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『恋になるまで待って』


――愛した王子様を殺すなどとても出来なかった人魚姫は、ナイフを捨て船から海に飛び込みました。そのまま海の泡となり、天へ昇って行ったのです。――

「悲しいけどなんて素敵なの! 私もそんな恋をしてみたい!」
悲恋の末に海の泡と消えた人魚姫のお伽話を聞いた人魚のアニーは、自分も劇的な恋をしたいと思った。あれは所詮お伽話、人間に恋するなんて愚かだと大人達は笑ったが、アニーにはそうは思えなかった。誰かを好きになるのに、種族なんて関係ない。劇的な恋への情熱は募り、アニーは危ないから止めなさいという周囲の声も聞かず、嵐の度にランプや傷薬を持って海上に向かうようになった。そんなある嵐の夜、ついに船から落ちた人影を見つけた。まずは何としても助けなくては。荒れる波をかき分けて必死で近付く。落ちた人物は船に戻ろうと必死に泳いでいたが、顔を水面に出す事も出来なくなる。波に飲み込まれ沈みそうになった所を抱き止めると、彼女の理想とはかけ離れた体格のいい男だった。少々落胆したアニーだが、海に落ちた人を放ってもおけない。男が乗っていた船は風と波にもまれてどんどん遠ざかっていく。アニーは辺りの地形を思い浮かべた。人魚の泳力なら陸までそう遠くないはずだ。意識はあるのだろうか。苦しげに浅い呼吸を繰り返しながら目を閉じた男はもう泳ぐ気力は残っていないようだ。男を抱え陸へ向かい泳いでいく。泳ぎに長けた人魚でも、荒れる海を自分より体格の大きな人間を抱えて泳ぐのは至難の技だった。アニー自身も波に飲まれ溺れそうになりながらどうにか浜辺へ辿り着き、雨風を凌げる場所を探す。浜から洞窟の入り口が微かに見えた。男を抱えたまま洞窟まで泳ぎ、波が届かない場所へ男を横たえると、腰に縛りつけていたカバンからランプを取り出し男の容態を確認する。額を浅く切っているが大きな怪我はなさそうだった。傷を洗い、持ってきた薬をつけ包帯を巻くと少し落ち着いた様子で目を閉じている。精悍な顔とたくさんの傷痕、髑髏をかたどったアクセサリー、そして腕にタトゥーが刻まれた逞しい身体つきは噂に聞く海賊を思わせた。お伽話の優雅な王子様とは程遠い。それでも男が目を覚ますまで傍にいようと思った。外見で相手を判断してはいけないという父の言葉を思い出す。憧れた出会いとは違うが何故か離れられなかった。どれくらいの間そうしていたのか、嵐が遠のき辺りが明るくなり始めた頃、男が低い声を上げ、目を覚ます気配を感じそっとその場を離れた。まだ正体を知られちゃいけない。でも彼の記憶には残らなくては。岩陰から様子を伺っていると、男はぼんやりと辺りを見回していたが頭に巻かれた包帯に気付き、一体誰がと首を傾げる。
「俺、どうしたんだっけ? 嵐に遭って、それから……。」
岩陰からアニーがそっと様子を伺っていると、男は座り込み記憶を辿るように天井を見上げぶつぶつと呟いている。どのタイミングで姿を見せ、どうやって立ち去るか。出会いを印象付ける方法を考える事に集中するあまり、寄りかかっていた岩から手を滑らせ転んでしまう。
「きゃっ!」
突然の小さな悲鳴と水音に男がアニーの方へ視線を向ける。視線が合い、アニーは恥ずかしくなって身を翻し海に潜りこんだ。
「え? 人魚?」
アニーの尾が見えたのか、男は驚いたように呟くとアニーを追う。
「海賊の泳ぎを舐めんなよ。」
あっという間にアニーに追いつくと男は彼女の腕をそっと掴んで洞窟へ連れ戻った。
「なんで逃げるんだよ。」
「あ、あの……。」
想定外の展開にどうしていいかわからずにいるアニーに、男は傷痕だらけの自分の身体を見下ろしからかうように笑う。
「俺が怖いか? なら何で助けて手当なんかしたんだよ。お前がやってくれたんだろ、これ。」
男が額の包帯を指さし問うとアニーは小さく頷いた。おどおどと自分を見つめるアニーを男はまじまじと見つめる。
「人魚は実在したんだな。大発見だ。仲間が聞いたら喜ぶぞ。」
にんまり笑う男にアニーは恐る恐る問いかける。
「あの、人魚って珍しいの?」
「あぁ、伝説上の生き物だって言われてる。世界中の海賊や物好きな貴族連中が探し回ってるぜ。人魚の鱗は船旅の守りになるっていうし、その血肉を喰らえば不老不死になるって噂、おっと、助けてくれた奴の前でする話じゃなかったな。」
怯えた表情になったアニーに男はすまなそうに笑った。
「心配すんな、受けた恩を仇で返す真似はしねぇよ。」
アニーを真っ直ぐ見つめ男は姿勢を正す。
「ありがとう、お陰で助かった。」
「当たり前の事、しただけよ。そんな、お礼なんて。」
赤くなってアニーは俯く。恋がしたかったなんて言えない。
「これから、どうするの?」
かっこ悪い出会いになってしまったが、アニーは噂に聞く海賊と違い誠実な印象の男に好感を抱いた。恋になるかどうかはわからないが、もう少し彼の事を知りたいと思った。
「仲間に連絡取って迎えに来てもらわなきゃな。俺らの縄張りからそう外れてはいないはずだが。」
男は懐から油紙で厳重に包んだ小さな球体と石を取り出し、石を打ち合わせて火をつけた球体を空へ投げる。空中で爆ぜた球は破裂音を響かせた後黄色い火花を散らし、煙を漂わせる。
「何をしたの?」
「救助信号さ。居場所と状態を伝えるためのものだ。」
「へぇ、便利なものがあるのね。」
火の無い海底では見られない光景だ。しばらく珍しげに煙を眺めていたアニーは男に視線を移す。
「迎えが来るまではどうするの?」
「この辺りに隠れてるしかないだろうな。街の人間に見つかったら捕まっちまう。」
「えっ!?」
見つかっただけで捕まるとは、海賊はそんなにも悪い人間なのだろうか。目の前の男がそんな悪人には見えずアニーは驚く。
「どうして? あなたはそんな悪い人には見えないけど。」
「俺達海賊にはみんな手配書が出てる。役人にとっちゃ海賊なんてもんは全部悪なんだよ。」
忌々しげにそう口にすると男はアニーに手を振った。
「あんたもいつまでもここにいちゃ人間に見つかってとんでもない目に遭うぞ。早く帰んな。」
「私もここにいるわ。あなたが上手く隠れられるように手伝う。傷の具合も心配だし。」
アニーの言葉に男は首を振った。
「隠れるには一人の方が都合いいんだよ。傷もたいした事は無い。助けてくれてありがとうな。」
「待って! 私この辺の地形詳しいし隠れられる場所いくらでも知ってるわ。万が一の逃げ道だって……。」
背を向けかけた男は振り返る。
「あのな、こういう状況には慣れてるんだ。心配しなくて大丈夫。それに逃げなきゃならなくなったら自分の事で手一杯だ。あんたは陸地を走るなんて出来ないだろ? あんたの事まで守れないぞ。」
男の最後の言葉にアニーは密かにときめいた。自分を守るべき対象として見てくれている事に嬉しくなった。求めていた劇的な恋に相応しい状況だ。だが今これ以上ここに居座っては彼を怒らせるだろう。一旦戻って、また様子を見に来よう。彼が役人に捕まるような事があってはならない。海賊をしているが本当はきっと優しい人なのだ。
「わかったわ。無事に船に戻れるように祈ってる。ねぇ、せめて名前を教えて。お祈りには名前が必要だわ。」
「人魚の加護か。ご利益ありそうだな。俺の名はジャンだ。お前は?」
「私はアニーよ。ジャン、気を付けてね。」
「お前もな、アニー。欲深な人間に見つかるなよ。」
微笑んで手を振るジャンに手を振り返しアニーは海底の村に戻った。嵐の夜に出かけてから帰ってこない彼女を心配していた家族に謝りながらも、心はジャンの事でいっぱいだった。街の人間に見つかったりしないだろうか。傷が悪化したりはしないだろうか。仲間は彼をちゃんと見つけてくれるだろうか。心配は尽きない。鋭い眼差しの奥に見えた優しい光が脳裏に焼き付いている。困難な状況に置かれているのにアニーの事を気に掛けてくれたのが嬉しかった。人魚の中には人間を毛嫌いする者も多いし、物語の海賊は野蛮で凶暴な悪人として描かれる事が多い。だが、ジャンはそんな人物には見えなかった。
「明日また行ってみよう。」
これが恋の予感なのかはわからない。ただジャンの事が気がかりだった。
翌日、再びジャンの所へ向かう。怒られるかもしれないがあれきりで別れるのは嫌だった。途中、ジャンの腕に刻まれていたタトゥーと同じ模様の旗を掲げた船を見かける。ジャンの仲間の船かもしれない。ジャンに教えてあげよう。アニーはスピードを上げて浜を目指す。
人目に付かない場所からそっと海面に顔を出し浜の様子を伺う。洞窟へ近づいてみると、岩陰にうずくまっている彼を見つけた。傷が痛むのだろうか。慌ててアニーはジャンに近づく。誰かが近づく気配に気づいたジャンは飛び起きた。いつの間に取り出したのか、手には銃が握られている。アニーの顔を見てジャンはため息を吐いた。
「お前か、脅かすなよ。帰れって言っただろ。」
「ちゃんと帰ったわ。一旦帰ってまた来たの。心配だったから。」
「あんまりうろうろしてたら人間に見つかるぞ。」
「私を心配してくれるのね。」
嬉しそうなアニーの言葉にジャンは呆れた顔をする。
「人目を引きたくないんだ、わかるな? わかったら大人しく帰ってくれ。」
「あ……。」
苛立った様子のジャンにアニーは項垂れる。ジャンに迷惑をかけるわけにはいかない。
「わかったわ。ごめんなさい。そうだ、あのね、ジャンの腕のタトゥーと同じ模様の旗を掲げた船が近くにいたわ。ジャンの仲間かもしれない。」
「そうか、見つけてくれたか。情報ありがとな。気を付けて帰れよ。」
「うん。ジャンも気を付けて。」
精一杯の笑顔で手を振る。このまま会えなくなるのは嫌だった。だが、今の状況ではどうしようもない。アニーが泳ぎ始めると先ほどの海賊船がこちらへ向かってくるのが見えた。やはりジャンを迎えに来たのだろう。見つからないように進路を変えゆっくりと泳ぐ。その時、岩陰から突然現れ猛スピードで近づく船が見えた。真っ白なその船は海賊船に警告もなく砲撃を始める。
「何あれ!?」
砲撃を受けた海賊船は旋回し、浜へ近づきながら白い船に応戦する。白い船から「捕えろ!」と叫ぶ声が聞こえた。あの船はジャンが言っていた役人の船なのだろう。浜の方を見るとジャンが浜辺に立ち銃を構えているのが見えた。大砲にあんな小さな銃で応戦しようとするなんてとアニーは青ざめる。ジャンに気づいた白い船の砲台が浜へも向けられ、砲弾がジャンの方へも飛んでいく。海賊船より白い船の方が強力な武器を備えているようで、損傷していく海賊船に対し、白い船はほとんど無傷だった。海賊船から怒号が響く。砲弾がアニーの近くの海面で炸裂し爆音と飛沫をあげる。こんなものがジャンに直撃したら。ジャンが、ジャンの仲間が危ない。
「いきなり攻撃するなんて卑怯よ!」
アニーは怒りに震える。卑劣なやり方をする役人の方がアニーにはよほど悪人に見えた。海を汚された事にも腹が立った。ジャンはあんなやり方が許されるような悪人じゃ無い。そんなジャンの仲間達もきっと同じだ。助けなきゃ。アニーは水平に両腕を広げる。
「海神様、私にお力を。」
アニーが祈ると穏やかだった空が瞬く間に雷雲に覆われた。強風が海を荒らす。荒れた波は海賊船を避け、白い船に向かって叩き付けられる。
「……海を荒らす者よ、秩序を乱す者よ、立ち去るがいい……!」
ありったけの怒りを込めて声を発する。怒れるアニーの姿が大きな幻影となって海上に揺れる。実際のアニーよりも大人に映された人魚の姿に白い船から悲鳴が上がった。
「セイレーン!」
「何でこっちだけ攻撃してくるんだ!?」
「……卑劣な者共、海神の怒りは深い。今すぐ立ち去れ。さもなくば……!」
ひときわ高い波を起こしアニーは白い船に向けて手を振りおろす。叩き付けられた波が白い船を大きく傾かせる。もう一撃加えれば船は沈み始めるだろう。
「くそ、撤収だ!」
白い船は急旋回し遠ざかっていく。突然の出来事に唖然とする海賊船をよそにアニーは洞窟へ向かって全力で泳いだ。ジャンは大丈夫だろうか。
「ジャン! 大丈夫!?」
浜であっけにとられているジャンに呼びかける。近付いてきたアニーに気づきジャンは驚きの声を上げた。
「やっぱりお前がやったのか。凄い力だな。」
アニーは思わずジャンに飛びつき涙ぐみながら彼の顔を見つめる。
「ジャンが心配で夢中だったのよ。大丈夫? 怪我してない?」
「あぁ、大丈夫だ。またお前に助けられたな。」
「だって、奇襲なんて卑怯よ。」
「あれが奴らの仕事だ、仕方ないさ。」
ぽろぽろ涙を零すアニーにジャンは戸惑う。
「何で泣くんだよ。」
「無事で良かった。あの人達、ひどいよ……!」
怒りと安堵に泣きじゃくりながらアニーはジャンの腕を取る。困惑しながらもアニーを宥めるジャンの温かな手に感情を抑えられない。
「ジャン、私を連れて行って。傍にいてジャンを守りたいの。」
「突然何言い出すんだよ。」
驚くジャンを見据えてアニーは言葉を続けた。
「私、ジャンの事好きになったの。傍にいたい。ねぇ、私を連れて行って。人魚の力はきっと航海の役に立つわ。」
「無茶言うなよ。お前は陸じゃ暮らせないだろ。俺達は四六時中海にいるわけじゃないんだぜ?」
しゃくり上げるアニーを落ち着かせようと、ジャンはゆっくりアニーの手を握り口を開く。
「それにな、お前には家族がいるだろ? 家族を捨てて来れるのか? 人魚の年齢ってわかんねぇけどお前はまだ子供だろ? 故郷を捨てて来るには早い。お前を守ってくれる存在を傷付けちゃだめだ。」
「私子供じゃないもん!」
「そういう発言が子供なんだよ。俺は子供には興味無い。」
「私は本気でジャンが好きなのよ!」
「それは多分“恋に恋してる”ってやつだ。誰かに恋してる自分に酔ってるんだよ。」
ジャンの言葉にアニーはハッとする。劇的な恋がしたい、そんな憧れがあった。ジャンと出逢ってこれが運命だと思い込んだ。人魚姫のお伽話を思い出す。人魚姫は、自分の気持ちを押し通そうとはしなかった。恋した王子の幸せを願った。それに対して今の自分はどうか。ジャンが好き、傍にいたい守りたい。自分の気持ちしかそこには無い。子供の我が儘だ。俯いてしまったアニーの頭をジャンは大きく撫でた。恐る恐る顔を上げたアニーににやっと笑いかける。
「強引で情熱的な女は嫌いじゃない。けど、もっと大人になってからな。」
嗚咽を漏らしながらアニーは何度も頷く。
「私の事、忘れないでね。大人になって自立して、陸で生きられる方法見つけて、きっと会いに行くから。」
「はいはい、わかったよ。」
子供を諭すような口調で答えたジャンにアニーは口を尖らせる。
「私は本気よ!」
アニーは自分の腰から大きめの鱗を一枚選んで身体から剥ぎ取った。痛みに涙目になるアニーにジャンは慌てる。
「お前何やってんだよ!」
目を赤くしながらアニーは微笑む。剥ぎ取った鱗を海水で丁寧に洗うとジャンに差し出した。
「これ、あげる。人魚の鱗はお守りになるんでしょう?」
「あぁ。だけどお前、その傷……。」
戸惑うジャンに傷を隠してアニーは笑う。
「これくらいすぐ治るわ。」
海賊船が修復を済ませ浜辺に近付いてくる。アニーは青緑色に輝く鱗をジャンの手に握らせた。
「じゃあね。」
「あぁ、二度も助けてくれてありがとな。お前の事は忘れない。」
鱗を握らせたジャンの手にそっと口づけて、アニーは身を翻し海底に向かって泳ぎ出す。潮の冷たい流れが高鳴る胸に心地よい。手に口づけた瞬間のジャンの顔が赤く染まったのは、見間違いではないと思う。この気持ちが、大人の恋になるまで待っていて。きっと、一緒に幸せに生きられる道を見つけてみせるから。

恋した人と共に幸せに生きる道を探すため、人魚の少女は海底へ帰って行った。


                             END


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