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『桜』

2345hitキリリク小説 〜For:みく様〜


暦の上ではすでに春。しかし山間にあるこの小さな村はまだ雪に閉ざされていた。いつもならば山の上の桜が咲き春の息吹を感じる頃であるが、村は未だに冷たい雪と風に包まれていた。子供達は寒さに頬を赤く染めながら、雪合戦に雪だるま作りにと楽しんでいたが、大人達は町へ買出しにもなかなか行けず、畑仕事の準備にもかかれず、長すぎる冬を不安な面持ちで過ごしていた。
子供達は今日も雪の中を駆け回っている。雪合戦の決着が付いた頃、一人の少女が皆を見回す。
「ねぇ、ずっとずっと雪が降っていればいいと思わない?」
ほとんどの子供がその言葉に頷く。
「そうだね。雪遊び楽しいもんね。」
「雪はきれいだし、好きだよ!」
しかし中には表情を曇らせた子供もいた。
「でも、雪が続くと畑の準備が出来ないって父ちゃんが嘆いてた。」
「町へも出れないし不便だって母さんも言ってたわ。」
少し年かさの少女が口元に手をあてながら皆を見回す。
「そういえば、山の上の桜もまだ咲かないわね。桜にはの神様が降りられるんだっておばあちゃんに聞いたわ。だから早く桜が咲かないと、お米が作れないかもしれないって。」
「えぇー! そんなの困るよ!」
桜には稲の神が降りる。それはこの村に伝わる伝説である。の神が座する花だから「さくら」と呼ばれるようになったという。桜が咲くと村には雪溶けと共に春が訪れ、村人達は今年の豊作を祈りながら稲作の準備に取り掛かる。春の訪れを告げる桜の木を村人達は大切に守っているのだが、いつもならとっくに咲いているはずの桜が咲かない事は 村人達を不安がらせた。長老達は「神を怒らせてしまったのでは。」と必死に山に向かって祈りを捧げている。何度も大人達は吹雪く山の中へ入り桜の様子を見に行った。桜の枝は雪を乗せて重たそうに垂れ下がり、つぼみは固く閉ざされたままだという。このままでは米が作れないと大人達は深刻な顔を突き合わせていた。子供達は口々に言う。
「早く雪が止めばいいのに。」
「桜咲いてほしいね。」
「春が来ないと困るよ。」
その時一人の少女が俯きながら皆に背を向け走り去って行った。「ずっとずっと雪が降っていれば」と言った少女だ。彼女を呼び止めようと振り返った少年は次の瞬間困惑した顔をする。
「あっ、待ってよ……あれ? あの子の名前、何だっけ?」
一同を見回すが誰もが困惑した顔で首を傾げる。何故、さっきまで一緒に遊んでいた子の名を誰も思い出せないのだろう? いや、そもそもあの子は村にいただろうか? 小さなこの村では皆が家族のように暮らしているから、子供でも名前を知らない村人などいないはずだ。しばらく困惑した顔を見合わせていた子供達だが、走り去って行った少女の悲しげな背中を思い出し、そんな事はどうでもいいとばかりに叫ぶ。
「それより、あの子を追いかけよう!」
山に向かって走って行った少女を追って子供達は雪深い山の中へ入って行く。息を切らしながら走って走って、子供達は桜の木の下にいる少女を見つけた。声をかけようとして子供達はふと立ち止まり岩陰に揃って身を隠した。もう一人誰かいるのが見えたからだ。少女が見上げるその人物は桜の枝の上にそっと立ち、泣き出しそうな顔をした少女を見下ろしていた。
「やはりお前か、雪の子よ。」
男とも女ともつかない低く落ち着いた声でその人物は少女に語りかける。
「冬の精全てが立ち去らねば、我らは降りることが出来ぬ。我らが降りなければこの地は永遠に雪に閉ざされたままだ。それは不自然な事。この地は季節が巡る事によって生きている。」
少女はしゃくり上げながら激しく首を振った。
の神様……。だって、私がいなくなったら、雪は溶けて忘れられてしまう! そんなのは嫌!」
「雪は溶け、花は散るのが運命さだめ。それに美しく巡るこの地の季節を、人間達は忘れる事はない。」
静かに微笑み木の上の人物−稲の神−は言葉を続ける。
「季節は巡り、命もまた巡る。雪は大地に溶け新たな命を育み、生を受けた花々はまた新たな命の糧となる。全ての生きるものはこの循環の中にある。巡る命に感謝し、守り、育んで行く。決して忘れ去られる事など無いのだ。」
それに、と稲の神は岩の陰に隠れて様子を窺っている子供達に視線を移す。
「お前を心配して子供らが駆けてきている。お前を大切な仲間だと思っている証。彼らがお前を忘れると思うか?」
子供達は見つかった事に気付き、一斉に少女の側に駆け寄り彼女を取り囲んだ。
「急に行っちゃうからびっくりしたよ。」
「雪の精だったんだね。どうりで君の名前わかんないはずだぁ。」
「春になっても絶対君の事忘れたりなんかしないよ! 冬になったらまた一緒に遊ぼう!」
「また来てくれるよね。約束だよ!」
口々に叫んで手を握る子供達に少女は涙を零しながら微笑む。
「みんな、ありがとう。次の冬にまた来るわ。」
稲の神はその様子に微笑み少女に告げる。
「さぁ、お前の行くべき場所へ行きなさい。冬を待っている地へ。命を巡らせる為に。」
「はい、行ってきます。私達の役目を果たしに。ありがとう、みんな。また会いましょう。」
微笑んで手を振る少女の姿は空へ上り山の向こうへと消えていく。子供達は少女の姿が見えなくなっても必死に空へ向けて手を振っていた。雪が舞い上がり、暖かい風が吹き抜ける。子供達が振り返ると、さっきまでいた稲の神はもういない。
「あ、見て! 桜が咲き始めたよ!」
枝の先の小さなつぼみが膨らみ、花が開き始めていた。雪が、雲の切れ間から射した太陽の穏やかな光を受けて輝いている。
「父ちゃん達に教えに行こう!」
子供達は村に向かって走り出す。季節と命の巡りを小さな身体いっぱいに感じながら−


                            END

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