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『茨姫』


「もういいわ、下がってちょうだい。」
自室のベッドを整えたり香を焚いたりしている侍女達を、アンジェラはうっとうしげに見つめていた。侍女達は手早く作業を終えるとアンジェラに向き直る。
「かしこまりました、アンジェラ様。おやすみなさいませ。」
「何かありましたらすぐにお呼び下さい。」
恭しく頭を下げ退室する侍女達に面倒臭そうに手を振ると、アンジェラは深い溜め息をついた。今朝聞かされた父王の言葉が蘇る。明日の建国記念祭で、アンジェラの婚約を国民に発表するのだという。婚約だなんてアンジェラ自身初耳であった。相手は隣国の第一王子セドリック。そして結婚式は半年後、アンジェラの15歳の誕生日と同時だという。アンジェラが嫁げば隣国の王家とは親戚関係ができる。隣国の王位を手に入れる事を狙った政略結婚だとアンジェラにも解る。憂鬱な顔でアンジェラはドレッサーの前に座った。鏡を覆う布をどけ、鏡面を見つめ呼びかける。
「ドリス、いる?」
しばらく間をおいて、アンジェラの鏡像は眠そうな目をした少女のものに変わる。
「何よぉ、こんな時間に。もう寝るところだったのよ。」
鏡の中に現れたドリスは目をこすりながらアンジェラを軽く睨む。ドリスはアンジェラが住む城の北側にある森の奥でひっそりと暮らしている魔女だ。アンジェラが幼い頃、退屈な城を抜け出し迷い込んだ森で出会った。人間の、しかも王家の姫の生活に興味を示したドリスは話相手になってほしいと、アンジェラの部屋の鏡と自分の部屋の鏡を魔法で繋いだのである。以来、ドリスはアンジェラにとって唯一本音を話せる人物となった。あれから10年ほど経つが、ドリスの容姿は出会った頃と全く変わらない。やっぱりドリスは魔女なんだなぁと思いながら、アンジェラは鏡の向こうのドリスを見つめる。
「魔女って夜活動するもんじゃないの?」
「私は朝型なの。で、何かあったの?」
「そうよ、私結婚させられちゃうの!」
憤るアンジェラをよそにドリスは微笑む。
「それは良かったじゃない、おめでとう。」
「めでたくなんかないわよ! 私はまだ14歳よ、結婚なんて考えられないわ!」
それにね、とドレッサーを手のひらで叩きながらアンジェラは続ける。
「相手は隣国の第一王子、これはただの政略結婚なのよ!」
「あら、王子様と結婚なんていいじゃない。」
「冗談じゃないわ! 王子なんてちやほやされて育った我が儘で嫌な奴に決まってるわよ。そんな奴と結婚だなんて絶対嫌よ。」
ふーんと頷きドリスは憤るアンジェラを見つめる。
「その王子様には会った事あるの?」
「無いわ。でも王家の人間なんて皆同じよ。」
何か言いかけたドリスを遮りアンジェラは鏡に顔を寄せる。
「ねぇ、ドリス、お願い。この結婚を止めさせる為に力を貸してほしいの。」
アンジェラの気迫に満ちた表情に、ドリスは考えを巡らせながら口を開く。
「そうねぇ、ならしばらく私の家に来る? 明日の婚約発表の場であなたをさらって、王様達にはこう言うの。『アンジェラ姫は魔王様の妃になる事が決まった。』」
「面白そうね!」
目を輝かせたアンジェラにドリスは芝居がかった口調で言葉を続ける。
「『邪魔だてすれば姫の命はない。』こう言っておけばしばらくは皆手を打てないと思うわ。」
「うんうん。じゃあ、明日私はどうすればいい?」
「まだ教えないでおくわ。これが狂言誘拐だってバレないようにね。」

翌日。
王宮前の広場には多くの人が集まっていた。アンジェラ王女の婚約はすでに国民に知れ渡り、広場は祝いムードに満ちていた。城には隣国の王と共にセドリック王子も訪れている。国民へ正式に婚約が発表された後、アンジェラはそのままセドリックと共に隣国へ向かう事になっていた。騎士隊に警護されながら現れ、挨拶を交わしたセドリックの紳士的な振舞いは、アンジェラには軟弱なものに映った。騎士隊長に先導されアンジェラは王と共に馬車に乗って広場へ向かう。城門が開かれ、宮廷楽師達の演奏と集まった人々の歓声が響く。馬車を降り、広場中央の石造りの舞台にアンジェラ達が姿を現すと、歓声は一際大きなものになった。先を歩いていたセドリックがアンジェラを振り返り微笑みかける。王や人々の手前、アンジェラはセドリックに微笑み返した。この結婚は取りやめになるんだからと自分に言い聞かせる。王が人々を見渡し、アンジェラとセドリックの婚約を発表すると大きな拍手が沸き起こる。ドリス、早く来て。アンジェラがそっと空に向かって呟いた時だった。突風が吹きつけ広場に飾られた花を散らす。次の瞬間、黒い巨大な生き物が飛来し、瞬く間にアンジェラの身体を掴んで飛び上がると舞台の上から王達を見回した。その姿に広場の警備についていた騎士隊が驚愕の声を上げる。
「ドラゴン! 何故こんな所に!?」
「アンジェラ様を放せ!」
黒いドラゴンはにたりと笑い王を見下ろした。
「アンジェラ姫は魔王様の妃になる事が決まった。」
「何だと!」
「婚礼の儀は次の満月の晩だ。邪魔だてすれば姫の命は無い。」
「アンジェラ姫は私の妃だ!」
足元に駆け寄ってきたセドリックにゆっくりと視線を移し、ドラゴンは目を細める。
「ほぅ。魔王様にたて突こうというのか。面白い。」
翼をはためかせドラゴンは上昇する。
「ならばお前一人で姫を奪い返しに来るがいい。婚礼の儀の準備が整うまで姫は北の塔に幽閉する。他の者がいたら姫の命は無いぞ。」
身を翻しドラゴンは北の空へ飛び立つ。アンジェラの悲鳴とセドリックの怒りの声が響き、広場は騒然となった。

アンジェラを掴んだドラゴンは北の森へ飛ぶ。森の奥にある小さな塔に辿り着くと、くたびれた様子でアンジェラをどさりと降ろした。
「あー、重かった。」
「重かったとは何よ、失礼ね。」
アンジェラの抗議を無視しドラゴンは文句を言いながら身体を震わせる。その姿は一瞬でドラゴンから小柄な黒猫に変わった。
「あなた猫だったの?」
驚くアンジェラを黒猫は小馬鹿にした目で見上げる。
「ドラゴンがこんな人里近くにいるわけないじゃん。ドリスの魔法で化けてただけ。」
その口調にむっとするアンジェラを尻目に、黒猫は塔に向かって呼びかける。
「ドリス、連れてきたぞ。」
「お疲れ様、サリュ。アンジェラ、いらっしゃい。直接会うのは随分久しぶりね。」
「そういえばそうね。」
ドリスに案内され塔の中へ入る。石造りの塔はひんやりとした空気に満ちていて心地良い。壁の棚には見たことの無い文字で書かれた本や、見慣れない木の実に薬草の束、ボコボコとあわ立つ液体の入った瓶などが詰まっていてアンジェラの好奇心をそそった。
「さて、あちらはどう出てくるかしらね。」
ドリスが呟いた時、アンジェラはサリュがセドリックに言った言葉を思い出す。
「そうだ。ねぇ、どうして『一人で奪い返しに来い』なんて言わせたの?」
「ずっとここにいるわけにもいかないでしょう。あれで王子様の本心がわかるかもしれないし。」
「本心ねぇ。どうせ兵士が大勢来るだけよ。王子一人でなんて来るわけないわ。」
「ま、ともかく少しゆっくりするといいわ。助けが来るとしても、人間の足だとここまで来るのに一昼夜はかかるでしょうから。」
ドリスの言葉に頷きながら、アンジェラは助けが来るのはもっと先だろうと考えていた。城の警備を疎かにはできないから兵士を緊急徴集する事になるだろう。武器防具を調達するにも時間がかかる。王子を危険にさらしたりはしないだろうから、救出が来る頃にはこの婚約は破棄されているだろう。年頃の姫など近隣諸国にはまだ大勢いるのだから、セドリックの相手は自分でなくても構わない、そこまで考えアンジェラはふと自嘲気味に笑った。

翌日の夜。夕食を取っていたドリスとアンジェラの元へ周囲の見回りをしていたサリュが駆け込んできた。
「ドリス、大変だ! あの王子もう来たよ!」
慌てるサリュと対照的にドリスはのんびりと呟く。
「あらぁ、随分早いわね。」
「どうすんだよ、戦うのか? ちょっと足止めしてみたけどあいつ強いよ。ドリスが倒されるとこなんて見たくないぞ。だから僕は反対したんだ!」
忌々しげにサリュはアンジェラを睨んだ。なぜセドリックが来るのかと、アンジェラは困惑した視線を外に向ける。
「一応、魔王様の拠点って事になってるから武装しておかないと怪しまれちゃうわね。」
怒るサリュを宥め、ドリスはアンジェラを連れ塔の屋上へ向かう。ドリスが杖を振ると塔は鋭い棘を持つ茨に包まれた。やがて月明かりの中にセドリックが現われる。息を切らしながら険しい表情で剣を抜くと切っ先を塔に向け叫ぶ。
「アンジェラ姫、今助けに参ります!」
茨の蔓がセドリックに鞭の様に襲い掛かった。無数に襲い掛かる蔓を剣で叩き斬りながらセドリックは塔の入り口に駆け寄る。セドリックの腕には血の滲んだ布が巻かれていた。サリュの足止めを受け戦い負った傷らしく、衣服の袖を破り包帯代わりに巻いている。ろくな装備もなく、剣一本だけ持って駆けつけてきたようだった。
「本当に一人で来たのねぇ。」
屋上からセドリックを見下ろしドリスは呟く。アンジェラもセドリックを見下ろす。
「わからないわよ。その辺に兵士が隠れてるかもしれないわ。」
アンジェラの言葉にサリュはフンっと鼻を鳴らす。
「あいつ以外誰もいなかったぜ。城の方まで見回ってきたんだ。間違いない。」
「そんなはずないわ。王子が一人で来るわけないじゃない。」
アンジェラの言葉に呼応するかのように、茨の蔓は勢いを増しセドリックを攻撃する。背後から襲い掛かった茨の棘がセドリックの背を切り裂いた。苦痛の声を上げながらもセドリックは振り向きざまに剣を振るい、蔓を斬り落とす。だが斬っても斬っても蔓は無限に伸びセドリックに襲い掛かる。今にも兵士が現れてセドリックを援護するに違いないとアンジェラは思っていた。だが、どれ程セドリックが傷を負い危機に陥っても、彼を援護する者は現れない。セドリックの戦いをしばらく見つめていたドリスはアンジェラを見据える。
「どうしてそんな風に思うの?」
「だって、ちやほやされて育った我が儘王子が一人で助けになんて来るわけないわ。」
ドリスは悲しげにアンジェラを見つめる。
「それは、アンジェラ自身がそうだからじゃないの?」
「えっ……?」
ドリスはセドリックに視線を移す。延々と続く茨の攻撃に消耗しているのが明らかだった。
「彼は本当に一人で来たわ。きっと、アンジェラの事が好きだからよ。将来は国を背負って立つ事を決められた人が、我が儘で嫌な奴であるはずないと思うの。アンジェラ自身がちやほやされて育った我が儘王女だから、他の王子や王女も同じだと思い込んでいるのよ。」
ドリスの足元でサリュは吐き捨てるように告げる。
「アンタの我が儘のせいでドリスもあの王子も、城の人もみんな迷惑してるんだ!」
はっとするアンジェラに視線を戻しドリスは言葉を続ける。
「この茨はね、アンジェラの心を具現化したものよ。他人を信じられずに否定し、拒むアンジェラの心そのもの。」
その時アンジェラの視界の端に、蔓に足を取られセドリックが転倒するのが映った。剣を弾き飛ばされ倒れるセドリックの咽喉に茨が巻きつく。
「アンジェラ姫ー!」
セドリックの悲痛な叫びが響き、アンジェラは愕然として座り込んだ。
「どうしてそこまで……。」
たった一人で剣だけを手に駆けつけ、傷だらけになってもなおアンジェラを救うべく立ち向かうセドリックの姿は、アンジェラに自分の愚かさを突きつける。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
肩を震わせるアンジェラの背をそっと撫でるとドリスは微笑んだ。
「さぁ、王子様と一緒に城に帰りなさい。サリュ、もう一仕事お願いね。」
ドリスが杖をサリュに向け振るとサリュの姿は黒いドラゴンに変わる。
「ドリスは甘いんだよ。」
ぶつぶつ言いながらサリュはアンジェラを掴み屋上から飛び上がった。蔓が力を無くした事に気付いたセドリックは巻きついた蔓を振り払い立ち上がる。剣を拾い、ゆっくりと息を整える。剣で身体を支えながら塔を見据えるセドリックの前にサリュはアンジェラを放り落とす。
「アンジェラ姫! ご無事ですか!」
アンジェラに駆け寄り背後に庇うように立つとセドリックは剣を構える。サリュはつまらなさそうにフンッと息を吐き2人を見下ろした。
「魔王様は気が変わられたようだ。そいつにはもう用は無い。」
それだけ告げるとサリュは北の空へ姿を消した。セドリックは震える手でアンジェラの手を取る。
「恐ろしい思いをさせて申し訳ありません。私がもっとしっかりしていたら……。」
セドリックの言葉にアンジェラは大きく首を振った。
「いいえ、あなたはたった一人で来て下さったわ。こんなに怪我をさせてしまって、謝らなきゃいけないのは私の方です。」
ぽろぽろと涙を零すアンジェラの頬にセドリックはそっと手を当てる。
「どうか泣かないで。さぁ、皆が待っています。城へ帰りましょう。」
セドリックは微笑みアンジェラの手を取って歩き出す。怪我をしているセドリックを支えるように寄り添いアンジェラも歩き出した。

アンジェラ達が城へ戻ると、王はアンジェラの無事を涙ながらに喜び、セドリックの勇敢さを讃えた。人々は魔王に一時でも魅入られた悲運の王女アンジェラと、アンジェラを救ったセドリックの英雄譚に沸いた。王や騎士達が止めるのも聞かず、愛するアンジェラを救う為飛び出したセドリックは国中の女性達の憧れとなった。
城の一室で傷の手当を受け、ベッドに横たわるセドリックをアンジェラは申し訳ない思いで見つめていた。悲しげな顔のアンジェラにセドリックは微笑みかける。
「そんな顔をしないで下さい。私は大丈夫ですから。」
「でも、私のせいでこんな……。」
「あなたを守るのは私の義務であり最大の喜びです。」
セドリックはふと表情を引き締めアンジェラの手をそっと握った。
「初対面の私をいきなり婚約者だと言われて、困惑するのも無理はありません。でも、これだけは信じて頂きたいのです。父達には政治的な思惑があってこの結婚を決めたのでしょう。でも私は……。」
照れ臭そうに空いている方の手で何度も髪をかき上げながら、セドリックは真っ直ぐにアンジェラを見つめる。
「でも私は、あなたとの婚約を聞かされた時に、あなたの肖像画を見て一目で恋をしたのです。何と美しい人なのだろうと。お会いできる日をずっとずっと心待ちにしていました。」
嘘の無い真っ直ぐなセドリックの目と言葉はアンジェラの胸を打つ。
「私の想いは父達の思惑とは関係ありません。あなたを幸せにすると誓います。私の妻になって頂けますか?」
真摯なセドリックを前にして、自分の我が儘さと愚かさが情けなくアンジェラはぽろぽろと涙を零した。泣き出したアンジェラにセドリックは慌てる。
「何か、気に障る事を言ってしまいましたか?」
「いいえ。ありがとうございます。あなたの妃に相応しい女性になれるよう、努力します。」
この事件が狂言だったと知ったらセドリックは幻滅するだろうか。いや、それでもセドリックは許すだろうとアンジェラは感じた。しかしそれに甘えてはいけない。茨だらけの自分の心を救ってくれたセドリックの気持ちと行動に応えなくてはと、アンジェラはセドリックの手をそっと握り返し微笑んだ。

塔の窓からアンジェラ達が城へ向かって行くのを見つめていたドリスは歌うように呟く。
「魔王の手下に攫われたお姫様を救った王子様は、お姫様と結ばれて幸せに暮らしましたとさ。」
「ドリスは甘いんだって。あんな我が儘姫の言う事なんか聞いてやる必要なかったのに。僕とドリスが悪者扱いされるじゃないか。」
塔に戻ってきたサリュは猫の姿に戻り文句を言い続ける。サリュを抱き上げドリスは笑った。
「いいの。アンジェラは私の唯一の友達だもん。」
「だからってさぁ……。」
「それに私、アンジェラに一つ嘘ついちゃったし。」
「何、嘘って?」
見上げたサリュの頭を撫でながらドリスはにんまりと笑う。
「あの茨は私の魔法で作り出したものよ。アンジェラの心なんかじゃないの。」
「……ドリスって意外に……。」
「何か言った?」
「何でもありませ〜ん。」
サリュは慌ててドリスの手から降りる。サリュの慌てぶりにくすくす笑いながらドリスは窓から城の方の空を見つめた。
「そうだ、アンジェラの新しい部屋の鏡の場所、聞いておかなくっちゃ。」
窓の外には少し欠けた月が優しい光を投げかけていた。


                  END


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