短編の間へ /翠玉館玄関へ

「潮騒と白い部屋」



波の音が微かに聞こえ、少女は目を覚ました。見慣れない天井、白い壁、白いカーテンの隙間から午後の光が射し込んでいる。カーテンの向こうに海が広がっているのが見えた。
「頭痛い……。」
少女は混乱していた。ここはどこなのだろう。自分は何故ここにいるのか。何もわからなかった。ただひどい空腹感と疲れがあるだけで、ベッドから起きると激しいめまいに襲われた。この状況に対して何も思い出せぬまま少女はふらふらと部屋を出た。階下から料理をしているらしい匂いと物音がする。少女は手すりにもたれながら階段を下りていった。キッチンを使っていると言う事はこの家の主なのだろうか。自分がここにいる訳を知っているかもしれない。自分が陥ったこの状況を誰かに説明してもらわない事には不安で堪らなかった。匂いと音を頼りにキッチンへ行くと、一人の男が真剣な表情で料理をしているのが見えた。その横顔へ少女はそっと声をかける。
「あの、すみません。」
男は包丁を手にしたまま顔を上げると嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あぁ、良かった! 気が付いたんだね。今食事作ってるからその辺に座ってて。リゾットくらいなら食べられると思うから。」
満面の笑みを浮かべる男とは裏腹に少女の表情は暗い。
「あの、ここはどこなんですか? あなたは誰? 私はどうしてここにいるの?」
料理に視線を戻し男は口を開く。
「うん、それもちゃんと説明するよ。よし、結構いい出来だぞ。」
満足げな笑みを浮かべて男はテーブルに料理を並べる。リゾットの他にパスタやサラダ、果物が並べられる。
「えっと、じゃあ君に起きた事から話そうか。君は2日間昏睡状態で眠っていたんだ。君はある悲惨な事件に遭遇して、そのショックで気を失っていたんだ。」
男の言葉に少女は記憶を辿るが思い出す事は出来なかった。不安げな顔の少女に男は優しく言葉をかける。
「思い出せないのも無理はないよ。ショックで一時的に記憶が失われているんだろう。それ程に悲惨な事件だった。」
少女はしばらく俯いて逡巡した後、思い切ったように顔を上げた。
「その事件って、どんなものだったんですか?」
男は迷うように沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開く。
「いずれは知る事になるから、今知っておいた方がいいかもしれないね。君の家に刃物を持った男が侵入して、君のお母さんを殺害したんだ。悲鳴を聞いた近所の人の通報で警察が来て君は無事だった。犯人は今も逃走中だけどきっとすぐに見つかるよ。」
「ママ、殺されたの?」
蒼白な顔で少女は呟く。そして事件を思い出そうと頭を抱える。泣き出しそうな表情の彼女に男は慌てて口を開く。
「むしろ君にとっては思い出さない方がいいのかもしれない。一時的なもののようだから、焦らないでゆっくり思い出していけばいい。その為に僕がいるんだ。」
「あなたは、誰? ここはどこなんですか?」
「僕の名は深沢啓一。僕は医師の資格を持っていてね。知り合いの刑事に頼まれて君を保護したんだ。ここは郊外にある僕の別荘。静かでいい環境だから君の療養にぴったりだと思って連れて来たんだ。ここでゆっくり静養するといいよ。」
深沢はにっこりと少女に微笑みかけた。その誠実そうな笑みは、不安な少女を安心させ信用させるのに充分なものだった。

こうして深沢と少女との生活が始まった。


*  *  *

「嫌。あたしのパパは一人しかいないもん。」
「困った子ね。あんなに懐いてたのに。ごめんなさいね。」
「いえ、時間をかけて接していけばわかってもらえますよ。」
「ぜっったいに、嫌。」
「もぅ……。おじさんの事好きって言ってたじゃないの。どうして急にそんな事言うの。」
「それとこれとは違うもん! ママはパパがかわいそうだとは思わないの!?」
「そんな事ないわよ。でもね、ママはあなたの為を思って……。」
「嘘つき! ママなんか嫌い! おじさんも嫌い!」
「これはかなり手強そうですね……。でもあの子は頭のいい子ですから、きっとわかってくれますよ。」
「えぇ。本当にごめんなさいね。せっかくお時間割いて頂いたのに。」
「いいんですよ。あの子の気持ちもわかりますから。」


*  *  *

「やぁ。おはよう。」
「……。」
「挨拶くらいしたらどうなの。一体いつまで意地を張ってるのよ。」
「関係ないでしょ。朝ご飯いらない。」
「もう1年も経つのに全く頑固なんだから。死んだ主人にそっくり。」
「そんな言い方をしてはいけないよ。13歳なんて難しい年頃なんだよ。」
「でも……。」
「時間が解決してくれる事もあるさ。気長に行こう。」
「ホントに可愛くない子なんだから。」
「そんなことない。僕はあの子が好きだよ。いつかきっと、通じる日が来るよ。」


*  *  *


「夢を見たの。」
ある日の朝食の席で少女は調理をしている深沢に声をかけた。
「へぇ、どんな夢だい?」
「あんまりよく覚えてないけど、子供の頃の夢だったみたい。」
包丁を持った深沢の手が止まる。ゆっくりと顔を上げ少女に問い掛けた。
「それで、何か思い出せた?」
首を横に振った彼女に、深沢はがっかりしたような安心したような複雑な表情を浮かべた。

そして平穏に日々は続いていく。


*  *  *

「もう3年にもなるのに一体いつになったら君は僕を認めてくれるんだ! 僕はこんなにも君を愛しているのに!!」
「何するのよ! 危ないじゃない!」
「君が好きなんだ! 僕のものになってくれ!」
「冗談じゃないわ! 誰があんたのものなんかに!」
「なら、力ずくでも僕のものに……!!」
「いや! 止めて! ママ、助けて!!」
「あなた!? 何て事を! 自分が何をしてるかわかってるのっ!?」
「ふふっ、わかってるさ。もう終わりだよ、何もかも。」
「ママ、危ない!」
「きゃあぁあ! 止めて、啓一さん!!」


*  *  *


飛び起きた少女は全身に冷たい汗をかいていた。
「今の夢は?」
包丁を持った男に組み敷かれていたのは間違いなく自分だった。少女の思考はめまぐるしく回転する。
……そうだ、あの日。あたしの悲鳴を聞いてママが部屋に駆け込んできたんだ。男は狂ったように笑って包丁を何度もママに突き立てた。あの瞬間、ママは何と叫んだ? でも、まさか。
深沢啓一。何週間も一緒に過ごし、自分の面倒を見てくれた男。自分を組み伏せ、母を殺害した男。優しい微笑み。狂ったような笑い声。白いこの部屋。赤く染まった自分の部屋。ぼやけていた記憶の輪郭がはっきりと形を持ち始める。それは、信じたくない光景だった。
「嘘だ。」
階下からはいつものように深沢が料理をしている音が聞こえてくる。ふらふらと少女は階段を下りる。キッチンの深沢に声をかける。確かめなくてはいけない。でも怖い。
「ねぇ、深沢さん。あなたは……。」
それ以上言葉にならず少女は口ごもる。深沢は包丁を手にしたままゆっくりと顔を上げた。そしてじっと少女の怯えた顔を見つめ、やがて嬉しそうに口を開いた。
「やっと思い出してくれたんだね。そうだよ。僕は医師の資格を持った、刑事の知り合いなんかじゃない。」
いつもの優しい微笑みを浮かべて深沢は言葉を続けた。
「僕は君のパパだよ……。」


           END


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