短編の間へ翠玉館玄関へ

『待ち人』

 海の向こうに微かに見える、黒い霧に包まれた魔王城を彼女は港からずっと見つめ続けています。彼女の夫が魔王軍討伐部隊の一員に選ばれ、この港から旅立ってから数年の時が過ぎました。王命で編成された討伐部隊は魔王軍の猛攻に壊滅的な損害を受け、街に生還した戦士はごくわずか。その中に彼女の夫はいませんでした。「必ず生きて帰る」と約束した夫を迎えるため彼女は毎日港へ行き、一心に魔王城の方を見つめていました。多くの人が「もう諦めてはどうか」と言いましたが、「あの人は約束を守る人ですから」と静かにしかし強く首を振り続けます。僕はそんな彼女をずっと見つめ続けていました。彼女の夫は僕の長年の友人でもあり、彼の帰還を僕も願っていました。しかし何年経っても帰ってこない彼と、諦めずに待ち続ける彼女にもどかしい想いでいっぱいでした。そう、僕は彼女に恋をしていたのです。彼女が友人を選んだ時、僕は彼との友情を壊さぬよう必死でした。彼は王にも一目置かれる凄腕の戦士で、僕は駆け出しの学者。彼も彼女も僕の想いは知らない。幸せそうに寄り添う2人に、これでいいのだとようやく思えるようになった頃、魔王軍の侵攻が始まり彼は魔王軍討伐部隊に選ばれたのです。誰もが納得の人選でした。不安そうな彼女へ「必ず生きて帰る」と誓った彼の姿に、邪な想いは一切湧きませんでした。いっそ僕が選ばれていれば、叶わぬ恋を抱え戦場で散ってしまえれば、どんなに楽だっただろうとは思います。けれど学者の僕に戦う力など無く、不安げな彼女と共に討伐部隊を見送るしかありませんでした。時が経ち魔王軍の侵攻に皆が怯え外出を控えるようになっても、彼女は港へ行く事をやめません。僕は彼女の安全のためと称して港へ同行します。手を伸ばせば触れられる所に恋しい人がいる、けれど彼女の瞳は僕を映さない。僕達は夜明け頃に黙って港へ行き、陽が暮れると「もう少し待つ」と言い張る彼女を「夜は魔物が活発化して危険だから」と宥めて街へ戻る、雨の日も雪の日もそんな日々を繰り返していました。

 それからまた何年かが過ぎた頃、勇気ある若者が仲間と共に魔王を討ったという報せが世界中に届きました。魔王城のあった位置にもう不穏な霧は見えません。そして、戻って来ない彼を彼女は未だに待ち続けています。「彼の事は諦めて、僕と」何度そう言いかけたでしょう。しかし彼女は僕の言いたい事を察したかのように静かに首を振り、強い意志を湛えた微笑を浮かべるのです。その深い想いに僕は何も言えなくなるのです。そうして僕も彼女も歳を取って、彼女の豊かな栗色の髪が白く染まり、港まで歩く足取りもおぼつかなくなっても、僕達は港へ行く事をやめませんでした。それはもう、儀式のようになっていたのです。
ある日、僕は飲み物を買うため少しだけ港を離れました。それは特に変わった事ではなく、日常的な事でした。彼女が好きなお茶も買って戻ると、彼女は振り返って顔を輝かせたのです。
「やっと、帰ってきてくれたのね。」
彼女の言葉に僕は混乱しました。僕がほんの数分港を離れた事がそんなにも不安だったのでしょうか。しかし僕を見上げて嬉しそうに涙を零す彼女の瞳に、相変わらず僕は映っていない。彼女はもう疲れてしまったのかもしれません。彼が帰ってくると信じ続ける事は、彼女の愛情の証であり生きる糧でした。彼の帰還を諦める事は、彼女の死と同義だったのでしょう。彼女は涙を拭って僕の顔を見つめます。その瞳には一点の曇りもありませんでした。
「おかえりなさい。」
「ただいま。遅くなってすまない。」
「いいんです、貴方が帰ってきてくれたならそれで。」
長い間、彼を愛し帰りを待ち続けた彼女を絶望させたくはありません。僕に彼の幻影を見たのなら、彼女の幸せな夢を壊したくなかったのです。真っ白な髪、しわの刻まれた顔、痩せさらばえた身体、震える足、おそらく彼女はもう長くないのでしょう。無論、僕も。それだけの時が経ったのですから。ただそれでも彼女は美しかったのです。僕を見てくれない彼女、帰って来なかった彼。天国へ行ったら彼に文句を言ってやろう、そんな事をちらりと考えながら、僕は涙をこらえ幼子のように泣きじゃくる彼女の背をそっと撫で続けていました。


                             END