掌編の間へ /翠玉館玄関へ

『Cry for the moon』



屋敷の奥にある自室でアルシェは憂鬱な顔で月を見上げていた。
「結婚相手くらい自分で決めさせてよ。」


ローランド伯爵家は古くから伝わる名家である。第17代当主ルドルフは、14歳になった娘アルシェを見つめ満足げに微笑んだ。今日はアルシェの誕生日であり婚約者を決める日でもあった。大広間では使用人達が忙しくパーティの準備に駆け回っている。ルドルフはドレスに着替えたアルシェに目を細める。遅くにできた娘を彼は溺愛していた。
「うんうん、美しいぞアルシェ。」
コルセットで締め上げられ、重たいアクセサリーをあちこちに付けさせられたアルシェはむくれた顔でルドルフを見遣る。
「お父様、本当に最後の条件は私が決めていいのですね。」
「もちろんだとも。確かな家柄の者達ばかりだから安心して選ぶといい。」
そういう事じゃない、とアルシェは内心溜め息をつく。伯爵家は兄のエンドリューが継ぐ。エンドリューの婚約者もルドルフによって選定された。不満じゃないのか、とアルシェは兄に聞いた事があったが、エンドリューは伯爵家に生まれた以上仕方のない事だとアルシェを諭すように笑っていた。貴族の家では子供が幼いうちから親同士で婚約を決めるのは珍しい事ではない。重視されるのは互いの家柄と、本人の貴族としての資質。家を継ぎ立派に領地を治められるか。貴族を名乗るのに相応しいか。それは爵位を持つ家の責任でもある。だが、アルシェにはその考え方はまだ理解出来ない。家の存続や繁栄の為だけに結婚するのは我慢ならなかった。ルドルフと共にパーティ会場の大広間へ向かいながら、アルシェは固く唇を結ぶ。
……私を伯爵家の娘としか見てない奴と結婚なんかするもんですか!

大広間ではルドルフから招待を受けた少年達が既に火花を散らしていた。アルシェも見知った顔が並んでいる。ルドルフと旧知の間柄にある貴族の子息達だ。アルシェ達が大広間に姿を現すと彼らは一斉にアルシェ達を取り囲んだ。
「アルシェ、誕生日おめでとう。」
「ありがとう、ウィリアム。来て頂けて嬉しいわ。」
「今日も美しいよ、アルシェ。」
「相変わらずお上手ね、フレデリック。あなたも素敵よ。」
「アルシェ、君が生まれてきてくれた事に感謝するよ。」
「ありがとう、レオニール。私幸せだわ。」
口々に誕生日祝いとアルシェへの賛辞を述べる彼らを、社交界用の微笑と台詞で応えながらアルシェは冷めた気分で見つめていた。
……どうせあなた達が見ているのはローランド家の娘でしょう。
彼らはアルシェよりもルドルフの気を引こうとしているようにアルシェには映った。ルドルフと言葉を交わす彼らの台詞はルドルフとアルシェへの大袈裟な賛辞に満ちている。ローランド家の娘と婚約できれば、それは彼らの家により一層の栄華を約束するものとなるからだろうとアルシェは考える。
「ちょっと外の空気を吸ってきます。」
パーティが始まって数時間が経ち、ようやく祝い攻勢から解放されたアルシェは、ルドルフにそう告げると中庭へ出た。暮れかけた空の低い位置に月がひっそりと浮かんでいる。木に寄り掛かりアルシェは溜め息をつく。どこへ行ってもついて回るローランドの名。誰もが自分をローランド伯爵の娘として見る。富や地位、名声、多くの者が望んでも手に入らないものを彼女は生まれながらにして持っていた。だが、その誰もが当たり前に持っているものが彼女には手に入らない。忙しい両親に代わって乳母や使用人達に育てられた。友人達も皆貴族の家柄。
「お疲れですか?」
不意にかけられた声に驚いて振り向くと、声の主はグラスを差し出し微笑んだ。
「どうぞ。あれだけの人にずっと囲まれていたら疲れてしまいますよね。」
グラスを受け取りアルシェは目の前の少年を見遣る。
「エリオット、あなたも来ていたのね。気付かなかったわ。」
アルシェの言葉にエリオットは困ったような笑みを浮かべる。
「アルシェがあっという間に囲まれちゃって近付けなかったんです。」
そう、とだけ応えアルシェは疲れた表情でエリオットから視線を反らした。
「遅くなっちゃいましたが、誕生日おめでとうございます。アルシェは沢山の人に愛されてるんですね。」
視線を反らしたままアルシェは応える。
「そうかしら。皆ローランドの娘を愛しているだけよ。」
エリオットは真剣な眼差しでアルシェの視線の先に回り込む。
「そんな事ないです。皆アルシェが好きなんですよ。そんな悲しい事を言わないで下さい。」
あなたに何がわかるの、と言い返そうとしたアルシェは、普段頼りなさげなエリオットのあまりに真剣な眼差しに思わずその言葉を飲み込む。
「冷えてきましたね。中に入りましょうか。」
黙ってしまったアルシェにエリオットは微笑みかけ広間への扉を開けた。

アルシェの願いを叶えた者をアルシェの婚約者として認めるとルドルフの口から告げられる。皆の視線を受けアルシェは優雅に微笑み窓の外を指差した。
「では、夜空に浮かぶあの月を私のものにして下さった方と婚約を致します。」
困惑する一同に向かってアルシェは更に微笑みかける。その顔は寂しげだった。

数日後。フレデリックがローランド家を訪れた。
「アルシェ、これを受け取ってほしい。」
金銀細工で飾られた平たい箱を差し出す。
「これは何?」
「月の権利証書だよ。父が国王に頼んでくれたんだ。これで月は君の物になる。」
アルシェはそっと蓋を開け中から一枚の羊皮紙を取り出した。王家から貴族へ領地が与えられる際に使われる物で、確かにアルシェ・ローランドに月を与える旨を示す文と国王の署名がある。だがアルシェはゆっくりと首を振った。
「国王が代わられたらこれは無効になってしまうわ。」
「そんな事はない。永久に君の物だと書いてあるじゃないか。」
「それに国王が認めて下さっても隣国の王は認めて下さるかしら。これでは本当に月が私のものになったとは言えないわ。」
アルシェは悲しげにフレデリックを見つめる。
「ありがとう。でもごめんなさい、これはお返しします。」
「アルシェ。」

ローランド家を訪れたウィリアムは使用人に布で覆われた板を運ばせた。
「アルシェ、これを見てほしい。」
布を取り払うと額に納められた絵が現れた。愛しげに月を胸に抱くアルシェが繊細なタッチで描かれている。
「月を君のものにした所を描いた絵だ。一流の画家に描かせたものだよ。」
アルシェはじっと絵を見つめ小さく首を振った。
「綺麗な絵ね。でもこれは絵に過ぎないわ。月が私のものだという証明にはならない。」
「アルシェ、でも……。」
「ありがとう。ごめんなさい。」

少年達は頭を悩ませる。一体どうしたらアルシェは喜ぶのか。アルシェは何を望んでいるのか。

レオニールは小さな機械を運ばせローランド家を訪れた。見慣れない機械にアルシェは目を丸くする。
「これは何?」
「説明するより見てもらう方が早いよ。明かりを消して部屋を暗くしてもいいかな?」
部屋を暗くしレオニールは機械のスイッチを入れる。微かな音がして部屋の白い壁に月が映し出された。
「月のホログラムだ。綺麗だろう? 技師に特別に作らせたんだよ。どうだい? これならいつでも月は君の下にある。」
得意げなレオニールにアルシェは小さく首を振る。
「確かに綺麗だけど、これは本物の月じゃないわ。私が欲しいのは本物の月なのよ。」
レオニールは肩を落としアルシェを見つめる。
「アルシェ、君は一体何を望んでいるんだい?」
「私は……。」
アルシェは視線をさ迷わせる。わかってくれる人はやはりいないのかと。
「ごめんなさい、レオニール。この機械はあなたが大事に使って。」

エリオットは緊張した面持ちでローランド家を訪れた。何も手にしていないエリオットにアルシェは首を傾げ問い掛ける。
「エリオット、どうやって月を私のものにしてくれるの?」
エリオットは緊張した表情のままアルシェを見つめる。
「僕は空に浮かぶ月をアルシェのものだとここに宣言します。」
アルシェは困惑してエリオットを見つめ返す。
「どうやってそれを証明するの?」
エリオットは真剣な眼差しでアルシェに告げる。
「アルシェが信じればそれは真実です。誰の証明もいりません。アルシェの存在そのものが真実なのですから。」
アルシェは溜め息混じりに呟く。
「存在するのはアルシェ・ローランドよ。ローランド伯爵の娘の言葉はそんなに力のあるものなのかしら。」
バン!
アルシェの言葉が終わるや否やエリオットはテーブルを叩いて立ち上がった。
「アルシェがそう思い込んでいるからですよ! 皆アルシェの事が好きなんです! アルシェの喜ぶ顔が見たくて必死で考えてるんですよ! どうしてわからないんですか! 伯爵家の娘が欲しいだけならあんなに一生懸命にはなりません!」
アルシェははっとしてエリオットを見返す。自分がそう思い込んだらそれが真実。エリオットの真剣に怒る眼差しに、ほんの一部を全てだと思い込んで目を閉じていた事にアルシェは気付かされる。傲慢な自分の姿。そんな自分に想いを寄せてくれているレオニール達の顔が浮かぶ。「これは本物ではない」と首を振った時の彼らの悲しげな顔。今までどれほどの愛情を自分は疑い踏み躙ってきたのだろう。
エリオットは激昂した事を恥じるように目を伏せゆっくり腰を下ろした。
「アルシェ、あなたの欲しいものはちゃんと目の前にあるんです。気付いて下さい。でないとアルシェ自身が可哀相です。」
「エリオット……。」
滲んだ涙を隠すように拭うとアルシェはエリオットを見つめ微笑む。
「エリオット、ありがとう。あなたの宣言を信じるわ。そして約束通り、月を私のものにしてくれたエリオットと婚約します。」
エリオットは微笑むとそっと立ち上がり窓の外を指差した。
「月もきっとアルシェのものになれて喜んでいますよ。」
アルシェも立ち上がり窓から空を見上げる。よく晴れた青い空に白く霞んだ月が浮かんでいる。
「こんな時間でも月が見えるのね。」
驚いたように呟くアルシェにエリオットは微笑む。
「いつでもアルシェの欲しいものは側にあります。ほんのちょっと手を伸ばせばいいんです。自分の力でね。」
手を伸ばし引き寄せる仕種をするエリオットにアルシェは頷く。もう月を欲して泣かなくてもいい”Don’t cry for the moon”。見ようともせず、無い物ねだりだと思い込んでいた事が恥ずかしかった。アルシェは再び空を見上げる。求めるものはいつでもそこにある。それに気付いて信じる事さえできれば、それは輝ける真実。
ほのかに浮かぶ欠けた白い月を、2人はずっと見つめていた。



             END

掌編の間へ