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『春の精霊と桜下の蛙』

 春の精霊達が住む里の片隅にある、まだ葉もついていない大きな桜の木の下で、少女は熱心に舞の練習をしていました。まもなく人間達がその年の豊作と無病息災を祈るお祭りがあるからです。精霊達は普段はそれぞれ好きな生き物の姿で暮らしていますが、人間のお祭りに関わる時には人間の姿になって、踊ったり楽器を演奏したりします。お祭りでの人間の祈りを神様に届け、舞を踊って神様の祝福を伝えるのが役目でした。
「君、上手だね。」
「えっ!?」
誰もいないと思っていたのに急に誰かの声がして、少女は驚きながら辺りを見回しました。よく見ると、少し離れた桜の木の根元で、明るい緑色をした小さな蛙が少女を見上げていたのです。蛙は大きく飛び跳ねて少女の足元に着地しました。
「その舞は、主役の舞だ。君の舞はとてもきれいだから、今年の祭りはきっと例年以上に上手く行くだろう。」
蛙の言葉に少女は恥ずかしそうに目を伏せました。
「わたしなんて、まだまだ……。みんなの足引っ張ってばかりだし。」
「そうなのか? そういえばみなはどこにいる? どうして君はこんな隅っこで練習しているのだ?」
「わたし、まだ新米で、みんなと一緒に練習したら迷惑かけちゃうから。」
「でも君が主役なのだよね? 主役がいなくては練習できないのではないか?」
不思議そうに問う蛙に少女は俯いてしまいました。どうしたのかと蛙が聞いても少女は答えません。すると遠くから女性の声が響いてきました。どうやら少女を探しているようです。少女より年上の女性は彼女を見つけるなり怒鳴りつけました。
「こんな所で何やってるの! もう練習始まるのよ!」
「ごめんなさい。」
小さな声で謝る少女に女性はさらに怖い顔で続けます。
「みんなを待たせるなんていい度胸ね。新米で主役に抜擢されたからっていい気にならないで。」
「そんなつもりは……。」
「いいから早くしなさいよ、愚図!」
顔を上げた少女の腕を乱暴に引いて女性は大股で歩き出しました。引きずられるように少女もついていきます。2人のやりとりを見ていた蛙は心配そうに口を尖らせました。
「こっそり様子を見に行ってみるか。」
蛙は見つからないように気を付けながら、少女の後を追いかけました。里の中央にある瓦葺の大きな神殿の前に、揃いの薄紅色の衣装を着た若い精霊達が集まっています。みんな一様に険しい顔をして、連れて来られた少女を睨んでいました。突き飛ばされるようにみんなの前に出た少女は深々と頭を下げました。
「遅れて申し訳ありませんでした。」
少女の謝罪にみんな顔をしかめて口々にまくしたてます。
「先輩を待たせるなんて、新米で主役に大抜擢された方は違うわねぇ。」
「いくら踊りが上手くても、遅刻を何とも思わない奴に主役が務まるのかしら。」
「こんなどんくさい子が主役なんて、今年のお祭りは大丈夫なの?」
「私達の足を引っ張られちゃ迷惑よね。」
次々と浴びせられる非難の言葉を、少女は俯き震えながら聞いています。そこへ、横笛や鼓を抱えた楽隊を連れて年配の女性が現れました。
「皆さん何をしているのです? さぁ、儀式の練習を始めますよ。」
凛とした声に少女達は背筋を伸ばし、いそいそと舞の配置につきました。笛の音色と共に、少女達の舞が始まります。蛙は物陰に隠れてじっと見守っていました。舞には物語があり、人間の里を襲う悪しき者達を精霊達が戦って退けるというお話で、人間の村にも伝説として伝わっているお話です。精霊達を率いて先頭で戦う英雄の役が新米の少女でした。魔除けの鈴が付いた長い杖を軽々と扱い、少女は軽やかに踊ります。時に鋭く、時に柔らかに。少女の舞は戦士としての強さと守りたい者を包む慈愛に満ちていて、見る者を惹きつけました。しかし、じっと見つめていた蛙はやがて違和感に気付きます。少女の舞と他の精霊の舞が少しずれているのです。少女の舞は楽隊の笛の音と鼓の拍子にぴたりと一致していますが、周りの踊り手達の舞が楽隊と合っていないのです。しかし、踊り手の中で新米の少女だけがずれているので、ぱっと見には少女が間違えているように見えてしまいます。自分の舞が周りとずれている事に気付いた少女は慌てて立て直そうとしましたが、周りに合わせようとすると音とずれてしまい、音に合わせようとすると周りとずれてしまうので、少女は混乱してしまいました。泣きそうな顔で舞い続け、振り付けを間違えたり他の精霊とぶつかったり、足をもつれさせて転びそうになってしまいました。もちろん、これは周りの精霊達がわざとみんなでずらして踊っているのです。練習を見ていた年配の精霊は険しい顔で手を叩き、演奏と踊りを止めさせました。
「どうしたのですか? みなさん一体感がまるでありません。今まで何をやってきたのです? これでは人間の村を祝福するどころか、災いを呼んでしまいますよ。今日の練習は中止です。よく、自分達の役割を見直すように。」
年配の精霊が立ち去ると、踊り手達は一斉に新米の少女を睨みます。
「どうしてあなたみたいな下手くそが主役に選ばれたのかしら。」
「辞退するなら今の内よ。」
「私達の足を引っ張らないって言ってるでしょう。」
そんなはずはないと思いながらも、先輩達から一斉に責められて少女は俯いてしまいました。
「申し訳ありません……。」
消え入りそうな声で頭を下げる少女に尚も罵詈雑言を浴びせ、踊り手の精霊達は去って行きました。楽隊の精霊も、いざこざには関わり合いになりたくないとばかりにいそいそと立ち去っていまいます。涙をこらえて立ち尽くす少女に、蛙はそっと近付きました。
「大丈夫かい? 君は何も間違っていないから、自信を持って。君の踊り、とても綺麗だった。」
蛙の言葉に少女は泣きそうな顔で答えます。
「ありがとう。でも、いつもみんなに迷惑かけちゃってるし、わたしにはまだ主役なんて無理だったのよ。」
声を震わせる少女に蛙は大きく首を振りました。
「ずっと見ていたけど、今主役を踊れるのは君しかいない。里の踊り手の中で、踊る事が好きで、春の精霊の役目と真剣に向き合っているのは君だけだ。」
蛙の熱心な言葉は、落ち込んだ少女の心には届きません。
「わたし、長に言って主役を辞退する。わたしが選ばれたのは何かの間違いだと思うの。」
「舞の主役は神が選んだのだよ? 神は間違えない。」
蛙の言葉に応えず、少女は俯きながら精霊の長が住む屋敷に向かいました。突然の来訪に長は驚きながらも、酷く落ち込んだ少女が心配になり自分の部屋へ通します。
「いったいどうしたのだい?」
優しく問いかける長に、少女は震えながら顔を上げました。
「わたし、舞の主役を辞退したいのです。恐れながら、わたしなどが選ばれたのは何かの間違いではないかと。」
長は眉間にしわを寄せ考えます。練習が上手くいっていないという報告を受けたばかりでした。一番若い精霊が主役に選ばれた事が周りは気に入らないのでしょう。彼女を主役から降ろせと直訴された事もありました。しかし、神様は間違いなくこの子を主役にと長へ伝えたのです。神様の意志を無視して主役を変えてしまっては、本当に人間の世界へ災いを呼んでしまいます。長は少女の目を見つめゆっくりと話しました。
「神様は間違いなくあなたを主役にと仰いました。そしてこうも告げられました。『若き精霊達にとって一つの試練になるだろう』と。」
「試練、ですか。」
「そう。きっとあなただけでなく、全ての精霊達が乗り越えなくてはならない試練です。雑念に耳を傾けず、己を磨き役目を果たす事に集中するのです。」
歳を重ねた自分達にとっても、これは試練だと長は思いました。若い力は暴走してしまいがちです。彼女達を正しく導き見守るのは、精霊達をまとめる者の役目だと考えました。
「努力は必ず実を結びます。そして、誠実で真剣であれば、物事は良い方向へ進みます。あなたなら大丈夫です。」
「でも、生まれて間もないわたしなんて……。」
「過ぎた謙虚さはいらぬ災いを招きますよ。」
はっとして顔を上げた少女に長は微笑みます。
「あなたは神様に選ばれるだけの実力を持っています。堂々としていなさい。」
少しだけ明るい表情になった少女を見送った数刻後、今度は他の精霊が長の屋敷を訪れました。舞の中で、主人公に倒される敵役の踊り手です。険しい表情で長に訴えかけます。
「今年の主役を変えて下さい! どうしてあんなどんくさい子が主役なんですか!」
密かにため息を吐き長は彼女を宥めます。
「主役は神様が選ばれたのです。神様の意志に背く事はできません。」
「でもあいつが主役に選ばれたせいでみんなの調和が乱れています!」
「それは嫉妬ですか?」
思わず言葉に詰まった彼女に長は穏やかに語ります。
「調和を大事にしたいと言うのであれば、敵役や脇役もなくてはならない大切な役目だというのは解りますね? あの子もあなたも、みんなそれぞれ努力しているのを知っています。若い主役を支えるのは、あなたにしかできません。」
唇を噛みしめながら屋敷を後にする彼女の背を、長は心配げな顔で見つめていました。

 それから数日。お祭りの日がやってきました。練習の日々はぴりぴりと張り詰めた空気が漂っていて、年配の精霊達を心配させています。やがて人間のお祭りが始まりました。祭囃子に乗せて人間達の祈りが精霊の里へ届きます。神殿の前に作られた演舞場で、精霊達の演奏と舞が始まりました。神様から人間達への祝福を貰うため、人間達の祈りと精霊達の演舞を捧げるのです。主役の少女が演舞場の中心に進み物語が始まります。楽隊の演奏に一分の乱れも無い舞を見せる若い精霊達に、見守っていた大人達が安堵の息を吐いた時でした。敵役の踊り手が振った剣が、少女の衣装をかすめたのです。微かな音を立てて少女の衣装に付けられた石が弾け飛ぶと、それを合図にしたかのように少女の衣装がばらばらにほどけていきます。少女の衣装にほどけやすいよう細工がされていたのです。慌てて少女は衣装を抑えながら踊り続けますが、肩や胸が露わになり、物語に相応しくない格好になってしまいました。しかし、楽隊の演奏は続き他の踊り手もそ知らぬふりで踊り続けます。見守っていた精霊達は舞を止めさせるべきか迷いました。神聖な儀式の最中にこんな事故があってはいけません。少女は動く度にほどけ落ちて行く衣装を必死に抑えながら悲痛な顔で舞い続けます。演舞場がざわつき始めた時、突然強い風が吹き抜けました。その瞬間、まだつぼみも付けていない桜の木からたくさんの桜の花びらが舞い上がり、少女の身体を包んだのです。驚いた少女の視線の先、桜の木の下で跳ねる蛙の姿がありました。花弁は少女の舞に合わせて動き、破れた衣装の替わりを果たします。見守っていた精霊達は感嘆の声を上げました。強い風が吹いたのは少女がちょうど杖を掲げた時で、まるで少女が桜の花を呼びこんだように見えたのです。落ち着きを取り戻した少女は微笑みながら舞を続けます。力強く時に優しく、その姿は物語の英雄そのものでした。周りの踊り手達は少女の舞に衝撃を受けています。自分達の嫌がらせに動じないどころか、こんな奇跡を起こしてしまうなんて。桜の花びらをまとって踊る少女の舞は神々しくさえ映りました。敵わない。見守っていた精霊達から万雷の拍手を受けて舞を終えると、少女の下へ踊り手達が集まりました。少女の衣装を切った敵役の踊り手が深々と頭を下げます。
「酷い事をして、ごめんなさい。」
他の精霊達も口々に謝り頭を下げます。少女は慌てて首を振りました。
「いいんです。わたしが未熟なのは本当の事ですし、わたしがみなさんの立場だったら、きっと嫉妬して同じ事をしてしまったと思います。」
少女はみなを見回して微笑みました。
「これからもよろしくお願いします。」
頭を下げた少女にみなは涙を零しました。

 それから数日。少女は桜の木の下にいる蛙を見つけました。
「あの時は助けてくれてありがとう。」
「何の事かな?」
「お祭りの時、桜の花びらを使って助けてくれたでしょう?」
蛙は少女をまっすぐ見つめます。
「私はただの蛙、そんな力は無いよ。あれは君が起こした奇跡だ。」
「そんなはずは……。」
戸惑う少女に蛙は大きく首を振ります。
「君の真剣な想いが奇跡を起こしたのだよ。事故を演出に変え、周りの意識も変えた。」
あの日以来、他の精霊達が少女に辛く当たる事は無くなりました。心を一つにして、春の精霊としての修練に励んでいます。
「君には物事を良い方向へ変えられる力がある。自信を持って。」
「ありがとう。」
少女を探す精霊の声が聞こえてきました。
「はい、すぐ行きます!」
元気よく答えると少女は蛙に微笑みました。
「じゃ、またね。」
探しに来た精霊と肩を並べ去って行く少女の背を見つめ、蛙は満足げに呟きました。
「やはり私の目に狂いはなかった。あの子は将来、精霊達の良い導き手となれるだろう。」
少女を探しに来た精霊が、お祭りの時に少女の衣装を切った踊り手だと気付くと蛙は安堵の息を吐きます。
「彼女らには罰を与えても良かったのだが、止めておいて正解だったな。」
今度は遠く天上から自分を探す声が聞こえて、蛙は大きく伸びをすると本来の姿に戻りました。
「やれやれ、神にも少しはのんびりさせてほしいものだ。」
蛙の正体を知ったら、少女はさぞ驚くだろうなと想像しながら、悪戯っぽい笑みを浮かべ自分を探す声に応えます。
「あぁ、今行く。」


つぼみを付けた桜の枝が、柔らかな風に揺れていました。


             


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