声かけてみたら仲良くなれるんじゃない?」
「……そうですね。」
「……?」
じゃぁねと真澄に手を振りポスターを図書室の掲示板に貼っている江口の後姿を、香澄は怪訝な顔で見つめる。
「江口先生、本返してない事怒ってるのかな? それにしては変じゃない? あんな風にシカトするなんて。」
江口の態度と香澄の言葉に動揺した表情で真澄は口を開いた。
「音楽室、もう一回探してみよう。ね?」
誰もいない音楽室に戻ってきたが、やはり香澄のバッグは無い。
「弁償かなぁ。ハードカバーだし結構高いよね、あの本。」
落ち込んだ表情でピアノの前の席に突っ伏した香澄の側に立ち、真澄は言葉を選ぶように口を開く。
「家を出て学校に着くまでの事、思い出してみて。何か変わった事、無かった?」
「うーん。どこにも寄り道はしてないしなぁ。」
香澄が記憶を辿り始めた時、音楽教諭の浅井がドアから顔を覗かせた。
「遠藤さん、そろそろ吹奏楽部の練習始まるんだけどいいかしら?」
「浅井先生、すみません。ありがとうございました。」
「いいのよ。いつでも弾きに来てね。遠藤さんのピアノ好きよ。」
「ありがとうございます。」
香澄は浅井に視線を向け口を開く。
「浅井先生、この辺で本が入ったトートバッグ見ませんでしたか?」
だが浅井は何事も無かったかのように真澄に微笑むと音楽室を後にした。
「聞こえなかったのかな? まるで私なんかいないみたいな感じだったけど。」
むっとした顔になる香澄に、真澄は恐る恐る口を開く。
「香澄ちゃん、気付いてないの?」
「何を?」
きょとんとする香澄に、真澄は悲しげな表情を浮かべる。
「最初は気のせいかなと思ったんだけど、さっき確信したよ。」
真っ直ぐに香澄を見つめ、真澄は泣きそうな声で告げた。
「香澄ちゃん、自分が幽霊だって事に気付いてないの?」
真澄の言葉に笑いながら香澄は首を振る。
「やだなぁ、真澄ちゃん。夏だからって昼間からそんな話いらないよー。」
無い無いと両手を振って笑う香澄だったが、真澄は泣きそうな表情を崩さない。
「私が幽霊ってどういう事? 何でそんな事言うの?」
「だって、ほら……。」
消え入りそうな声で真澄はピアノを指差す。
「何よこれ? どうなってんの?」
黒く艶やかなピアノの表面には、こちらを指差す真澄の姿しか映っていない。
「香澄ちゃん、ここに着くまでの事、思い出せた? 何かあったんじゃないの?」
崩れ落ちるように真澄はピアノの椅子に腰を下ろす。窓の外へそっと目を向け、はっとした顔になった真澄の視線を追い、香澄は立ち上がって外を見る。大通りに面した校門の近くに、パトカーが止まっていた。歪んだガードレールの側に、大破した車が止められているのが見える。制服姿の警官が動き回っているのも見えた。
「私、家を出て、学校の手前で……。」
香澄の記憶が蘇る。学校まであと数メートルという場所の横断歩道を渡る香澄に、猛スピードで突っ込んでくる車。響く急ブレーキの音、未だかつて受けた事の無い強い衝撃が全身を襲う。視界が赤黒い色に変わった次の瞬間、香澄は図書室への階段を登っていたのだ。
「嘘……。私、死んじゃったの?」
外の光景と蘇った記憶に呆然として香澄は呟く。
「そんなの嫌だ!」
頭を抱えてしゃがみ込むと香澄は大きく首を振った。
「私が幽霊だから、先生達には私が見えなかったって言うの!? そんなわけ無い! じゃあどうして真澄ちゃんは私と喋ってるのよ?」
嫌だ嘘だと叫び首を振る香澄の前に座り、真澄はゆっくりと口を開いた。
「私そういうの見える体質だから……。でもね、そんな事よりも、私が香澄ちゃんと話したいって思ってたから、いつも図書室で見かける香澄ちゃんと友達になりたかったから、だから……」
香澄は顔を上げ泣きながら真澄の言葉を遮った。
「でも死んじゃってるならもうダメじゃん。もう遅いじゃん。せっかく友達になったのにすぐにお別れじゃんか!」
「そんな事無い!」
取り乱す香澄の声に負けないように真澄は声を張り上げる。
「そんな事無いよ。まだ大丈夫。香澄ちゃんは今幽霊になっちゃってるけど、まだ香澄ちゃんの身体は生きてるよ。私わかるもん。香澄ちゃんは自分に起きた事がわかんなくて、身体と気持ちが別々になっちゃっただけなんだ。」
「どういう事……?」
落ち着きを少し取り戻し呟いた香澄に真澄は微笑む。
「本当に死んじゃった幽霊と、まだ生きてる幽霊って少し違うの。だから、香澄ちゃんが自分に起きた事を受け入れて、それでも生きたいって思えば大丈夫、遅くなんかないって事だよ。」
「私、まだまだ生きたいよ。真澄ちゃんとずっと友達でいたいもん。本当に私まだ死んでないの?」
不安げな香澄を勇気付けるべく真澄は微笑んだ。
「友達の言う事信じてくれないの?」
「信じる、信じるよ。」
「じゃあ約束。2学期始まったらまたいっぱいお喋りしよう。」
「うん、約束する。」
2人が指切りを交わすと、香澄の身体は音も無く静かに消えた。天井を見上げ真澄は呟く。
「約束だよ、香澄ちゃん。ずっと友達でいようね。」

小学校のすぐ側で起きた交通事故のニュースは瞬く間に広まった。
事故に遭った少女はすぐに病院に運ばれたが意識不明の重体だったという。
そして2学期の始業式の日、香澄の姿は学校には無かった。

「ごめんね、真澄ちゃん。約束守れなかった。」
「そんな事気にしないで。」
悲しげな顔をする香澄に真澄は微笑みかける。
「早く良くなって学校に戻ってきてね。」
「うん、頑張るよ!」
病室のベッドの上で力強い笑みを浮かべた香澄の言葉に、真澄は安心したように笑った。


                  END


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