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『戦女神の人魚像』

 王宮前の広場には、美しい人魚の像が建てられている。古代に王の命令で作られたものだそうだ。馬に引かせる古代の戦車から軍旗を掲げる凛々しい姿と、どこか悲し気な表情は人々を惹きつけた。彼女は古代に軍師として王に仕え大陸統一に貢献し、また海神の力で多くの兵を治癒し、その美しさと慈愛で彼らの士気を高めたと伝えられている。だがなぜ人魚が王に仕えたのか、それ以前に人魚など実在するのかなど、謎も多い。僕の手で、真実を明らかにすることはできないだろうか。


 私が即位したのは、大陸の覇権を巡る争いが激化し始めた頃であった。世が乱れれば、悪辣な輩も跋扈する。その日、私は近海を荒らす海賊団を捕えたと騎士隊から報告を受けていた。
「捕えた海賊の船から武器や宝石類のほかに、捕獲を禁止している生物が多数見つかりました。」
「何だと!?」
騎士隊の報告に私は憤りを抑えずにはいられなかった。希少な生物や神聖な生物の捕獲は大陸全土で禁止されている。戦乱に乗じて武器や宝石の密売に加え密猟まで行っていたとは。我が領内での野蛮な振る舞い、断じて許すわけにはいかない。
「これらは怪我をしているものも多数おりますので、手当をし回復次第、早急に元いた場所へ帰してまいります。」
「そうしてくれ。全く、何という惨いことをするのか。」
「しかし、そのうちの一体、いや一人というべきでしょうか、酷く怯えてしまっていて我々の治療を受けてくれないので困っておりまして。怪我の具合も酷いので、一刻も早く手当をしなくてはならないのですが……。」
「そうか。よほど酷い目に遭わされたのだろう。怯えるのも無理はない。だが今『一人というべきか』と言ったな。どういう意味だ?」
「はい。その生き物の中に、人魚がいるのです。」
「人魚!?」
「はい。若い女性の人魚で、言い伝え通りの姿をしています。実在するとは思いもよらず、我々も驚いています。」
伝説上の存在だと言われている人魚が実在したという報告に、思わず驚きの声を上げてしまった。人魚が持っているという不思議な力が真実であれば、大金を積んででも手に入れようとする輩が現れるに違いない。海賊共に悪用される前に見つけられたことに安堵する。
「我々の薬や治療が人魚にも効果があるのかわかりませんし、何より酷く怯えていて、言葉は通じるようですが話ができる状態ではありません。手当をしようとすると悲鳴を上げて暴れ泣き出してしまうので困っております。」
野蛮な海賊共に捕まって傷を負わされたのであれば、人間全てに怯えるのも無理はないだろう。恐ろしい目に遭い、差し出される手を信じられずにいるのはあまりにも不憫だ。どうにか助けてやる手立てはないものか。
「今、その人魚はどこにいる?」
「水の中にいる方が落ち着くかと思いまして、中庭の泉で休ませています。」
どうにか落ち着かせて直接話をしてみたい。我が領内で恐ろしい目に遭わせてしまったことを詫びなくては。女性であるなら、女官と共に話した方がいいだろうか。捕えた海賊共は男ばかりだ。我が国の誠実な騎士達とはいえ、体格のいい男はみな同じに見えてしまうのかもしれない。
「女性とならば話をしてくれるかもしれないな。誰かタナウを呼んできてくれ。」
ほどなくして女官達の長であるタナウが騎士と共に現れた。私が幼い頃から頼りにしている女官で、若い女官達や他の臣下からの信頼も厚い。
「お話は伺いました。かわいそうに。何とか助けてあげたいですわね。」
「うん。まずはタナウから話をしてほしい。酷い目に遭わされて人間を怖がっているようだが、同性で年配者のお前なら安心できるかもしれない。」
「心得ました。」
騎士に案内させ中庭へ向かう。庭師の手によって整えられた美しい庭だ。庭を囲む石塀に沿って植えられた低木が白い花を咲かせている。陽光を受けてきらめく芝生の絨毯を縫うように煉瓦の道が伸びて、庭を散策できるようになっているのだ。中庭の中央に作られた大理石の泉へ向かう。私の寝台をふたつ並べたほどの大きさで、深さは私の膝くらいの泉だ。色とりどりの花と大理石の彫刻に囲まれたその泉の隅で、自分の身体を抱きしめるようにうずくまっている女性の姿が見えた。簡素なものとはいえ鎧を着ている騎士を下がらせ、タナウが泉に近付く。少し離れて私も歩み寄ると、彼女は顔を上げた。その瞬間、私は矢に射抜かれたような衝撃を覚えた。なんと美しい少女なのか。だがその美しい顔は今、恐怖に覆われている。年は人間なら10代の半ばといったところだろう。午後の陽射しを思わせる柔らかそうな金色の髪が、ゆるく波打ち背に流れている。腰から下は確かにきらめく鱗が生えた魚のもので、尾ひれが水に揺れていた。海の青をそのまま映したかのような澄んだ瞳が、怯えを浮かべ潤んでいる。血の気を失った唇が震えている。頬や腕、あちこちに無数の傷と痣が見える。どうしたら、彼女の恐怖を取り去ってあげられるだろう。タナウが彼女の視線の高さに合わせて身をかがめ話しかけるのを、私は少し離れ後ろから見守る。
「初めまして。ご気分はいかがですか? 酷い目に遭わされたのね。どうか怖がらないで。ここにはあなたに危害を加える人間はおりません。」
穏やかに話すタナウに少しだけ警戒を解いたのか、彼女は恐る恐る口を開く。
「あなたは……?」
「私はこのお城に仕える女官をまとめているタナウと申します。あちらの方はこのフォルトゥトの国を治めるフィントリア王。私達の国で恐ろしい目に遭わせてしまった償いに、あなたの傷の手当をさせて頂きたいの。あなたの名前を教えて頂けるかしら。」
「わたしは、ティニカです。」
「では、ティニカ。あなたの手当をさせて下さい。とても衰弱しているようだし、こんな酷い怪我では海に帰るのも難しいでしょう。」
ティニカは迷うように視線を彷徨わせたが、痛む身体に耐えかねたように目を閉じゆっくりと頷いた。
「わかりました。よろしくお願いします。」
ほっとした顔でこちらを振り返りながら、タナウはティニカに私を指し示す。
「王があなたに直接お詫びしたいと申しています。お話させて頂いていいかしら。」
私をちらりと見て彼女は無言で頷いた。泉の前に跪きティニカへ頭を下げる。
「我が領内で恐ろしい目に遭わせてしまい、本当に申し訳ない。心より償いをすると誓う。」
「……はい。」
ティニカの声に顔を上げると、私を見つめる彼女と目が合った。ティニカの顔には怯えと疲れと、少しの戸惑いが浮かんでいたように見えた。
それから数日。「部屋よりも泉の方が落ち着く」と言うので、ティニカは中庭の泉で手当を受けながら過ごしている。人魚の体質なのか若さゆえか、傷の治りは驚くほど早く、海賊船に閉じ込められ弱っていた身体も回復しつつあるようだった。城の者達はみなティニカを気遣い、彼女も徐々に心を開いてくれていた。タナウの話では女官達だけでなく、男の臣下とも会話を交わすようになったという。ある日、私は政務の合間を縫ってティニカを見舞いに中庭へ向かった。私が彼女に会うのは彼女を保護した日以来だ。タナウに見立ててもらった花束を手に中庭へ出る。浮足立っているのを自覚しながら泉への道を歩く。泉に歩み寄った私にティニカは深々と頭を下げた。
「フィントリア様。先日は助けて頂いたにも関わらず、無礼な態度を取ってしまい申し訳ありませんでした。」
「無礼などと。恐ろしい目に遭ったのだから無理もない。それに私は海賊の討伐を指示したに過ぎない。礼は騎士達に言ってやってくれ。具合はどうだ?」
「はい、おかげ様で順調に回復しております。皆さまとても親切にして下さって、ありがたいです。」
「それは良かった。」
差し出した花束にティニカは顔をほころばせた。
「なんてきれいな花! ありがとうございます。ここは、水も植物も空気もすべてが澄んでいて優しいです。ここにいらっしゃる方々の心を映しているのでしょう。」
「君にそう言ってもらえると嬉しい。私は城の者達に『優しく正しくあれ』と説いている。人は弱い生き物だが、優しさと正しさを持っていれば、困難を切り拓き平和な世界を築くことができると考えている。」
泉の縁に腰かけティニカを見つめる。彼女は私の言葉に頷いてくれた。
「えぇ。海神様も同じようなことを仰っています。優しさだけでは他者を救えない、正しさだけでは平和は訪れない、と。」
私を見上げティニカは言葉を続ける。
「お城の皆さんは、『フィントリア様が大陸の覇権を握れば間違いなく良い世界になる』と仰っていました。わたしも、そう思います。水や大地は、その地を治める存在の心を感じています。海賊の見せ物にされてあちこちの地へ行きましたが、こんなに水が優しい地は初めてです。フィントリア様のお心が反映されているからです。」
心、と口にしたティニカが自分の胸元に手を添えたのを見て、人魚と人間でもわかり合うことができると感じた。そして私を見上げるティニカの眼差しに親愛を感じ胸が高鳴る。美しく聡明な少女。辛い目に遭っても、他者の優しさを信じる心の強さ。私は彼女に惹かれた。彼女が傍にいてくれたら。だが彼女は人魚。陸地では生きられない。心身共に回復したら海へ帰るのだ。そんな彼女を私の手元に置きたいなどと考えてはいけない。身勝手な感情を抑えるべく空へ視線を移し話し続ける。
「ありがとう。この大陸は今、どの国が覇権を握るかと争っている。我が国も戦わねばならないだろう。王国民を守り、豊かで平和な暮らしをさせるのが王の義務だ。だが人が暮らせる地は限られている。民により豊かな暮らしをさせるために、他国の領土を奪おうと考える王も少なくない。目的は正しいといえるが手段に優しさのかけらも無い。だが攻め込まれれば守るために戦わねばならない。これ以上争いが起きないようにするために、戦って大陸を掌握できる権力を手にしたいと考えている。だが、戦いの無い世を作るために戦うとは、矛盾しているな。」
俯き自嘲する私にティニカは真剣な眼差しを向ける。
「わたしはまだ子供で、難しいことはわかりません。でも、多くの人が優しさを忘れ自分の正しさだけを主張する中で、フィントリア様の考えは優しさがあります。わたしも、お城の皆さんと同じく、フィントリア様をお慕いしています。」
ティニカを見つめると、彼女は真っ直ぐに見つめ返してきた。この美しい存在を守らなくては。そのためには戦火が広まる前に、ティニカを海へ帰さなくてはならない。それから私は時間を作って彼女に会いに中庭へ行った。「海神の教えというのを私にも教授してほしい」という口実で、彼女と様々な話をした。ある時は画家を呼んでティニカの肖像を描かせたりもした。ティニカが海へ帰る前に、彼女の姿を彼女の声を、彼女の心を、彼女の全てを記憶に刻んでおきたかったのだ。ティニカとの時間は、私にとって楽しく幸福な時間だった。ティニカにとっても、そうであると良いのだが。彼女も私と話し笑ってくれる。海神のことや、海底での暮らしを語るティニカを見るにつれ、早く故郷の海へ帰らせてあげたいという気持ちと、彼女と離れたくないという気持ちが同時に沸きあがる。いけない。ティニカは海の民だ、我がフォルトゥトの民ではない。
それから十数日が過ぎたある日。王国内は緊迫した空気に満ちていた。大陸最強と謳われるヴァスチェ帝国が大陸全土へ宣戦布告し、本格的に戦を始めたのだ。我が王国内への進軍を阻止すべく騎士隊に出陣を指示し、騎馬兵のひとりに別の任務があると声をかけた。中庭へ走る。王国に戦火が迫る前に、ティニカを海へ帰さなくては。
「ティニカ!」
「フィントリア様。戦が始まるのですね。」
「あぁ。身体はもう大丈夫か? すぐに海に帰るんだ。騎馬兵が君を海まで送る。」
声をかけた騎馬兵が馬を連れて中庭へ現れる。彼と私を順に見つめ、ティニカは首を振った。
「わたしは、まだ助けて頂いた恩を返していません。」
「そんなことはいいんだ! 二度と君を辛い目に遭わせたくない。」
ティニカを馬に乗せようと伸ばした腕を、彼女は静かにしかし強く止めた。
「わたしはあのまま海賊船で死ぬのだと思っていました。乱暴に扱われ見せ物にされ、人間は恐ろしい生き物だと思い込んだまま死ぬのだと。でも皆さんがわたしを救ってくれました。この恩を返さずに帰るわけにはいきません。」
「ティニカ! 聞き分けの無いことを言うのはやめてくれ!」
思わず叫んだ私をティニカは静かに見つめ返す。その強い眼差しに息を飲んだ。
「フィントリア様。戦にわたしの力を使って下さい。戦う力はありませんが、皆さんを守ることはできます。それに、海賊船で聞いた話は有力な情報になると思います。」
「戦いに参加する気なのか?」
「はい。わたしはこの国の優しい水を守りたいのです。それは故郷の海を守ることにも繋がるでしょう。それに、わたしは……。」
視線をさまよわせ口ごもったティニカは、何かを決意したように再び私の目を見つめ返した。
「わたしをこの国の民にして下さい。フィントリア様をお慕いする皆さんと共に、この国を守りこの国で生きたいのです。」
「だが君は海を離れては生きられないのではないか?」
「えぇ。ですからわたしは、この国の民として生きこの地に身をうずめる覚悟です。フィントリア様が救って下さったわたしの生命を、フィントリア様のために使いたいのです。」
「本気なのか?」
「はい、本気です。」
ティニカの真っ直ぐで強い眼差しは、彼女の言葉が本気だと示している。ティニカを危険な目に遭わせたくない。だがそれほどまでに真剣な彼女の意志は尊重すべきだと考えた。
「海賊船で得た情報とは?」
「あの海賊達は、ヴァスチェ帝国に雇われ略奪や密売を行っていたんです。」
「本当か!?」
「はい。皇帝が密かに海賊の頭と会っていたのも見ました。商船や港から奪われたお金や武器が、帝国へ渡っています。それを帝国の人々に明かして、海賊と通じている悪い皇帝を失脚させられないでしょうか。」
野心家な皇帝だと感じていたが、そんな輩に王国を蹂躙させるわけにはいかない。
「確かな証拠があれば、帝国の信頼できる人物に託して動いてもらえるだろう。何か確固たる証拠はないだろうか?」
「海賊船でわたしが閉じ込められていた部屋には、隠された戸棚があります。帝国の紋章が書かれた紙の束を、わたしが見ている目の前でそこにしまっていました。見られていても、わたしには何なのか分からないだろうと決めつけ油断していたのでしょう。バカにするにもほどがあるわ!」
怒りを顕わにしたティニカを宥め頷く。
「よし、もう一度海賊船を調査させよう。だが、すでに帝国軍が迫っている。戦いは避けられない。君は、本当に戦が始まるこの地に残るのか?」
「はい。わたしにも戦わせて下さい。わたしを救って下さった皆さんを、フィントリア様が治める優しい大地を、守りたいのです。」
ティニカの真っ直ぐな眼差しを受け止める。私達へ寄せてくれる想いが嬉しくもあった。
「君は意外と頑固なのだな。わかった。決して無茶はしないと約束してくれ。私が全力で守る。私の傍で、共に戦ってくれ。」
「はい、ありがとうございます。」
ティニカの話を伝え海賊船の再調査を命じ、皇帝と海賊の繋がりを示すものを見つけ次第、皇帝と対立している第一皇子へ密かに届けるよう指示を出す。それからヴァスチェ帝国軍の侵攻を阻止すべく、街を離れ国境の草原地帯に陣を敷いた。やがて街道と交差して流れる河の向こうに、帝国軍の部隊が現れる。たなびく軍旗を見るに皇帝が直接率いる軍ではないようだ。軍の指揮を執る私の戦車に、ティニカも乗っている。軍馬を操り戦車の操作に専念する馭者を、海神から授かったというティニカの術が守っている。馭者だけではない。私も、この場の全ての戦士が、ティニカの術に守られているのだ。私達を包んだ水の膜が堅固な盾となって火矢を落とし、剣や槍の勢いを削ぐ。傷を負った者も彼女の術が癒す。ティニカの不思議な力に圧倒されながら、戦車に迫り斬りかかってきた敵の剣を受け止め弾き落とす。戦いが始まって数刻、倒れていくのは帝国軍の戦士ばかり。自分達の攻撃が通じないことに混乱しているようだ。大陸最強と謳われるヴァスチェ帝国軍相手に、優位に戦いを進めている。無論、我が戦士達も鍛錬を重ねているが、ティニカが起こす奇跡によるところが大きいだろう。海神の加護とは、不思議なものだ。
「皆さんの想いに、海神様も応えて下さっています。」
ティニカが戦車から軍旗を振ると、戦士達から大きな歓声が上がる。士気の上がった戦士達が帝国軍を追い詰めていく。やがて一時撤退を決め帝国軍が引いていく。倒れた帝国軍兵を捕え私達も一時引き上げると、陣営の奥のテントに大きな水桶を用意しティニカを休ませた。無傷の我が軍を見て「出番は無さそうですね」と笑う救護兵に、ティニカの様子を診させる。
「ティニカ、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。」
だが彼女を診た救護兵は表情を曇らせた。
「いつもより体温が高く脈も速いです。ティニカさん、苦しくないですか? 痛むところはないですか?」
「大丈夫です。戦いに参加するなんて初めてのことで、興奮しているのかもしれません。」
「気が昂っていると身体の異変に気付きにくくなる。今日はもう休め。城に戻る方がいいか?」
不安になった私にティニカは力強く首を振った。
「いいえ、大丈夫です。お傍に置いて下さい。」
気丈に首を振るティニカに、それ以上何も言えなかった。
 国境での戦いは数日に及んだ。ティニカの力に恐れをなしたのか、帝国軍の士気は著しく低い。捕虜にした帝国兵の話では、多くの兵がこの戦には消極的だともいう。皇帝の圧政に兵も民衆も疲弊しているのだと。ならば彼らのためにも、皇帝の悪事を暴き戦を終わらせねばならない。日々続く戦に、ティニカも弱り始めている。だが城へ戻って休養するように言っても、彼女は頑なに首を振った。後にして思えば、この時無理やりにでもティニカを帰らせるべきだったのだと悔やまれてならない。そうして戦いが終わったのは、帝国軍の侵攻から半月ほど経った頃だった。帝国軍の伝令兵が皇帝失脚の報せをもたらすと、帝国兵はすぐさま投降した。帝国軍総大将によれば、帝国内でも第一皇子を中心に皇帝を失脚させようという動きがあったという。私達からの情報がおおいに役立ったと感謝を告げられた。戦を始めた皇帝が失脚した以上、戦を続ける意志は無いという。大陸各地で起きている戦の平定に向けて我々と共に務めること、帝国の立て直しに助力することなどを話し合う段取りをつけ、軍を引き上げた。その道中、ティニカはぐったりと力を失って倒れ、苦し気な息を繰り返していた。呼びかけても反応が無い。彼女を抱きかかえ馬を飛ばす。平時には冷たかったティニカの手は人間の私よりも高く乾いていて、危険な状態にあることを示していた。死なないでくれ、そう願いながら馬を走らせ街を抜ける。城へ戻り門番に帰還を告げ、医師を呼ぶように命じると馬から飛び降り中庭へ走った。ティニカを泉の中へ横たえさせる。水に触れて少しは楽になったのか、ティニカはわずかに身体を起こし私を見上げた。
「フィントリア様……。戦いは、終わったのですか?」
「あぁ。君のおかげだ、ティニカ。すぐに手当をするから、しっかりするんだ。」
私の言葉にティニカは安心したように微笑んだ。苦しそうな息をしながら、私の手にそっと手を重ねる。
「お役に立てて、良かったです。」
今にもかき消えてしまいそうな儚い笑みに、彼女の手を握り叫ぶ。
「ティニカ、しっかりするんだ。私には君が必要だ!」
「光栄なお言葉、ありがとうございます。わたしも、フィントリア様を、お慕いしています。」
応えて微笑むティニカの手は熱を持ち震えている。熱く乾いた彼女の手は、徐々に重みを失っていく。
「わたしは、この国の民に、なれましたか……?」
「無論だ! 君はこの国の民であり女神だ!」
私の叫びに、ティニカは心から嬉しそうに微笑んだ。それを最後に、彼女の身体は砂のように一瞬で崩れてしまった。私の手のひらから、ティニカであった砂がさらさらと泉の中へこぼれ落ちていく。彼女を戦へ連れて行ったのは間違いだった。ティニカが望まなかったとしても、彼女を海へ帰すべきだったのだ。砂と一緒に、私の頬をつたった滴が泉へ落ちて行く。やがて中庭に医師とタナウが薬や清潔な布を抱えて駆けつけた。誰もいない泉とうずくまり涙を零す私に、ふたりは駆け寄ってくる。
「フィントリア様……。」
「間に合わず申し訳ありません!」
「いや、お前達のせいではない。私が悪いのだ。彼女を海へ帰すべきだったのに……。」
私の言葉にタナウは大きく首を振った。
「いいえ、フィントリア様。私も彼女に『戦が始まる前に海へ帰った方がいい』と諭そうとしました。けれど彼女はここに残り私達と共に生きると決意していたのです。それを無視して海へ帰らせるのは、彼女にとって不幸なことではないかと思います。自分を受け入れてくれなかったと、悲しみに暮れながら故郷で過ごすよりは、フォルトゥトの民として生きられた日々は幸せだったのではないかと、私は思います。」
「そう、だろうか?」
ティニカは最期の瞬間、私の言葉に心から嬉しそうに微笑んでくれた。海賊から救ってくれた恩返しだと彼女は言ったが、それ以上の想いを寄せてくれたのだ。私が悔いることは、彼女の決意と想いを否定することになるだろう。私はティニカであった砂を手のひらに包みタナウに告げた。
「ティニカを、王宮内の墓苑へ埋葬してやってくれ。」
「かしこまりました。」
「それから、彼女の像を作りたい。ティニカを描いた画家と彫刻家を呼んでくれ。彼女はこの国の女神だ。王国民すべてに、彼女の事を末永く記憶していてほしい。」
「すぐに手配致します。」


 古代、フォルトゥト王国には人魚がいたらしい。若き王に軍師として仕え、海神の力を駆使して王国を守り、王国による大陸統一に大きく貢献したという。彼女の功績を称えた像が、王宮前の広場に建っているそれだ。古代の戦車から軍旗を掲げる凛々しい姿と、どこか悲し気な表情は人々を惹きつけ、人魚像は王国の観光スポットの一つとなっている。また王族と一部の側近しか立ち入れない王家の墓苑には、彼女の墓もあるのだとか。まるでお伽話だが、果たしてどこまで真実なのだろうか。多くの人は、この人魚とは女性騎士だったのではないかと言う。人魚など存在しない。王族と騎士の身分違いの恋物語を、王家の醜聞とならぬよう幻想的に仕立て上げたのではないかと。資料は伝聞ばかりで、結局何も明らかにはならなかった。王族と騎士の悲恋も魅力的な逸話ではあるが、人魚が実在し王国に貢献したと、そしてもしかしたら当時の王と心を通わせたのではないかと考える方が、ロマンがあっていいと僕は思う。


END


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