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何が正しいかなんて知らない。ここで1人で生きていくためには、そんなのどうでもいい事だった。

『カルマの坂』

 少年は街外れの廃墟と化した教会を棲処にしている。スリの戦利品を抱え、彼は床に腰をおろした。神様なんていない、そう思うくせにここにいると落ち着くのは何故なのか。考えるのは止めた。子どもである事は少年の武器だった。警戒心を抱かれずにターゲットに近付いて財布を掠め取り、店先のパンや果物をくすね風の如く消える。大人達が盗みに気付いた頃には少年の姿は消えていた。その日も、くすねた果物を抱え坂を走っていると突然目の前に人影が現れた。避ける間もなく衝突する。舌打ちしながら落とした果物を拾っているとか細い声がした。
「ごめんなさい。」
少年は驚く。謝られるとは思ってもみなかった。顔を上げると華奢な少女がリンゴを拾って差し出してくれていた。同い年くらいだろうか。整った顔立ちの少女だった。
「こっちこそ、悪かったな。」
ぼそりと答えてリンゴを受け取ると少年は再び走り出す。少女のか細い声と細い指先が少年の脳裏に蘇る。鼓動が早いのは走っているからだと、時間をロスして捕まりはしないかと怯えたからだと考える。彼がその感情の名と意味を知るには幼く、また人との触れ合いも足り無さ過ぎた。しかしそれは勿論、彼のせいでは無い。
棲処へ帰ると彼はリンゴにかじりつきながら先程の少女を思い出す。小汚い姿の自分にぶつかられて怒りもせず、むしろ謝ってきた彼女は、余裕のある恵まれた生い立ちなんだろうか。それにしては痩せて顔色も悪かった気がする。綺麗な顔があれじゃ台無しだ、とまで考えて首を振る。自分には関係無い事だ。

 ある日少年は盗みに失敗し複数の大人達に囲まれた。しこたま殴られ罵られる間、彼はじっと感情を閉ざす。身体の痛みなら堪えられる。何も感じるなと暴行が収まるのを待つ。やがて満足したのか大人達が立ち去ると、少年は壁に寄りかかり空を見上げた。こんな生き方しか出来ないなんて、自分の前世はどれ程の極悪人だったというのか。前世の罪など知った事か。満身創痍で棲処に帰ろうと立ち上がった時、か細い声がした。
「大丈夫、ですか?」
聞き覚えのある声に振り返ると、先日ぶつかった少女だった。心配そうに少年を見つめ、ハンカチを差し出している。
「汚れるから、いい。」
ぶっきらぼうに答え断る少年を彼女は制する。
「怪我してる人を放っておけません。」
少年の手当てをしながら彼女はぽつりと言う。
「あの男には気をつけて下さい。」
「え?」
「さっきのリーダー格の男、街一番の権力者です。目を付けられたらこの程度では済みません。」
少女は少年の腕に包帯代わりのハンカチを巻き目を伏せた。
「――。」
「えっ!?」
消え入りそうな声で何かを告げると少女は身を翻し立ち去った。少年は茫然とする。彼女が助けを求めたように聴こえたからだ。そういえば、彼女の手首に縛られたような跡があった気がする。何故彼女は自分を気にかけるのか。悲しみに満ちた眼差しの意味は何なのか。少年は傷の痛みも忘れて走り出す。彼女も理不尽な業に囚われているなら、助けたいと思った。
坂を駆け上がり辿り着いた先は街一番の富豪、領主を凌ぐ権力を得た男の屋敷だ。男の黒い噂は少年の耳にも入っている。彼女が言った「あの男」とは奴の事だろう。高い塀に囲まれた屋敷は暗く物々しい雰囲気を漂わせ、いかにも悪人の根城といった佇まいだった。どうにか中を伺えないかと辺りを見回す。手近な木に登り様子を窺っていると門の方から怒鳴り声が聞こえる。視線を向けると、男があの少女の腕を乱暴に引きながら歩いてくるのが見えた。男は屋敷の使用人らしい。彼女が屋敷を勝手に抜け出した事に腹を立てているようだった。見つからないよう身を潜め、男の吐く言葉から彼は少女の身の上を察する。借金の片に売られた没落貴族の娘。金で買われた少女がどんな目に遭うか。幼い少年にも容易に想像がついた。次の瞬間、今まで感じた事の無い深い怒りが沸き起こる。大人の身勝手で踏みにじられる彼女の心。彼女は、助けてくれる人を探していたのかもしれない。少年は、初めて自分を気にかけてくれた彼女を救おうと決めた。
その日の夕方、酒場で酔って寝ている兵士から剣を2本奪う。正規の兵士が持つ剣は少年が扱うには重過ぎた。それでも短剣は腰に縛り、長剣を抱え富豪の屋敷へ走る。夜を待ち屋敷に忍び込んだ。薄暗い屋敷の中で1つだけ灯りの点いた部屋を目指す。中から聞こえて来た悲鳴に、少年は我を忘れ扉を蹴破った。だらしなく醜い姿で横たわる富豪は突然の侵入者に狼狽える。少女が部屋の隅へ逃げた事にも気付かず鈍い動作で起き上がろうとする。
「何だ貴様!」
憤り叫んだ時には既に遅く、少年は長剣に全体重をかけて富豪の胸に突き立てた。嫌な感触が手に伝わるのを堪え懸命に剣を突き立てる。富豪はしばらく喚いていたがやがて動かなくなった。富豪が息絶えたのを確かめ少年は剣から手を放す。部屋の隅で震えていた少女が顔を上げた。少年と視線を交わすと彼女は微笑む。
「助け、て。」
かすれた声に彼は頷いた。こんな生き方しか出来ないのなら、いっそ――
腰に縛っていた短剣を抜き、少女の胸に振り下ろした。少女は少年を抱きしめるように倒れ込む。流れた涙をそのままに微笑むと、彼女は床に崩れ落ちた。窓から射す月明かりが彼女の顔を照らす。
「神様。」
少年は呟いた。どうして彼女を愛さなかったんだ。こんなに綺麗な子なのに、あんまりだ。彼は生まれて初めて他人の為に泣いた。彼女はこれで救われたのだと信じたかった。来世があるならどうか幸せに。そして、自分は彼女と同じ所へは行けないだろうと思う。来世はもっと酷い生き方になるかもしれないけれど。少年は剣を握り直した。
「そんなの知った事か。」


                    END


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