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『初恋の行方』

 あれは、確かに僕の初恋だった。守りたくて守れなくて、泡のように弾けて消えてしまった、僕の初恋。あの人は今頃どこでどうしているんだろう。元気だろうか、幸せにしているだろうか。
引っ越しの荷物を片付けていて、ふいに出てきた手紙と写真は、幼かった七歳の夏の記憶を鮮やかに呼び起こした。

「由希子さん、こんにちは!」
「あら、コウ君。いらっしゃい。」
ぼくが遊びに行くと、由希子さんはいつも嬉しそうに笑ってくれた。ぼくより十歳くらい年上で、黒いさらさらの髪をした、ほっそりしてきれいな人だった。由希子さんには小さい娘がいて、「なっちゃん」って呼んでたのを覚えている。なっちゃんもぼくが行くとにこにこ笑ってくれる。由希子さんはその年の春にお隣に引っ越してきた人だ。仲良くなったのは、母さんがアパートの前で具合悪そうにしていた由紀子さんを助けてからだった。母さんが「由希子さんは大変な思いをしてるから、男のあんたが色々助けてあげるんだよ」って言ったから、ぼくはよく由希子さんの部屋へ遊びに行った。母さんの料理をおすそ分けしたり、なっちゃんの遊び相手をしてあげたり、お買い物の荷物を運んであげたりしてた。由希子さんはそのたびににっこり笑って「ありがとう、コウ君は優しいね」って言ってくれた。由希子さんが笑ってくれるのが嬉しくて、少しでも由希子さんの役に立ちたくて、ぼくにできることは何だろうと一生懸命考えた。
ある日、おじいちゃん家から送られてきたりんごをおすそ分けしたら、次の日に由希子さんがアップルパイを作ってぼくにごちそうしてくれた。
「おいしい!」
「本当? 良かったぁ。今紅茶淹れるね。お砂糖とミルクはいるかな?」
「だいじょうぶ!」
大人の男に見せたくてそう答えたけど、お砂糖もミルクも入れない紅茶はぼくには苦かった。それでも頑張って飲んでいたら、由希子さんは「笑ってゴメンね」っていいながらくすくす笑ってた。よっぽどヘンな顔になってたんだろう。ちょっと恥ずかしい。
「はちみつを入れたらどうかな?」
はちみつのビンを出してくれた由希子さんに素直に頷いて、スプーンに一杯のはちみつを入れる。はちみつ入りの紅茶はほんのり甘くて、大人の味って感じがした。由希子さんの作ったアップルパイもはちみつ入りの紅茶も、甘くて美味しくって、上手く言えないけど何だか優しい味がする。夢中で食べていたら、由希子さんはぼくを見つめて嬉しそうに笑ってた。
「美味しいって言ってくれる人がいると、やっぱり作り甲斐があるわね。」
そういえば、由希子さんはいつもなっちゃんと二人きりだ。なっちゃんのお父さんを見たことが無い。ぼくの父さんも単身赴任ってやつであんまり帰って来ないけど、たまに帰って来るとたくさんおみやげをくれて、いっぱい遊んでくれる。母さんも父さんが帰ってくると機嫌がいい。由希子さんも、なっちゃんのお父さんが帰ってくると、やっぱり嬉しいのかな。きっとそうだよね。それはいいことのはずなんだけど、ぼくの胸はちょっとだけ、ずきずきした。でもそれは、とんでもない思い違いだったと、少し後で知ることになる。
 もうすぐ夏休みになる暑い日だった。学校から帰ると、アパートの塀の傍に見たことのない大きなバイクが止まってた。誰のだろう? ランドセルを部屋に置いて由希子さんのところへ行こうとしたら、母さんが慌ててぼくの手を引いた。
「今は行っちゃだめ!」
小さな声でそう言う母さんの顔がすごく真剣で、由希子さんに何かあったのかと不安になった。母さんの手を振りほどいて行こうとするぼくを、母さんは必死で止める。
「今はだめ!」
「どうして!」
ぼくを抱きかかえて止める母さんの手は、今までに無いすごい力がこもっていた。
「由希子さんに、何かあったの?」
そう聞いた瞬間、由希子さんの部屋から男の怒鳴り声と、何かが壁にぶつかったような大きな音と振動がした。
「由希子さん!」
由希子さんが悪い奴に襲われてる、そう思って駆けつけようとするぼくを、また母さんが必死に止める。
「何で止めるの! 由希子さんが危ない!」
「あんたが行ってもどうにもならないよ!」
なっちゃんが泣いてる声も聞こえてきた。由希子さんの部屋で何が起きてるんだろう? 怒鳴ってる男は誰なんだろう? 「由希子さんを助けてあげるんだよ」と言った母さんが、助けに行こうとするぼくを止めるのはどうして? 由希子さんが「やめてよぉ」って悲しそうに叫んでるのが聞こえてきた。男は苛ついた声で「ふざけんな!」とか「うるせぇ!」とか怒鳴ってる。声しか聞こえないけど、そいつはすごく悪い奴で怖い奴なんだって思った。どうしてそんな奴が由希子さんの部屋にいるんだろう? しばらくしてドアを乱暴に閉める音がした。ぼくの部屋のテレビまで揺れるほどの勢いだった。由希子さんがすすり泣く声と、なっちゃんが泣いてる声が聞こえてくる。母さんがぼくに「静かに」って言って壁ごしに由希子さんの部屋の様子を伺ってる。バイクが走り出す音がして、窓から外を見た母さんが大きく息を吐いた。母さんも緊張してたみたいだ。
「もう大丈夫。行ってあげて。」
頷いて部屋を出る。あの男は誰なんだろう? 急いで由希子さんの部屋へ行ってドアを叩いた。
「由希子さん! 大丈夫?」
「コウ君? ちょ、ちょっと待っててね。」
慌てたような声がした後、少しして由希子さんがドアを開けてくれた。
「こんにちは、コウ君。」
由希子さんはいつも通りにしてるつもりみたいだけど、目が真っ赤だし頬っぺたも赤くなってる。ぼくが友達と取っ組み合いの大ゲンカをした時、ぼくも友達もこんな顔になってたのを思い出す。もしかしてさっきの男が由希子さんを殴ったんだろうか。だとしたら絶対に許せない。
「さっきの男、誰? すごい音がしたけど、大丈夫?」
「やっぱり聞こえちゃったか。心配して来てくれたのね。大丈夫よ、ありがとう。」
そう言って由希子さんは笑ったけど、全然上手に笑えてなかった。よく見ると口の端から血が出てる。やっぱりさっきの男が由希子さんを殴ったんだ。
「由希子さん、ケガしてるじゃん。何があったの? さっきの男が由希子さんにケガさせたんでしょう? あいつ、誰? ぼくが由希子さんの代わりにぶん殴ってやる!」
由希子さんの手を握ってそう叫ぶと、由希子さんは泣いてるような笑ってるような、難しい顔をした。
「コウ君は優しいね。あー君も昔は優しかったんだけどなぁ……。」
そう言って、由希子さんはぼろぼろ泣き出した。あー君っていうのがさっきの男のことなんだ。由希子さんは涙を拭きながらぼくを部屋に入れてくれた。布団で泣いてるなっちゃんをあやしに行って座った由希子さんも泣いてる。ティッシュを取って台所で濡らすと、由希子さんの唇の端ににじんでる血を拭いてあげた。由希子さんはびっくりした顔をして、またぽろぽろ涙をこぼした。
「ありがとう、コウ君。」
赤く腫れてる由希子さんの頬っぺたと、唇ににじんだ血、なかなか泣き止まないなっちゃん。ふたりとも怖い思いをしたに違いない。
「あいつ、由希子さんの何? あいつが由希子さんをこんな目にあわせたんでしょ? ぼくが仇を取ってあげる!」
由希子さんの手を握ってそう叫ぶと、由希子さんはまたぼろぼろ涙を零しながら首を振った。
「ありがとう、コウ君。でも大丈夫だから、心配しないで。」
「大丈夫なんだったらどうして泣いてるの? 全然大丈夫じゃないじゃん!」
ぼくが怒ると、由希子さんはなっちゃんをぎゅっと抱きしめてまた首を振った。
「あー君はね、この子のお父さんなの。今は色々あって荒れてるけど、本当は優しい人なのよ。だから大丈夫。心配かけてごめんね。」
あんな風に怒鳴って乱暴する男が、なっちゃんのお父さん? ぼくには信じられなかった。
「ぼくの父さんもあんまり帰って来れないけど、帰って来た時はすごく優しいよ。あんな風に怒鳴ったり乱暴なことしたりしない。母さんも父さんがいたら嬉しそうにしてるよ。今の由希子さんみたいに、悲しそうに泣いてなんかいない。なっちゃんのお父さんが、由希子さんに乱暴して泣かせるなんておかしいよ!」
由希子さんはあの男に騙されてるんだ。そう思ったけど、由希子さんは悲しそうな顔をしながら、「大丈夫だから、心配しないで」って繰り返すばかり。やっとなっちゃんが泣き止んだのと、由希子さんがだんだん困った顔になってきたから、「本当に大丈夫なんだね?」って何度も確かめて家に帰った。母さんに由希子さんが言ったことを話すと、母さんは大きなため息をつく。
「由希子さんはね、あんな男に惚れちゃってるのよ。私も『そんな男とは別れた方がいい』って言ったんだけどね。」
「どうしてあの男は由希子さんに酷いことするの?」
「世の中にはね、女の人の『好き』って気持ちを利用してお金を取ったり、暴力を振るったりする最低な男がいるんだよ。」
「なんで由希子さんはそんな奴が好きなの?」
「そういう奴はね、最初は優しくするから騙されちゃうんだよ。酷いことするのも『不器用な人だから』だなんて錯覚しちゃうんだ。男の方はその人のことなんてこれっぽっちも愛しちゃいないのに。目を覚ましてくれたらいいんだけどねぇ。」
母さんの悔しそうな声にぼくも頷く。由希子さんは悲しい顔して「最初は優しかった」とか「本当は優しい人」だって言ってた。でもそいつが優しかったのは由希子さんを騙すためなんだ。何とかして、由希子さんのあの最低野郎から助けてあげたいって思った。もしかして、母さんが言った由希子さんの「大変な思い」って、あいつのことなのかな。きっとそうだ。いっつも由希子さんをひとりぼっちにしてるくせに、たまに来たかと思えばお金を取ったり暴力ふるったり、そんなの絶対に許せない。今度あいつが来たら、ぶん殴って追っ払ってやる。二度と由希子さんに近付けさせない。ぼくが由希子さんを最低野郎から守るんだと誓った。
 数日後の終業式の日。友達と遊んで夕方に帰ると、あの時のバイクが止まっていた。あいつがまた来たんだ。母さんは仕事で家にいなかった。ランドセルを放り出して、まずは由希子さんの部屋の様子を確かめる。かすかにテレビの音がする。由希子さん、泣いてないのかな。でもぼくがこの間すごく心配したから、気付かれないように静かに泣いてるかもしれない。でも、なっちゃんの泣き声は聞こえないから、大丈夫なのかな。由希子さんはきっとそいつをかばうだろうから、そいつに直接会ってぶん殴ってやろう。そう決めて部屋を飛び出す。あの男がバイクの傍でタバコに火をつけた所だった。
「おい、待て!」
「あぁ? 何だお前?」
ぎろっと睨まれてちょっと怖くなったけど、負けちゃダメだとそいつを睨み返した。
「由希子さんに近付くな!」
「あぁん? お前にカンケーねぇだろ。」
背が高くて目つきが悪くて、まだらな汚い金髪をツンツンと立てて、耳と唇にもピアスを付けた、どこからどう見ても悪い奴だ。タバコの吸い殻を足元に投げ捨ててぼくを睨む。こんな奴が本当は優しいなんてありえない。
「由希子さんに謝れ!」
「何なんだよ、うっぜーな。」
新しく火をつけたタバコをぼくに投げつけてくる。ひらひらと飛んできたタバコを避けて、そいつにタックルする。
「由希子さんに謝れって言ってるんだよ!」
「うぜぇんだよクソガキ!」
いきなりお腹を蹴られて道の端まで転がった。めちゃくちゃ痛くてくらくらしたけど、ここでこいつを逃がしちゃいけない。咳き込みながら立ち上がって、バイクに乗ろうとしたそいつの足をつかむ。
「由希子さんに謝れよ!」
「うるせぇんだよ!」
蹴っ飛ばされて転がって、ひじやひざから血が出てるけど、気にしてる場合じゃない。こいつを絶対に許しちゃいけない、由希子さんに謝らせて、二度と近付かないようにしてやるんだ。
「由希子さんに謝れよ! お前、なっちゃんの父親だろ! あんなことして許されると思ってんのか!」
「はぁ? んなもん知らねーよ。あれが勝手に産んだんだ、オレにカンケーねぇ。」
「ふざけるな!」
なんて勝手なことを言うんだろう。こいつは悪い奴だって、由希子さんに教えてあげなきゃいけない。由希子さんにこいつは相応しくない。顔を殴られて、口の中に血の味がして気持ち悪い。でも歯を食いしばって立ち上がって、バイクに乗ろうとするそいつにしがみつく。
「だったら由希子さんをぼくによこせ!」
「あぁ? 欲しいならあんなもんいくらでもくれてやるよ!」
またお腹を蹴られて吹っ飛ばされた。ごろごろ転がりながら、必死に立ち上がる。
「痛ってぇ……。」
道路と電柱に頭や背中をぶつけて、蹴られたお腹が痛くて息が苦しくなって吐きそうで、頭がくらくらして前がよく見えなくて、痛いのと悔しいのとで泣きそうになる。こんな最低な奴に負けたくないのに。どうしてぼくはこんな子どもなんだろう。大人の男だったら、こんな奴に負けないのに。由希子さんを守ってあげられるのに。だめだ、泣いてる場合じゃない。由希子さんはもっとずっと長い間、こいつに苦しめられているんだ。ぼくが戦って由希子さんを守らなきゃ。震える足に力を入れる。殴られた顔が腫れているんだろう。すごく痛いし目が上手く開けられない。あいつはどこだ。このまま逃がしてなるものか。
「由希子さんに、謝れ……!」
「ぶっ殺すぞ、クソガキ!」
またお腹を蹴られて道路を転がる。足にも腕にも力が入らない。前もよく見えない。待てよ、逃げるな。立ち上がろうとして、だけど足に力が入らなくて転んでしまった。その時、どこかからサイレンが聞こえた気がした。
「お巡りさん、こっちです!」
誰か女の人が叫ぶ声もする。
「ちっ!」
舌打ちする声がする。バイクが走り去る音も。待てってば。由希子さんに謝れよ……!。
 気が付くと、ぼくは病院のベッドで寝かされていた。ぼくが起きたのに気付いた母さんが、勢いよく立ち上がってぼくに抱き付いた。
「全く、無茶するんだから……!」
涙声になった母さんは、ぼくの目を見つめて安心した顔で笑った。
「でも、あんたは勇敢だった。」
「だけど、あいつに逃げられちゃった。由希子さんに謝らせて、二度と近付かないようにしたかったのに。」
「あの男は警察の人が追ってるから、すぐに捕まるよ。」
あの時聞こえたサイレンは、気のせいじゃなかったんだ。母さんが廊下に顔を出して誰かを呼んでいる。ドアの向こうから、泣き顔の由希子さんが現れた。
「コウ君! 良かった……! 私のせいで酷い目に遭わせて、ごめんなさい!」
ぼくを見てぼろぼろ泣き出した由希子さんに首を振る。泣かないで。ぼくは由希子さんを守りたかったんだ。結局ボコボコにされて逃げられちゃったけど。由希子さんは泣きながら母さんに深く頭を下げる。
「私のせいで、息子さんに大怪我をさせてしまって、申し訳ありませんでした。」
由希子さんは悪くないよ! そう言おうとしたら、母さんは黙って由希子さんを抱きしめて、背中を撫でている。由希子さんは悪くないってみんなわかってる。ぼくが由希子さんを守るから。もっと大きくなって強い男になって、こんなケガしなくても由希子さんを守れるようになるから。もう泣かないで。
 それからぼくはしばらく入院することになった。でも検査の結果、脳にも内臓にも異常は無くて、すぐに退院できそうだった。入院してる間、由希子さんは毎日マンガ本やくだものを持ってお見舞いに来てくれた。
「退院したら、またたくさん由希子さんのお手伝いするから、待っててね。」
そう言うと、由希子さんは泣きそうなのを我慢してるみたいな顔で笑う。
「ありがとう。コウ君は優しいね。」
どうしてそんな悲しそうに笑うんだろう。その意味が分かったのは、退院した日のことだった。その日、由希子さんは病院に来なかった。ちょっと淋しかったけど、由希子さんは忙しいんだ、早く帰ってお手伝いしてあげなきゃ。そう思って、家に帰ると急いで由希子さんの部屋へ行った。だけど、どれだけドアを叩いても、由希子さんは出てこなかった。それどころか部屋から何の音もしなくて、ドアの郵便受けがテープでふさがれている。読めない漢字で書かれてた表札は外されていた。どうしたんだろう。由希子さんに何かあったの? まさかあいつが由希子さんを連れ去ったの? わけがわからずにつっ立っていると、母さんに手を引かれた。部屋に戻ると、母さんはぼくの手を握ったまま話してくれた。
「由希子さんはね、昨日の夕方に由希子さんのお姉さん夫婦のお家に引っ越して行ったの。浩介に『あいさつできなくてごめんなさい。本当にありがとう』って言ってたよ。」
「うそ……? 由希子さん、いないの?」
「由希子さんのお姉さんと旦那さんに会ったけど、優しそうないい人だったから、心配いらないよ。」
「もう、会えないの?」
そう言いながら涙がこぼれてきた。守りたかったのに、守れなかった。ぼくがもっと大人だったら、すぐ傍で守れたのに。
「泣くんじゃないの。そんなに遠い所じゃないらしいから、会おうと思えば会えるよ。」
それからね、と言って母さんはテーブルにあった新聞を広げて、小さな記事を指差した。
「いいニュースがひとつ。あの最低野郎、あの後すぐ警察に捕まったよ。由希子さん以外にも、たくさんの女の人に酷いことしてたっていうから、きっと重い罰が下るよ。」
母さんが指さした新聞には、あいつの写真が載っていた。警察に捕まったなら、こいつが由希子さんに近付くことはもうないだろう。ぼくには、結局なんにもできなかったんだ。声をあげて泣くぼくの背中を、母さんは黙ってなでてくれた。
 それから半年くらい経った頃、由希子さんから手紙が届いた。ぶあつい手紙には、たくさんのことが由希子さんらしいきれいな字で書いてあった。引っ越しするのを話せなかったことと、ぼくが退院する日と引っ越しの日が重なってしまって、ちゃんと挨拶もお礼もできなかったのを、とても申し訳なく思っていること。今はお姉さん夫婦と一緒に暮らしていて、ふたりとも優しくしてくれて、由希子さんもなっちゃんも元気にしていること。そして、由希子さんは今お義兄さんがやっているお店で働いていて、そこで知り合った男性と結婚することになったと書かれていた。写真も一緒に入っていて、公園のベンチで、なっちゃんを抱っこして笑う由希子さんの隣に、優しそうに笑う男の人が座っている。由希子さんの後ろにきれいな夕焼けが見える。幸せそうな光景だった。この人なら、由希子さんとなっちゃんを幸せにしてくれるだろう。いいことのはずなのに、ちゃんと喜べないのはどうしてだろう。悲しい涙が出てくるのはどうしてなんだろう。写真を置いて涙を拭いた。気持ちを落ち着けて、続きを読む。ひとりぼっちでなっちゃんを育てていて、毎日辛くて不安でたまらなかったあの頃、ぼくが家に来るのをとても楽しみにしていたと書いてあった。ぼくがあの最低野郎と戦ったのを見て、あいつと一緒にいちゃいけないってやっと気づけて、自分のせいで大ケガをさせてしまって申し訳ない、そしてとても感謝していること。ぼくと過ごした時間は幸せだったと、ぼくがいたから生きようと思えた、たくさんの幸せと希望をくれてありがとうと書いて、手紙は終わっていた。ぼくは由希子さんをあの時だけでも幸せにできていたんだと知って、今度は嬉しい涙が出た。ぼくは由希子さんが大好きだったんだ。由希子さんのためなら悪い奴と戦うのも怖くなかった。由希子さんに笑っていてほしい、幸せでいてほしい、そのためなら何だってできた。返事を書きたかったけれど、由希子さんの住所は書いてなかった。それから何度も手紙を読み返してぽろぽろ泣いた。由希子さんが幸せでいるのは嬉しい。けど、ぼくがずっと由希子さんの傍にいて幸せにしてあげたかった。そうするには、ぼくはまだまだ子どもなんだと思い知らされた。
「あんたもひとつ、大人になったね。」
母さんの言葉に、涙を拭って頷く。ぼくの初恋は、甘酸っぱい香りを残して、炭酸の泡のように、弾けて消えてしまった。
それからぼく達も引っ越しをして、由希子さんとの繋がりは途絶えてしまった。父さんとまた一緒に暮らせるようになったのは嬉しかったけど、由希子さんと過ごした場所を離れるのは淋しかった。

 あれからもう二十年くらい経つけれど、今でも忘れられない鮮烈な恋だった。僕も大人になって就職して、恋人もできた。独り暮らしを始めることにして、荷物を片付けている所だ。いずれはここで彼女と暮らすことになるんだろう。夕方には引っ越しの手伝いに彼女が来てくれるから迎えに行く約束を……しまった、今何時?
「浩介くぅん?」
目の前に彼女の怒った顔。
「な、夏海! ごめん!」
「駅まで迎えに来てくれるって言うから待ってたのに。遅いし住所わかってるから来てみたら玄関の鍵開けっ放しだし。座ってぼぉっとしてるし不用心すぎ! あぁ、重い!」
ひとしきり僕にお説教した後、抱えていたスーパーの袋をどさりと床に置く。
「買い物してきてくれたんだ、ありがとう。本当ごめん!」
「何をそんなにぼんやりしてたのよ?」
夏海はぷりぷり怒りながら僕の手から手紙と写真を奪い取る。初恋の人からの手紙を読みふけっていたなんて知られたらまた怒らせてしまう、と焦った次の瞬間、夏海は驚いた声を上げた。
「えっ? 何で浩介くんがお母さんとお父さんの写真持ってるの?」
「へっ?」
今度はこっちが驚く番だ。
「お母さんとお父さん、って? この人が?」
「そうだよ、ほら。」
最近撮ったやつだと言って、夏海はスマホの画像を見せてくれた。そこに映っているのは、写真より大人びているけど、間違いなく由希子さんだった。腕を伸ばして自撮りする夏海と並んで笑っている。その隣にいるのは、こちらも写真の男の人に間違いない。驚いた顔の夏海と写真を交互に見つめる。
「夏海のお母さんって、由希子さん? じゃあ、この写真の由希子さんが抱っこしてるのって、夏海?」
「うん、これ私だよ。伯母さん家の近くのこの公園、小さい頃よく遊んでたから覚えてる。今のお父さんと婚約した頃の写真かな。どうして浩介くんがこれを?」
そんなことが本当にあるんだろうか。初恋の人の娘が、今の恋人だなんて。
「由希子さんは僕が子供の頃、隣の部屋に住んでたんだ。幼い女の子と二人暮らしで大変そうだったから、何か手助けできることはないかって、色々手伝ってて仲良くなったんだ。でもある日突然引っ越して行って、その後くれた手紙に入っていた写真だよ。色々あったけど今は元気にしてるって、それからこの人と結婚するって知らせてくれたんだ。」
「そうなんだ。じゃあ浩介くん、私の小さい頃を知ってるんだね。なんか恥ずかしいな。」
「でも、夏海が由希子さんの娘だなんて、全然気が付かなかった。」
「私は、生物学上の父親に似ちゃったみたい。」
「あっ、ごめん!」
「ううん、全然気にしてないよ。お父さんは私を大事にしてくれるし。そういえば、子供のころにお母さんから聞いたことがある。私の生物学上の父親はクズな奴で、その頃隣に住んでた男の子がそいつをやっつけてくれたんだって。」
「やっつけようとしてボコボコにされたんだけどね」
「ううん、お母さんの中にあったそいつの幻をやっつけてくれたんだよ。その子がいなかったら、お母さんも私もこの世からいなくなってたかもしれない、私達の恩人なんだって言ってた。『コウ君』っていう七歳の男の子だったって聞いてたけど、まさか浩介くんのことだったなんて。」
写真を僕にそっと返して夏海は笑った。
「お母さんと私を助けてくれて、ありがとう。コウ君。」
ちょっと気が強くて、よく笑う優しい夏海を見てると、由希子さんは今も幸せに過ごしているんだとわかって嬉しかった。
「夏海と由希子さんが幸せで、良かった。」
「今度、お父さんとお母さんに会いにきてね。きっと驚くし、それ以上に喜ぶと思う。」
「うん、近いうちに必ず。」
そう答えて夏海を抱き寄せた。くすぐったそうに笑う声が愛しい。

あの夏、泡のように弾けた初恋は、形を変えて、今僕の腕の中で優しく弾けている。


                END


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