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『聖なる願い』

「お前は隠れていなさい。」
「いやだ! 僕も行く!」
「駄目よ、あなたはここにいなさい。必ず戻って来るから。」
父と母に強く肩を押され少年は屋敷の地下室に押し込まれた。鍵のかかる音と扉を何かで塞ぐような音が響く。
「くそ、どうしてここが解ったんだ。」
「早く離れましょう、あの子が危ないわ。」
「あぁ。」
悲壮な声が扉から遠ざかっていく。何が起きているのか、少年には解らなかった。やがて暗闇の向こうから悲鳴と怒声、複数の荒々しい足音、何かが壊れる音がひっきりなしに聞こえてくる。大きな音がするたびに振動が地下室へも伝わってくる。何か恐ろしい事が起きている、という事だけは理解できた。ここを出て両親の所へ行くべきかと考える。だが、両親が自分をここに閉じ込めたのは、この恐ろしい事態から守るためなのだろう。出て行くのはきっと正しくない。震える足と漏れそうになる声を必死に抑え、少年は事態が収まるのを待つ。繰り返される悲鳴と破壊音に震えどれほどの時間が経ったのか解らなくなる頃、男のものらしい声を最後に辺りは唐突に静かになった。だが必ず戻って来ると言った両親は、どれだけ待っても来ない。恐ろしい事態は、終わったのではないのだろうか。何故両親は戻って来ないのだろう。不安にかられ扉をあけようとする。開かない扉に向かって体当たりを繰り返し、どうにか地下室を出た少年は呆然と立ち尽くした。屋敷は無残に破壊され、壁の一部と傾いた柱だけがかろうじて残っている。
「父さん? 母さん? みんなは?」
玄関から外へ出ると、見慣れた景色は一変していた。深い森の奥、数件の屋敷がある小さな、村とも呼べないほどの集落だったが、針葉樹に囲まれた静謐で美しい場所だった。だが今は全ての屋敷が破壊され、畑も木々も焼き尽くされ見る影もない。両親は、他の皆は、どうなってしまったのか。動くものの姿は少年の他に無かった。
「どうして、こんな事を……。」
怒りよりも悲しみが湧き、少年は泣く事すら忘れ立ち尽くしていた。

 その後。森を出て彷徨っていた少年は、森から少し離れた街の孤児院で暮らす事になった。戦の多い世だったため、彼も戦で親を亡くしたのだろうと思われたのだ。ショックで口をきく事も出来なくなっていた彼に、院長はルイという名を与えた。いつか、本当の名前を教えて下さいと言った院長の優しい微笑みを今も覚えている。新しい名前と質素ながらも穏やかな暮らし、優しい街の人々にルイは少しずつ馴染んでいった。戦や病で親を亡くした他の子供達とも心通わせるようになり、友人もでき笑う事も出来るようになった。だが、あの恐ろしい日を忘れる事は無かった。あの日の恐怖はルイの心に大きな影を落としている。だがいったい誰が何のためにあんな事をしたのかは、解らないままだった。自分達がどうして森の奥で隠れるように暮らしていたのかも。彼がそれを知るのは、この街で暮らすようになってから1年あまりが過ぎた頃、院長に連れられて街の教会を初めて訪れた時だった。礼拝堂の前で作法などを教わっている間、ルイは落ち着かない気分で周りを見回す。この場所が、自分を拒絶しているように感じてならなかったのだ。他の子供達が「優しい顔をしている」と言った聖母像も、ルイには厳しい表情に見えた。怯えている様子のルイに院長が声をかける。
「どうしたのかな、ルイ?」
「何だか、怖くなって。」
「怖い?」
「何だか、みんな怒っているように見えるんだ。」
聖母や天使の像を指してそう言ったルイに、院長はしゃがんで視線を合わせると微笑んだ。
「もしかしたら、ルイは他の神を信仰していた地域の出身なのかな? 無理にとは言わないが、これからはこちらの神を信仰するといい。私達の神は全てを見ておられる。そして全てを受け入れ、許し、愛して下さる。」
「全てを許し、愛する?」
「そう。私達の罪をお許し下さいと心から祈れば、神は応えて下さる。」
「罪?」
重い響きの言葉にルイの表情は曇る。教会が自分を拒むのは、自分が罪人だからなのだろうか。
「何も怖がらなくて大丈夫。神は私達を悪しきものから守って下さるのだから。」
「悪しきもの、って?」
「たとえば、人の心を乱し悪の道に誘う夢魔や、人の血を啜って生きる吸血鬼、魔術を行使する魔女などの悪魔だ。世の中の多くの災いはこういった悪魔の仕業、そんな悪魔を払うために身を清め神に祈るのだよ。」
そうそう、と手を打ち院長は微笑んだ。
「1年程前に、この辺りに潜んでいた吸血鬼の集落を壊滅させる事が出来たのも、神のご加護のおかげだ。」
「吸血鬼の、集落?」
「そう、ここから少しばかり北へ行った所に針葉樹の森があるだろう? あの森の奥に吸血鬼達が隠れ住んでいたのだよ。聖具と祈りをもって全ての吸血鬼を討ち、地に返す事が出来た。恐ろしい悪魔共に、私達は打ち勝ったのだ。」
針葉樹の森にあった集落、それはルイの故郷に他ならない。その後の院長の言葉はルイの耳には入らなかった。自分達は、悪魔と呼ばれ忌み嫌われる存在だったのだ。両親を殺し故郷を滅ぼしたのは、この街の人達。だが、この街で暮らしてきて、街の人達の優しさも知っている。きっと吸血鬼を討つ事は、街の人達にとって必要な事だった。両親は、人を襲って生きていたのだろうから。どちらも生きる為に必要な事をした、それだけの事だ。
「大丈夫かい? ルイ。」
心配そうな院長の声に我に返る。じっと自分を見つめる院長の眼差しに、嘘や悪意は感じられない。慌てて頷いたルイに院長は微笑んだ。
「ゆっくり、色々な事を知っていくといい。何を信じ、どこへ進むかは君の自由なのだから。」
礼拝を終え教会を後にする。振り返ったルイは教会に掲げられた十字架を見上げた。ルイにとって両親を殺した憎むべき恐ろしい力の象徴だ。だがそれは今、優しく美しいものにも映る。どうして自分達はこの力と相容れないのだろう。心から祈れば神は応えてくれるといった、院長の言葉を思い出す。ならば。
「僕らの命を、許して下さい。」
誰にも聞こえないように小さく、しかし真剣に祈る。それは厳格な神さえ心揺さぶられるであろう、魔に生まれた命の聖なる願い。


                END