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『奇跡の価値』


 老魔法使いが少女の胸元にかざしていた手をそっと離すと、苦しげだった少女の呼吸は次第に穏やかなものになり、顔にも血の気が戻り始めた。
「病魔の陰は消えました。後はお嬢さんの体力が回復すれば、元通りの生活ができるでしょう。」
「おぉ、奇跡だ!」
「ありがとうございます! グレイス様。」
グレイスは少女の両親に微笑み答える。
「奇跡ではありませんよ。お嬢さんの生命力が病魔に勝ったのです。私はその手助けをしたに過ぎません。」
治癒の礼にと差し出された大金を丁重に辞退すると、グレイスは弟子のエリックに荷物を預ける。
「お疲れ様でした、師匠。」
依頼人の家を後にし、グレイスは後ろを歩くエリックに微笑みかけた。
「ありがとう、エリック。あなたの魔力もかなり高くなってきたから助かりますよ。」
褒められて照れ臭そうに笑うエリックを見つめ、グレイスはエリックが弟子入りを志願してきた5年前の事を思い返す。流行り病で身寄りを亡くし、僅かに備えていた魔力を生活の糧にしようと、故郷を出て城下町へやってきたというエリック。だが、魔力を備えているものの魔法の使い方のわからない少年に冒険者ギルドが仕事を任せるはずは無く、また勉強の為に魔法アカデミーへ入る資金も無く、途方に暮れていた所でグレイスと出会ったのである。グレイスが高名な治癒魔法の使い手だと知ると、エリックはその場で弟子にしてほしいと言い出したのだった。かつては魔法アカデミーの講師をしていたが、今は引退し人を教える立場ではないと一度は断ったのだが、エリックの身の上と真剣な眼差しに負けて弟子入りを許したのである。「物事を教えるには実践が一番」と考えるグレイスは、アカデミー講師を引退してから、個人的に依頼を受け無償で行っていた町の人々の治癒の現場にエリックを連れて行った。それからの5年間でエリックはグレイスが教えた事をみるみる吸収し、優秀な治癒魔法の使い手となりつつある。グレイスにも既に家族は無かったので、2人は師弟であり家族のような関係にもなっていった。魔法使いとしても年頃の少年としても逞しく育ったエリックにグレイスは微笑む。
「もう私が教えられる事は無さそうですね。後は実践を何度も経験して、術を高めていくといいでしょう。」
家に着き玄関の鍵を開けながらエリックはグレイスの言葉に軽く抗議する。
「そんな事ありませんよ。俺はまだまだ師匠に教わりたい事が山程あるんですから。」
荷物を部屋の隅に置くとエリックはグレイスを見つめる。
「俺は未熟です。師匠のように人を救う事はできません。それに、俺には一刻も早く身に付けたい術があるんです。師匠がまだそれを教えてくれないのは、もっともっと知識や魔力を高めていかなくちゃいけないからでしょう?」
グレイスは首をかしげエリックを見返す。
「私に教えられる事は全て教えましたよ。一刻も早く身に付けたい術とは、一体何ですか?」
「究極の治癒魔法と言われる蘇生の術ですよ。死者を蘇らせる、そんな奇跡を起こせる魔法があるんでしょう?」
グレイスは驚いたように目を見張ると、小さく首を振った。
「それは魔法と言うより黒魔術、禁呪とも呼ばれる邪術ですよ。古代には存在したようですが、今それを使う事は禁じられていますし、何より使える者はいません。どこでそんな事を聞いたのかわかりませんが、その事は忘れなさい。」
「そんな……。俺は、病で死んだ父さん達を生き返らせたいんです。父さん達を助けたい、その為に治癒魔法を勉強してきたんです。魔法使いは何でもできるんでしょう? 師匠ほどの使い手なら難しい蘇生の術も扱えますよね? 教えて下さい。罰せられても決して師匠に迷惑はかけません!」
グレイスは興奮し始めたエリックの肩にそっと手をかけた。
「エリック、人の死は運命なのです。死んだ人を蘇らせる事はできません。」
「師匠は今まで死にそうだった人達を何度も救ってきたじゃないですか! それなのに人の死は運命だなんて!」
「私が救えたのは、今死ぬべきではない人達だけです。その時に死ぬ運命にあった人は、私がどんなに力を尽くしても救えませんでしたよ。」
「そんなのどうしてわかるんですか!」
「いいですか、エリック。魔法はすべて自然の力を借りて発動させるものです。怪我や病気を魔法で治すのも、人が本来持っている自然治癒力を魔力で一時的に高めてあげているに過ぎません。それを無くしてしまった人にはどんなに治癒魔法を施しても効き目がないのですよ。魔法は自然の力を借りれば何でもできますが、自然の力に反する事は何もできません。先程の親御さんにも言いましたが、魔法は奇跡の力ではないのです。蘇生の術が何故、魔法ではなく邪術と呼ばれたのかわかりますか? 死者を蘇らせるのは自然の摂理に反する事だからですよ。自然の摂理に反した力を使った者は、自然の加護から見放され破滅してしまいます。その力を受けた者も同様です。」
信じ目指していたものが崩れ呆然とするエリックに、グレイスはそっと言葉をかける。
「エリック。ご両親を急に亡くして淋しい気持ちはわかります。私も昔、病で幼い息子を亡くしていますからね。死んでしまった人に帰ってきてほしいと思う事自体は、ごく普通の感情だと思います。けれど、死は誰にでも訪れる運命なのです。覆す事はできません。」
「じゃあ、奇跡は起きないんですか……?」
エリックの言葉にグレイスはゆっくりと口を開く。
「人の手で起こす奇跡に価値があると私は思いません。奇跡は人の手で起こせないから奇跡と呼べるのです。邪術が廃れたのは、自然の加護に見放された使い手達が破滅を迎えたからでしょう。あなたは人である事をやめてでもそんな奇跡を起こしたいですか?」
ふるふると首を振ったエリックにそっと微笑み、グレイスは言葉を続けた。
「誰かを助けたいという思いを、大切に持ち続けて下さいね。」

その後もエリックはグレイスと共に治癒の依頼を受け魔法の修練に励み、自然治癒力を残している人の見分けもつくようになり始めた。そして、それまでの自分と同じように魔法は万能だと思っている人々が多い事にも気付いた。治癒魔法を施しても救えなかった時の人々の落胆振りに、エリックは胸を痛めた。

そしてある日の朝、グレイスが部屋で倒れた。エリックは慌ててグレイスに駆け寄る。
「師匠! しっかりして下さい!」
エリックはグレイスを担ぎ上げベッドへ寝かせると、布団の上から手をかざしグレイスが倒れた原因を探る。だが、どこにも病魔の陰は見えなかった。そしてグレイスの自然治癒力も消えている事に気付く。
「師匠、師匠!」
エリックの必死な叫びにグレイスはゆっくりと目を開ける。
「エリック……。」
「師匠、今助けますから。しっかりして下さい。」
声を震わせながらエリックはグレイスの身体の上に手をかざす。
「くそっ、どうしてどこにも病魔が見つからないんだ。」
泣きそうな顔になるエリックの手をグレイスはそっと掴んだ。
「どこを探しても無駄ですよ。ただの老衰ですからねぇ。」
「無駄だなんて!」
ふっと微笑みグレイスはエリックを見つめる。
「私もそろそろお迎えがきたようですね。」
「師匠! そんな事言わないで下さい!」
「エリック、もうわかっているのでしょう? 私の死は運命です。」
肩を震わせるエリックの手を取りグレイスは言葉を続ける。
「病や怪我に苦しんで亡くなる人も多い中、こうして平穏に死を迎えられるのは幸せな事です。」
「師匠、俺はもっと師匠と一緒にいたいです。俺の手で奇跡を起こしてでも!」
エリックの言葉にグレイスは小さく微笑んだ。
「奇跡なら、すでに起きていますよ。」
「え?」
困惑するエリックにグレイスは言葉を続けた。
「この広い世界で、それまで何の繋がりも無かったあなたと私が出会って、共に生き家族のような繋がりを持てた。こんな素敵な奇跡が、起きたではありませんか。」
涙を零したエリックの頬に手を伸ばしグレイスは微笑む。
「エリック、あなたを弟子に迎えて本当に良かった。一人淋しくひっそりと死を迎えるものだと思っていたのに、大事なあなたに看取ってもらえるのですから。」
「師匠……。」
「あなたは素晴らしい魔法使いになれるでしょう。私が保証します。修練を怠らず、誰かを助けたいという思いを、忘れずに、ね……。」
グレイスの手から力が抜けぱたりとベッドの上に落ちる。
「師匠、俺、必ず立派な魔法使いに……。」
静まり返った部屋に、言葉に詰まったエリックの嗚咽が響き続けていた。

数年後―
エリックのもとにはグレイスがいた頃と同じように治癒の依頼が絶えなかった。その中にはやはり救えなかった人も多く、エリックは自分が魔力を持っている意味は何なのだろう、自分はこんなにも無力ではないかと胸を痛め悩んだ日々もあった。町の人々はグレイス同様献身的で真っ直ぐなエリックを慕い、時には気落ちするエリックを慰め励ます。人々の思いに触れたエリックは、彼らがエリックの魔力ではなくエリック自身を慕い必要としてくれているのだと気付く。
ある日、裏庭に建てたグレイスの墓標に花を添えエリックは静かに口を開く。
「師匠、俺はたくさんの人に支えられて歩いています。師匠が言ってた意味、今ならわかる気がします。魔法に価値があるんじゃなくて、人との出会いに価値があるんだって。そうでしょう?」
石の墓標は何も応えなかったが、暖かい陽射しと風の中、にっこりと頷くグレイスの姿がエリックには見えた気がした。


                  END

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