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 引越し準備の為、古い荷物を整理していた河村智樹は、手紙の束から落ちた紙片に目を止めた。
「懐かしいなぁ……。」
拾い上げて思わず口元を緩める。それは、1枚の切符だった。

『大人の切符』

 智樹の初恋の相手、渡瀬真里は智樹が小学校4年生の2学期に転校してきた。クラス委員をしていた智樹の隣の席に座った真里の、「よろしくね。」と言って見せた微笑みが可愛くてどきどきしたのを覚えている。父親の仕事の都合で転校の多い真里はすぐにクラスに溶け込んでいった。後で聞いた所によるとクラスの男子の半分以上が真里の事を好きだったらしい。何とかして真里ともっと仲良くなりたいと考えていた智樹は、ある日真里が自分と同じマンションの同じ棟に住んでいる事を知った。学校から少し離れたマンションで同級生はほとんどいない。このチャンスを利用しない手はないと、智樹は朝1人で学校へ向かう真里に思い切って声をかけた。真里は嬉しそうに「1人で登校するのは心細かった。」と言い、その日以来2人は一緒に登校するようになった。教室で話す機会も増え、やがて互いの母親が同じマンションで同い年の子どもを持つ親同士として仲良くなったのも手伝って、智樹と真里の仲は他のクラスメイトより近いものになった。互いの家にも遊びに行くようになり、クラスメイトの好奇心と少しの嫉妬が混じった冷やかしを受けながら、2人はよく一緒にいるようになった。
「私ね、智樹君の事好きだよ。」
真里が恥ずかしそうに頬を染め智樹の手を握ったのは、風が冷たくなり始めた晩秋の事だった。
真里の手を握り返した智樹の顔は真里以上に赤くなっていた。
「僕も、真里ちゃんが好きだ。」
「ずっと、一緒にいようね。」
「うん。」
嬉しさと恥ずかしさとで真っ赤になりながら2人は手を取り合い、幼いながらも真剣な約束を交わしたのだった。今になって思えば、真里は離れ離れになる事を察していたのかもしれないと思った。
ある日の放課後。当番に当たっていた教室の掃除を済ませ、帰り支度をする智樹に真里が声をかけてきた。
「智樹君……。」
「あれ? 真里ちゃん、どうしたの?」
校庭で女友達と遊んでいた真里を窓から見ていた智樹は、帰宅したと思っていた真里が学校に残っていた事に驚く。さらに泣きそうな顔をした真里に戸惑った。
「真里ちゃん? 何かあったの?」
「あのね、私ね、また転校する事になっちゃった。」
思ってもいなかった言葉に智樹は動揺する。
「嘘だろ? いつ? どこへ!?」
「お父さんの転勤が急に決まったんだって。来週にここからずっと遠くへ行かなきゃいけないの。」
ぽろぽろと涙を零し真里は智樹の手を握って俯いた。
「智樹君に会えなくなるの嫌だよぉ。」
泣き出した真里の手を握り返した智樹はしばらく言葉を告げられなかった。真里にもう会えなくなる、一緒にいられなくなる、その事実がゆっくりと智樹の心に浸透する。そんなのは、嫌だった。
「僕も、真里ちゃんと一緒にいられなくなるのは嫌だ。」
智樹の言葉に真里はゆっくりと顔を上げる。大粒の涙を零しながら智樹の目を見つめ、真剣な眼差しで口を開いた。
「智樹君、私と駆け落ちしよう。」
「駆け落ち?」
聞きなれない言葉に首を傾げた智樹に、真里は泣きながら頷く。
「うん、駆け落ち。恋人同士が離れ離れにならないために、2人で一緒に遠くへ逃げるの。」
恋人同士、その言葉に智樹の鼓動が高鳴った。駆け落ちするには具体的にどうすればいいのかなんてわからなかったし、父さん達が心配するだろうとも思ったが、それよりも真里と離れたくない、泣いている真里を笑顔にしたい、そんな気持ちでいっぱいになった。
「わかった。一緒に駆け落ちしよう。」
「本当?」
「うん。2人で遠くへ行こう。真里ちゃんの事は僕が守るから。」
智樹の言葉に、まだ涙を溢れさせながらも真里は嬉しそうに微笑んだ。しっかりと手を握りあった2人は校門を出ると、家には帰らない決意を固めて歩き出した。
その日の夜、子どもが帰って来ないと智樹の家と真里の家では騒ぎになっていた。「一緒にいるのかもしれない」と2人の母親はそれぞれ不安な心を宥めあい、帰宅した父親達は血相を変え町中を探し回った。
その頃智樹と真里は駅前のスーパーでパンを買って分け合い、どこへ行くか相談していた。ひとまずは電車に乗って町を出ようと決めて駅に向かう。お小遣いを持ってきておいて良かったと智樹はホッとした。学校にお金を持ってくる事は禁止されていたが、いつもこっそり持ってきて買い食いしたりしていたのだ。せっかく駆け落ちしようと決めたのに、お金が無くてパンも買えないなんて事になったら、真里をがっかりさせてしまっただろうと思う。駅は帰宅する大人達で混みあっていた。しっかりと手を握り合い2人は駅の路線図を見上げる。どこまで行けばいいのだろう。どこまで行けるのだろう。そんな事を考えながら智樹はポケットから財布を取り出す。券売機の前まで来て一旦真里の手を離すと、少し迷って大人料金の切符を2枚買った。僕達はもう子どもじゃないんだ。2人で遠くへ行って、2人で生きていくんだから、大人にならなくちゃいけない。僕が真里ちゃんを守るんだ。そんな決意を新たにして、買った切符を1枚真里に渡した時だった。
「智樹!」
聞きなれた声にはっとして振り返ると、智樹の父親が息を切らしながら立っているのが見えた。人混みを掻き分けこっちに近付いてくる。とっさに智樹は真里の手を取り駅の出口へ向かって走り出した。この駅のホームは1つしかない。改札に入ってしまったら絶対に追いつかれてしまうと判断したからだ。
「おい、待て! 智樹!」
焦った声で父が追いかけてくる。人混みを潜り抜け智樹と真里は全力で走った。はぐれないように一層強く手を繋ぎ、駅を出てすっかり暗くなった道を走る。だが、子どもの足ではどれほど全力で走っても大人を振り切る事は出来なかった。駅前の小さなロータリーを抜け商店街に入った所で追いつかれ智樹は腕を掴まれた。
「ばかやろう! 何してるんだ!」
智樹を捕まえた父は、怒りと安堵の入り混じった声で怒鳴り智樹の頬を強く叩いた。智樹はよろけながらも足を踏ん張り、真里を背中に庇って父を見上げた。
「僕、真里ちゃんと駆け落ちするんだ! 真里ちゃんと2人で生きていくんだ!」
「何をばかな事を言ってるんだ!」
再び智樹を怒鳴りつけた父に、真里が泣きながら叫ぶ。
「おじさん、智樹君を叱らないで下さい! 私が智樹君に駆け落ちしようって言ったんです。私また引越す事になって、でも智樹君と離れ離れになりたくなかったから、智樹君は悪くないんです!」
智樹の肩を抱いて泣く真里と、真里の手を握り真剣な表情で父を見上げる智樹に、父は視線を合わせてしゃがみ込むと大きく息を吐いた。
「お前達の気持ちはわかったから、ともかく一旦家に帰ろう。皆心配してるから。」
携帯電話を取り出し父は2人が無事に見つかった事を伝える。家に着くまでの間もずっと2人は手を繋いでいた。帰宅すると智樹の家に真里の両親も来ていた。母親は赤くなった目で2人を抱きしめる。帰らなかった理由を詳しく問い質すと、智樹の父は真里の両親に頭を下げる。
「息子がご迷惑をおかけしました。」
「いや、うちの娘が智樹君をそそのかしたようで、こちらこそご迷惑おかけしました。」
ずっと手を繋いだまま離そうとしない2人に、真里の父親はすまなそうに口を開いた。
「真里、父さんのせいでいつも淋しい想いさせてごめんな。」
智樹と真里を交互に見つめ言葉を続ける。
「真里、智樹君。離れ離れになっても、本当に好き同士だったら気持ちを繋げている事ができるんだよ。父さんと母さんも若い頃は離れ離れだったんだから。だから今は我慢してくれるか?」
その言葉に、2人は顔を見合わせる。本当に好き同士だったら、離れ離れになっても気持ちを繋げている事ができる。問われるまでも無く、その自信はあった。離れ離れになって会えなくなっても、この気持ちを忘れたり失くしたりする事は絶対に無いと。いつか、本当の大人になって会える時までずっと互いに好きでい続けると、繋いだ手を通し無言のままに誓い合った。
 真里の引越し先の住所を聞いて2人は手紙のやり取りを始めた。その後も真里は何度か引越しをしたが、智樹との手紙は途切れる事は無かった。真里からの手紙を読み、智樹はあの日買った大人料金の切符を見つめては、いつか再会してずっと一緒にいられる日々の為に、真里をがっかりさせない大人の男になろうと自分を奮い立たせた。

 古い手紙と共に出てきた切符に想いを馳せる智樹を現実に引き戻す声が響いた。
「あなた、片付け進んでる?」
「あっ、ご、ごめん。」
物思いに耽り引越し準備は全く進んでいなかった。智樹は慌てて片づけを再開する。
「そんな事だろうと思ったわ。あら……?」
慌てた智樹が落とした切符に目を止める。
「この切符、懐かしいわね。」
嬉しそうに微笑んだ真里に智樹も微笑み返す。
「うん、真里と一緒にいられる日々が来たんだなぁって実感してた所。」
大人になった2人は結婚し、実家から新居へ引越す日が近付いていた。
何度も取り出して眺めたあの日の切符は、時を経てようやく智樹と真里を同じ人生の列車に乗せた。


                END

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