――スラムの片隅で、幼いふたりは精一杯生きた。互いの存在だけがふたりの生きる理由だった。愛でも恋でもなく、純粋にそれだけが生きる理由だった――
『ふたりの花』
僕たちは物心ついた頃にはこのスラムにいた。僕のそばには僕より年下らしい女の子がいて、「この子は僕の妹で、僕がこの子を守らなきゃいけないんだ」って思った。僕たちはずっとふたりで生きていた。どうして僕たちがスラムにいるのかなんて知らない。僕たちが本当に兄妹なのかそれとも他人なのかもわからない。でもそんなことはどうでもよかった。僕たちは、何もないここで生きるしかなかった。かろうじて雨に濡れずにすむボロボロの小屋が、僕たちの帰る場所だった。
何もできない幼い頃は、川の水や溜まった雨水を飲んで、食べられそうな草を探して食べていた。もう少し大きくなってからは、周りの大人たちの真似をして街へ出て店先からパンや果物を盗んで生きていた。悪いことだって知っていたし盗む時は心が痛んだけど、そうしないと生きていけないんだ、僕たちをここへ放り出した大人が悪いんだって言い聞かせた。荒っぽい人ばかりでもめ事の多いスラムだけど、「ここでは奪い合わない」っていう絶対に守らなきゃいけないルールがあるらしくて、そのおかげで僕たちみたいな子供でもどうにか生きていられた。それでも盗みがいつもうまくいくわけじゃない。何にも得られないことの方が多いし、追いかけられて散々殴られて怪我をして帰ってくることもしょっちゅうだった。空腹や傷が痛んでたまらない時にはさっさと寝てしまうに限る。悲しそうな目で僕を見る妹に、「ごめんね、おやすみ」とだけ言って頭をなでてあげる。すると妹は大きく首を振って、僕にぎゅっと抱き付いてくる。そんな仕草がとても可愛らしくて、「この子のために生きよう」って思えた。ボロ布1枚をふたりで被って眠る。くっついていると少しだけ温かい。
妹はほとんどしゃべらなかった。首を振ったり微かに表情を変えて意思表示はするけれど、声を出したり、笑うこともめったになかった。僕らに「読み書きくらいはできる方がいい」と言って読み書きを教えてくれたおじさんは、「この子はここへ来る前にひどい目に遭って、そのショックで口がきけなくなってしまったんじゃないか」って言っていた。たぶんその通りなんだろうと、スラムの川で水浴びをした時のことを思い出した。妹の痩せた背中に、刃物で切られたような傷痕があるのに気付いた。僕の手のひらぐらいの、けっこう大きな傷だった。驚いて傷痕に触れると、妹は身体を硬くして怯えた顔をする。今にも泣き出しそうに歪んだ顔で、苦しそうなかすれた声を上げる。その声にならない悲鳴は僕の胸を締め付けた。妹の身体と心に傷を付けた奴を心の底から憎んだ。妹はその日ずっと僕にしがみついていて、「僕がいるから大丈夫だよ」と震える細い背中をずっとなでていた。他の人に傷痕を見られたくないから、明るい時間に水浴びをするのは止めようと思った。
僕たちが暮らしている小屋の近くには、ぼろぼろになった古い教会があった。昔、どこかのお金持ちがスラムの人たちを憐れんで建てたんだと聞いた。壊れて屋根もなくなった教会に、お祈りに来る人なんかいない。そもそもここの人たちは神様なんて信じていないだろう。もちろん僕も。だけど、扉の前にある天使の像は欠けて汚れていてもきれいに見えて、僕と妹のお気に入りの場所だった。天使の像は優しそうな微笑みを浮かべて僕らを見下ろしている。他人から物を盗んで生きてる僕たちだけど、そんな僕たちでも生きていていいのだと言ってくれてるように感じた。春になって像の足元にたくさんの小さな青い花が咲くと、ふたりで並んで座って花や天使像や空を眺めていた。妹はこの青い花が好きで、大きめの花をいくつか束ねて髪に飾ってあげるととても嬉しそうに微笑んでくれた。花の髪飾りを小屋に持って帰って、大事そうに枕元に飾っていた。別の日には、妹がこの花で冠を編んで僕にくれた。「ありがとう、大切にするよ」って手を握ったら、微かに笑って頬を赤くした。この子を笑顔にするためなら、なんだってできると思った。
奪ってきた僅かなパンや果物を分け合って、淀んだ川で身体を洗い、ボロ布1枚をふたりでかぶり寄り添って眠った。いつかふたりでスラムを出て、あのきれいな街で暮らせたらいいなとも思ったけど、妹がいればどんなに辛くても生きられる、僕のそばで妹が笑ってくれたら僕は幸せだった。空腹でも寒くても、殴られた傷が痛んでも、妹のためなら頑張れた。僕が守らなきゃって思ってたけど、僕に生きる力をくれていたのは間違いなく妹だった。ずっとふたりで生きていこう、そう強く思っていた。妹もそう思ってくれていると感じていた。ふたりなら、こんな暮らしでも幸せだった。ずっとこの幸せを守りたいと思っていた。それなのに。
妹が妙な咳をし始めたのは、もうすぐ冬が終わろうとしている頃だった。嫌な予感がしていたけれど、薬なんて高価なものは手に入らないし、どんな薬が効くのかもわからない。スラムに住む子供を診てくれる医者なんていなかった。せめて栄養のある食べ物を、暖かい寝床を、そう願ったけれど、今以上のものを手に入れることはできなかった。見かねた周りの大人たちが、少しだけ食べ物を分けてくれたのが本当にありがたかった。「何もしてやれなくてごめん」って背をなでる僕に、妹は大きく首を振って僕の頬をなでた。その気丈さに胸が痛んだ。少しずつ暖かくなってきても、妹の症状は変わらなかった。苦しそうな妹をひとりにするのは心配だったけど、妹のために食べ物を手に入れなくちゃいけない。夜明け前、「急いで帰ってくるからね」と眠る妹に囁く。妹が目を覚ます前に出かけてこよう、そう決めて静かに小屋を出て街へ向かった。果物をひとつだけ手に入れて急いでスラムへ戻る。教会を通りかかると、天使像の足元に青い花がちらほらと咲いているのが見えた。もうすぐ春だ。またふたりであの青い花を、晴れた空を見たい。一心に走って小屋に戻ると、妹が起き上がって真っ青な顔で必死に腕を伸ばしてくる。手にした果物を放り投げて駆け寄った。細い腕が僕にすがりつく。妹の口元に血が流れているのを見て僕はわけもわからず叫んだ。血を吐いた、それは病気が進行している証拠。妹の震える身体を抱きしめる。僕の両腕を回しても余る細い身体。どうして。どうして。妹が僕の顔を見上げて必死に口を開く。何か言おうとしているんだと気付いて口元に耳を寄せた。妹は震える腕を伸ばして何かを指さす。
「おはな……あおいの……みたい……。」
苦しそうに囁いて妹が指さしたのは、すっかりしおれてしまった青い花の冠と髪飾りだった。さっき教会に咲いていたのを思い出す。頷いて口元の血をぬぐい妹を抱き上げた。子供の僕にも軽々と抱き上げられるほど細いその身体に泣きそうになるのをこらえる。妹を抱きかかえて教会へ走った。朝日が天使像を照らしている。朝露に濡れた青い花がやわらかい朝の光にきらきらと光っていて、いつも以上にきれいな光景だった。天使像の足元に妹を座らせると寄り添って腰を下ろす。花を見つめる妹の表情が少しだけ和らいだ。僕を見上げて唇を動かす。声は出なかったけど、確かに「ありがとう」って聞こえた。そうして妹は僕に身体を預けて目を閉じた。早朝だからまた眠ってしまったんだと思った。でも、もう妹は目を開けなかった。動かない妹を抱いて、僕は生まれて初めて大声で泣いた。涙も声も枯れた頃、妹に寄り添って目を閉じた。青い花に包まれて眠る、僕の可愛い妹。
――生きる理由を失った少年が、そのまま目を覚ます事は無かった――
END
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