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『嘘と救済の駆け引き』


 霧雨が降りしきる夜。少年は木陰に身を潜め、森のそばに建つ神殿の様子を窺っていた。歳の頃は10歳を少し過ぎた頃だろうか。薄汚れたぼろぼろの衣服を身にまとっている。身を隠すには目立たずちょうどよいが、雨や寒さをしのぐには全く適していない。小刻みに震えながら、少年は少しずつ神殿に近づく。
「あそこの聖剣を奪って売っ払えばいい金になりそうだ。」
誰でも自由に出入りし礼拝ができるとはいえ、希少な品も収められている神殿は警備も厳重である。更に今は夜だ。門は閉ざされ、列柱の間から槍や棍棒を携えた神官が巡回しているのがちらりと見える。
「裏から忍び込むか。」
寒さに震えながら呟くと、少年は木々に身を潜めながらゆっくりと神殿の裏手に回る。少年の目的は無論、礼拝などではない。神殿に奉られている聖剣を盗み出すことだ。古代に地上を侵攻した魔王軍と激戦を繰り広げ、世界を救った勇者が使用していたという伝説の剣だ。勇者亡き後は、勇者の故郷と言われているこの国の神殿に納められ、大切に奉られている。聖剣は定期的に人々に公開され、英雄譚が語り継がれているのだ。その鞘には炎を模した精緻な彫刻が施され、柄には青く美しい宝石がはめ込まれ、その刃は永い時を経ても一点の曇りもなく鋭い光を放っているという。盗み出して売れば、当面は食いっぱぐれることもないだろうと少年は考える。有名な剣だからそのままでは売れない。盗み出して住処に戻ったら、すぐにばらばらにしてしまおう。持ち運ぶにもその方が楽だ。思考を巡らせながら、少年は怒りを込めた呟きをもらす。
「オレみたいな子供のことも救ってくれたっていいだろう。」
親の顔も知らず、街外れの朽ちかけた小屋に一人で暮らし、スリや盗み、物乞いをしながら生きている少年。彼のような子供は少なくない。神殿は古代の英雄の意思を継ぎ、人々を様々な脅威から救うためにあるという。ならば、聖剣が自分を救うために使われてもいいはずだと考えながら、少年は神殿を睨む。
「なぁ、勇者様とやら。大昔に魔王なんてとんでもない奴をやっつけて世界を救ったんなら、オレみたいな子供を救うくらい簡単だろ?」
神殿の裏に回り込むと、少年の背よりやや高い塀を見上げる。手近な木によじ登り、雨と泥で滑り落ちそうになりながらもどうにか塀に飛び移り、敷地内に侵入する。神殿の壁に張り付いて身を隠しながら、中へ入れる箇所を探す。身を低くし足音を忍ばせながら、壁伝いに探っていると明かりが見えた。角を曲がった先に庭へ面した廊下が見えた。庭を見渡せるよう、低い石の柵が設けられただけの廊下が伸びている。物陰に隠れ中の様子をうかがう。神殿内を照らす松明が燃える微かな音と、降りしきる雨音以外に何も聞こえない。周囲に人の気配もないようだ。そっと身を乗り出し、柵を乗り超え神殿へ侵入する。以前、一度だけ礼拝と見学を装って神殿に入ったことがある。みすぼらしいいで立ちの少年に、怪訝な顔や露骨な嫌悪感を示す人々の視線に耐えながら、神殿の内部を頭に叩き込んだのだ。迷うことなく聖剣が収められている部屋へ向かう。今は公開期間ではないから、剣は礼拝堂ではなくその部屋に保管されているはずだ。巡回する神官から隠れながら、聖剣のある部屋に辿り着く。アーチ状の入り口をくぐると、堅牢な石壁に囲まれた小さな部屋の中央に、石の台座が据えられていた。その上に、豪奢な装飾の施された木箱が置かれている。箱に手をかけると、小さな軋み音を立てながら木箱はあっさりと開いた。滑らかな光沢を放つ布を取り払うと、鞘に納められた一振りの剣があった。想像以上に美しい剣に少年は息を飲む。震える手で剣を取りそっと鞘から引き抜いた。部屋の小さな松明の灯りでも、剣は神々しいまでの輝きを放っている。ずしりと重みのある剣をしばし眺め、そっと納め直す。これを持って早くここから出なくては。
「そこで何をしている!?」
怒声が響き少年は飛び上がりそうになりながら振り返った。棍棒を携えた神官が少年を睨みつけている。剣を抱えて身を屈め、神官を突き飛ばして逃げようとした。だが、体格のいい神官は少年の体当たりをものともせず彼の腕を掴み、剣を取り上げる。
「盗っ人め! 役人に突き出してやる! おい、誰かフィナス様を呼んでくれ!」
少年は神官に腕を掴まれたまま、礼拝堂にある祭壇の前に立たされた。松明の炎が揺れ、少年の顔を照らし出す。集まった他の神官は、聖剣を盗もうとしたのが年端のゆかぬ子供だと知り驚きを隠せずにいた。やがて、従者を連れた神官が現れる。この人物が先ほどフィナスと呼ばれた神殿の長なのだろう。少年の背丈と同じくらいの、小柄な年配の女性だった。聖剣が盗まれそうになったといきり立つ神官達に比べ、穏やかな表情で少年を見据えている。少年の前に立つと、身をかがめ少年の目を覗き込んだ。
「まぁまぁ、聖剣を盗みに来た輩がいると聞いたから、どんなに恐ろしげな悪党かと怯えていたら、ずいぶんと可愛らしい泥棒さんではないですか。」
バカにされていると感じ少年は無言で長を睨む。だが、盗みが見つかってしまった以上、どうにかしてこの場を切り抜けなくてはならない。冷静になれと自分に言い聞かせる。
「その剣を、どうするつもりだったのですか?」
穏やかな口調で問うフィナスに、少年は考えを巡らせる。少しは話の解りそうな婆さんだ、本当のことを言うわけにはいかないが、うまくすれば逃げられるかもしれない。少年は怯えた表情を浮かべてみせ、長を見つめ返した。
「あの、オレ、夢を見たんです。」
「夢?」
「はい。雨の夜に、この神殿の剣がオレを呼ぶから来いって、誰かに言われたんです。」
とっさに吐いた嘘だが、信心深い神官達なら都合よく解釈してくれるかもしれないと作り話を続ける。
「いつもの夢とはなんだか違っていた気がして、ちょうど雨が降ったし来てみたんです。そしたら『こっちだ』って頭の中で声がして、それで剣を見つけて握ったら、この人達に見つかって『盗っ人』って言われて、どうしたらいいかわかんなくなって……。」
少しずつ声を小さくし、困惑と怯えを表してみせる。視線を落としてしばし黙り込んだ後、顔を上げるとフィナスは驚いたように目を見開いていた。
「まぁ! あの伝説はやはり真実だったのですね!」
ホントにそんな伝説があったのかよ!? と少年は動揺する。フィナスの言葉に神官達もざわめき始める。フィナスは神官達を静まらせ話を続けた。
「この神殿にはこんな言い伝えがあります。『魔王軍が再び侵攻を開始した時、聖剣は勇敢なる者を呼び新たな勇者と定める。勇者は雨の夜、夢に導かれ剣と邂逅し、再び世界を救う。』と。今宵は雨、そしてこの子は剣を求めて聖剣の間に現れた、言い伝えの通りです!」
感激に声を震わせるフィナスに、少年は戸惑う。選択を誤ったかもしれない。だがここは話を合わせるしかない。
「では、この子供が新たな勇者様なのですか?」
「えぇ、間違いありません。」
「オレが、勇者様……?」
フィナスは少年の目を見据え大きく頷いた。
「えぇ。すでにご存じでしょうが、この剣はかつて魔王軍の侵攻から世界を救ってくださった勇者様が使っていたものです。その剣があなたを呼び、言い伝え通りにあなたは現れた。聖剣はあなたを救世の勇者様と認めたのです。」
フィナスは表情を引き締め、あっけにとられている神官達を見回す。
「ほら、皆さん。勇者様へのご無礼をお詫びしなさい。事情を確かめもせずに盗っ人呼ばわりなどとんでもない。」
慌てた神官達が少年の前に跪く。
「勇者様、ご無礼をお許しください!」
「お怪我はございませんか? 申しわけありませんでした。」
口々に謝罪する神官達に少年は戸惑う。自分は本当に盗っ人なのだ、彼らが謝罪する必要などない。
「そんな、謝らないでください。こんな時間に勝手に入ったオレが悪いんですから。」
さすが勇者様、お心が広い、などと感嘆の声を上げる神官達に大きく首を振りながら、少年は不安げな表情をしてみせフィナスを見つめる。
「オレが、魔王と戦うの?」
そもそも少年は魔王軍が侵攻を始めていることすら知らなかった。日々生きることで精いっぱいの彼は、世界の情勢に目を向ける余裕などなかったのである。フィナスは少年を見つめ頷いた。
「怖くなるのも無理はありません。しかし、あなたは聖剣が認めた強く勇敢な人物です。この剣は古代に神々から授かったもの、判断を違えることはありません。」
目を輝かせるフィナスと感嘆の声を上げる神官達に焦り始める。だが話を合わせておけば、聖剣は自分の物になる。神殿を遠く離れた所で剣を分解して、少しずつ売り払っていけばいい。少々予定が狂ったが、最初の計画通りに事は運ぶはずだと少年は考えた。しおらしく俯き、自信なさげに言葉を発する。
「でも、オレみたいなのが勇者様だなんて……。」
やせ細った身体にぼろぼろの汚れた衣服。伝説の勇者の姿には程遠い。
「神々は人の魂を見ています。人間の目には見抜けない、その人の真の資質を見抜くのです。あなたは神々が優れた資質を持つと認めた人。胸を張って下さい。」
とっさの嘘が通用し罰せられなかったことに安堵しながらも、魔王と戦えだなんて冗談じゃないと少年は憤る。今までだって苦しい暮らしを強いられてきたのだ。どうして自分が世界を救わなくてはいけないのか。それが聖剣を盗もうとした罰だというのなら重すぎるだろう。どうにかここを切り抜けて、聖剣を手に入れなくては。
「それに、剣術なんて習ったことないですし、戦い方なんて知りません。オレには魔王と戦うなんて無理です。」
フィナスは少年を真っすぐに見つめ返し微笑んだ。
「聖剣があなたを選んだのです。新たな主に相応しいと。剣があなたを導いてくれるでしょう。これはそういう剣です。それに、街で教えている剣術は競技としてのもの、実戦向きではありません。」
フィナスの言葉を受け、槍を携えていた神官が一歩踏み出て口を開いた。
「しかし不安はごもっともです。もしよろしければ、我々が剣の手ほどきを致しましょう。我々は神殿警護のため実戦向きの剣術を身につけておりますゆえ、お力になれるかと思います。神殿には旅人を泊める設備もありますので、ちょうどいいでしょう。」
「それはいい考えですね。私達も無責任に彼を送り出すだけではいけません。剣術の手ほどき、旅支度の揃え、魔王軍の情報収集、私達にできることはたくさんあります。それらが整うまで、勇者様には神殿に滞在して頂いて、剣を学ばれるのがよいでしょう。いかがですか? 勇者様。」
話がおかしな方向へ進んでいると少年はひそかに頭を抱える。だが、実戦的な剣術を学べるのは悪くない。その間神殿に滞在できるのなら、食うにも困ることはないだろう。吐いた嘘は貫き通すしかないと少年は心を決めた。
「わかりました。皆さん、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願い致します。あなたは決して一人ではありません。」
フィナスは微笑みながら少年を見つめた。
「では勇者様、お名前を教えて頂けますか?」
少年に名前は無かった。名付けてくれる人も呼んでくれる人もいなかったし、名乗る必要もない暮らしだった。しかしここにしばらく滞在するなら、名前が無くては不便だろう。適当な名前をひねり出す。
「オレは、シンっていいます。」
「いい名前ですね。私はここの長を務めるフィナスと申します。シン様のお世話はハルバスト、お前に任せますよ。」
先ほど剣術の手ほどきをしようと言った神官が一礼する。
「かしこまりました。シン様、よろしくお願い致します。」
「はい、こちらこそお願いします。あと、オレのことはシンでいいです。まだオレは、勇者じゃありませんから。」
勇者になる気などない、という意味だったが、フィナス達は謙虚な心だと受け止めたようだった。

 その日から少年はシンと名乗り、神殿で暮らし剣術の指南を受けていた。
「筋がいいですね。さすが剣が選んだ方だ。」
「すばしっこさには自信があったけど、そういってもらえると嬉しいな。」
もともと身体能力は高く、また盗んでは逃げてという暮らしの中で足の速さは自信があった。そこへ仮初のものとはいえ、十分な食事と休息の場が与えられたことは、シンの身体に良い変化をもたらす。こけていた頬は年相応な柔らかさを持ち、折れそうに細かった腕や足、薄かった背や胸にも筋肉がついた。
そんな暮らしがひと月ほど続いた頃、シンの心にも変化が現れる。これまで、盗みに入って捕まったことは何度もあった。罵られ暴力を振るわれ、大怪我をすることなど当たり前のことだった。だが、フィナス達はシンの突拍子もない嘘を信用し、一時的なものだが温かく清潔な暮らしの場を与えてくれた。剣術だけでなく、読み書きに計算、地図の見方、調理や簡単な工作など、旅に必要だろうと言い様々な知識や技術を身につけさせてくれている。シンを救世の勇者だと思い込んでいるとはいえ、そこまでしてくれる彼らを騙したままでいいのだろうか。親切にされること、何かを教わること、期待を寄せられること、今までになかった経験だ。それに対して何をしたらいいのか解らなかった。何かをしたいと思ったこと自体が初めてで、そんな自分に戸惑う。しかし今更本当のことなど言えない。ならば、吐いた嘘を貫き通すしか自分にはできないと、シンは覚悟を決めた。
 そうしてシンは旅立ちを決意する。フィナス達はマントのついた丈夫な麻の衣服と、シンの体格に合わせた軽く扱いやすい鎧一式、皮の靴、当面は困らないであろう路銀、そして聖剣を持たせてくれた。それらを受け取りシンは深々と頭を下げる。
「今までありがとうございました。オレに本当に魔王を倒すなんてことができるかどうかわかりません。でも、皆さんのために、皆さんが暮らす世界を守るために、全力を尽くします。」
「ご無事をお祈りしています。」
シンを見送りに神殿の全員が集まっていた。うっすらと涙を浮かべている者もいる。フィナスが歩み出てシンの手をそっと握った。温かく柔らかな感触に、シンの心は昂る。その手を握り返し、シンはフィナスを見据えた。
「行ってまいります。」
「行ってらっしゃい、シン。あなたの勇気と正しい心は、あなたに大いなる力を与えてくれるでしょう。」
もう一度深々と頭を下げ、シンは旅立った。やがてシンの姿が街道の向こうに消えると、神官達はフィナスに視線を集める。
「よろしかったのですか?」
「何がです?」
「剣が選んだとはいえ、神殿の宝でもある聖剣を与えてよろしかったのですか?」
心配そうなハルバストにフィナスはにっこりと微笑む。
「あれは鍛冶屋が作った模造品ですよ。本物の聖剣は古代の勇者様の死と共に失われています。とはいえ腕のいい職人の剣ですから、シンの力になるでしょう。」
「そうだったのですか! 我々は本物だとばかり……。」
「がっかりさせてしまいましたか?」
がっかりついでにもう一つ、とフィナスは一同を見回した。
「皆さんは、シンの話をどう思いましたか?」
「夢で剣に呼ばれたという話ですか? 驚きました。長年神殿に努めていながら、そんな伝説があるとは全く知りませんでした。」
「知らなくて当然です。そんな伝説など存在しないのですから。」
「えっ!?」
驚愕の声を上げた一同を見回し、フィナスは静かに話を続ける。
「私は彼の目を見て、嘘を吐いているとすぐに解りました。盗みに入った上に嘘を吐いて逃れようとするなど、許してはなりません。しかし、あの身なりから彼は孤児なのだろうと推察しました。誰の庇護も愛も受けられず、他人から奪うしか生きる術を知らなかったのでしょう。悲しいことに、そうやって生きている子供は少なくありません。」
「しかし、ではなぜ嘘を信じたフリなどを?」
フィナスは悲し気に目を伏せ言葉を続ける。
「神殿と私達神官は、世界の様々な脅威や苦しみから人々を救うためにあります。しかし実際は、苦しみながら生きている人々に対して、私達は無力です。」
言葉を切りフィナスは一同を見回す。
「それでも私達は苦しむ人々を救うのが務めです。しかしそれは、一時的な施しを与えることではないでしょう。それはただの傲慢に過ぎません。たとえばシンのような生き方を強いられている子供であれば、彼らに知恵や技術を与え、正しい道へ進む手助けをすることが私達の務めだと思います。なので、彼の嘘を利用することにしました。」
シンに剣を教えていたハルバストは大きく頷いた。
「そういえば、剣を教えていくうちに、彼の目はだんだんと曇りが晴れていくように感じました。今後、彼が盗みをはたらくことはないと思います。」
「えぇ。シンの目は、初めて会った夜とは大きく変わっていました。彼は私達の想いに応えてくれたのです。」
シンが去った道の先を見つめ、フィナスは力強く微笑んだ。
「もしかしたら、シンが本当に魔王を倒すかもしれませんね。想いは人を、世界を、変える力を持っているものですから。」
魔王を倒せなくても構わない、彼が希望と共に生きられれば。祈りを込めて、フィナス達はシンが進んだ道をいつまでも見つめていた。


END


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