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「アントン、大きくなったらあなたは私のお婿さんになるのよ。」
「お嬢様……。」

『ティータイムは終わらない』



 執事のアントンが紅茶の用意をしている音が静かに響いている。窓辺ではセレスティアが憂鬱な顔で外を眺めていた。雨が彼女の表情に更に影を落とす。彼女は伯爵家の一人娘。家の存続のために、貴族の御曹司を婿養子に迎える事が決まっていた。彼女の憂鬱を察し、アントンは用意が整った事を告げるとそのまま退室しようとした。
「待って、アントン。」
「はい、いかがなさいましたか。お嬢様。」
生真面目な顔で足を止めたアントンにセレスティアはため息をつく。
「アントン、ここには私達だけだわ。畏まるのはやめて頂戴。」
「しかし、誰が聞きとめるとも限りません。」
テーブルに着きセレスティアは紅茶を一口飲むと悲しい眼差しを向けた。
「あなたも私を伯爵家令嬢としてしか見てくれないの? 昔のあなたはそうじゃなかったのに。」
彼女の言葉に今度はアントンがため息を漏らす。
「お嬢様がフロックハート伯爵家のご息女であられる事は事実です。そして私は一介の使用人。失礼があってはなりません。」
「もういいわ。」
拗ねてしまったセレスティアに困ったような笑みを浮かべながら、アントンは一礼して退室した。彼女の苦悩はアントンにもわかる。主人と使用人の関係など許されるはずがない。それでもセレスティアが幼い頃から傍にいたアントンは秘かに彼女へ恋心を抱いていた。許されない想いを抱く自分を叱咤し彼女の事は諦めるのだという誓いは、彼女の告白によって大きく揺らぐ。彼女はアントンが好きだと、将来はアントンと結婚するのだと告げた。彼女の幼さゆえの想いだ、勘違いするなと自分を戒めていたがセレスティアは本気だった。やがて彼女が自分の恋は叶えてはならないものだと知っても、自分の想いを曲げる事はなかった。彼女のストレートな想いはアントンの決意を揺らがせる。セレスティアがアントンの本心を知るのは時間の問題だった。だが、2人の気持ちが周囲に知れたら引き裂かれるのは明らかであり、また彼女はいずれ別の男性と結ばれなくてはならない事も解っていた。交わす視線にありったけの想いを込める。同じ屋敷で過ごし秘かに心を通わせながらも、触れ合う事は許されない。セレスティアが成長し縁談話が持ち込まれるようになると、アントンは少しずつ彼女から距離を置き始めた。自分の存在は彼女を不幸にするだけだ。だがセレスティアがそれを不満に思っているのは明らかだった。彼女自身にもアントンにもどうする事もできない現実だという事はわかっているようでも、愛する人が遠ざかり、愛の無い結婚を強いられる身の上を悲しんでいる。コールマン男爵家の次男アーノルドとの縁談が決まってから、彼女の悲しみは日に日に色濃くなっていった。
 ある日アントンが買出しから戻ると、メイドの1人がアントンを探していた。セレスティアが買い物に出かけたいと言い、アントンの同行を求めているという。使用人とはいえ、若い男が婚約者のいる女性と2人で外出するわけにはいかない。自分はまだ仕事が残っているから屋敷の運転手に同行を頼むようメイドに告げた。セレスティアの前に現われた年配の運転手は不満げな彼女に詫びながら車を出発させる。よくある光景のはずだった。数時間後、運転手のディックが怪我を負い1人で帰ってくるまでは。
「申し訳ございません。私が付いていながらこんな事に……。」
手当てを受けたディックが深々と頭を下げる。買い物を済ませたセレスティアを車に乗せようとした瞬間、2人組の暴漢に襲われセレスティアはさらわれてしまったのだという。フロックハート伯爵は眉間に深い皺を寄せ嘆息を漏らした。
「誰が一緒でも同じだっただろう。気に病むな。それよりもセレスティアを取り戻す方が先だ。」
しばらくして居間の電話が鳴った。一同に緊張が走る。伯爵が電話を取ると、相手は予想通り誘拐犯だった。きつく受話器を握りしめる伯爵を一同は固唾を飲んで見守る。激しい口調で犯人を罵った後、「わかった。」とだけ答えて電話を切った。悔しげに顔をしかめると一同に会話の内容を告げる。犯人の要求はやはり金だった。
「警察へ通報致しましょう。」
アントンの言葉に伯爵は首を振った。
「警察を呼べばセレスティアの命は無いと言ってきた。」
「しかし……。」
言葉に詰まったアントンは固く唇を噛む。躊躇わずに自分が彼女に同行していればと悔やんだ。だが、ディックも年配者だが武道の心得のある男、その彼に2人がかりとはいえ怪我を負わせセレスティアをさらう事に成功している奴らを相手に、自分が彼女を守りきれただろうか。重い沈黙に包まれた部屋にノックの音が響く。客人を案内してきたメイドが一礼する。訪れたのはアーノルドだった。メイドが口を開く前に彼は居間へ歩み出る。セレスティアに会いに来たという彼は居間の重い空気を察し何があったのかと伯爵に問い掛けた。事件の事を告げるとアーノルドは血相を変える。
「何ですって!? 早く警察に連絡しましょう!」
口ごもる伯爵の手を取り励ますようにアーノルドは強気な笑みを浮かべる。
「お忘れですか? 私の伯父は警視です。きっとお嬢様を無事に助け出してみせます!」
それからのアーノルドの行動は素早かった。伯父だという警視に連絡を取り屋敷に急行させる。部下を連れて到着した伯父に丁重に指示を出し、犯人からの電話にも堂々と応対した。そして自分が囮になると言い犯人が指定した身代金受け渡し現場へ向かって行った。警視達がアーノルドを秘かに護衛しながら現場へ向かう。その一連の動きをアントンは黙って見ているしかなかった。誰よりもセレスティアを想っているのに、彼女の窮地を救えない事が悔しかった。アーノルドが電話越しに犯人に告げた「私は彼女の婚約者だ」と言う言葉が頭の奥深くに響き渡る。自分にはセレスティアを守る力も資格もないのだという現実を突き付けられた。
「お嬢様、どうぞご無事で……。」
やがて夜が更ける頃、アーノルドはセレスティアを伴って屋敷に帰還した。犯人は警視たちに連行されたという。伯爵は涙を浮かべアーノルドの手を握る。深々と頭を下げる伯爵の肩にアーノルドはそっと手をかけた。
「私はお嬢様の婚約者です。当然の事をさせて頂いただけです。」
アーノルドの果敢な行動とセレスティアの無事に沸く屋敷で、アントンとセレスティアだけが沈んだ表情を浮かべていた。帰宅するアーノルドは彼の鞄を持ち見送りに出たアントンをじっと見据える。視線を感じアントンはアーノルドを見つめ返した。
「いかがなさいましたか?」
「お前、お嬢様の事をどう思っている?」
唐突な問に動揺を隠せずアントンは言葉に詰まりながら答える。
「セレスティアお嬢様は、私がお使えさせて頂いているお屋敷のご令嬢。伯爵様と同様、忠誠を誓っております。」
意地の悪い笑みを浮かべアーノルドはアントンの目を覗き込む。
「忠誠ね。隠さなきゃいけない愛情を摩り替えるには便利な言葉だ。」
「愛情など……!」
「愛など抱いてないというなら何で赤面する必要がある? 素直な奴だな。嫌いじゃない。」
「からかわないで頂きたい。」
抗議するアントンに構わずアーノルドは喋り続ける。
「一見したところ、お嬢様もお前に好意を寄せているみたいだな。」
「そんな事は――」
「いいから聞けよ。俺とお嬢様の結婚はいわゆる政略結婚だ。」
表情を引き締めアーノルドは言葉を続ける。
「俺は次男で家は長兄が継ぐ。次男の存在なんて貴族の家じゃ顧みられる事はあまり無い。」
肩をすくめたアーノルドに、アントンは貴族の息子にも彼らなりの苦悩があるのだと知る。
「相思相愛のお前達を引き裂いて悪いが、俺にもどうする事もできないんだ。」
自嘲気味に笑うとアーノルドは暗くなった空を見つめ言葉を続けた。
「俺にも惚れた娘がいた。行きつけのバーで働く子だった。身なりは貧しかったが話していて気持ちのいい子だった。俺の身分を知っても変わらずに接してくれた。彼女も俺を想ってくれていた。だけど、この縁談が決まって別れた。」
言葉を失うアントンにアーノルドは笑う。
「そんな顔するなよ。仕方ない事だ。」
「その方を今も愛していらっしゃるのですか?」
「あぁ。だけど無意味なことだ。」
「何故です?」
「死んだよ。ふた月くらい前の事だ。」
「えっ……!」
悲しみを浮かべた顔のままアーノルドは笑う。
「俺の縁談に絶望して……なんて話じゃないから安心しろ。流行り病だったそうだ。」
「そう、だったのですか……。」
「愛した人を幸せに出来なかった俺に、お嬢様を幸せにはできない。だが、不幸にはしないと約束しよう。これは身分も家も関係ない、俺のプライドにかけた男の約束だ。」
一介の使用人である自分にそんな打ち明け話をした上、真摯な眼差しで対等な約束を交わすアーノルドに感銘を受けた。
「お嬢様を、よろしくお願い致します。」

 翌日。日課の紅茶の支度を整え、アントンはセレスティアの部屋をノックする。これだけは他の人間にさせる事をセレスティアが許さなかった。
「お嬢様、紅茶の用意が整いました。」
無言でアントンを見上げるセレスティアに胸が痛む。昨日の事件は彼女に恐怖と同時に、自分の立場とアントンの立場、親が決めた婚約者がいる現実を突きつけた。アーノルドは信用に足る人物だと話しても彼女の心には響かないだろう。自分とて、完全にセレスティアへの想いを断ち切れたわけではない。慎重にカップに紅茶を注ぐアントンの手をセレスティアはじっと見つめている。カップを差し出すと少しだけ彼女は表情を緩めた。
「あなたが淹れる紅茶は本当に美味しいわ。」
セレスティアは真っ直ぐにアントンを見つめる。
「私を救出できる力を持ったアーノルドにも、こんなに美味しい紅茶を淹れる事は決してできない。」
何と言っていいかわからずアントンはセレスティアを見つめ返す。困惑するアントンをよそにセレスティアは言葉を続けた。
「私のためだけに、美味しい紅茶を淹れて頂戴。他の誰にも淹れないで、私のためだけにあなたの技術を使って。私はあなたの淹れた紅茶しか飲まないし、飲めないわ。」
「光栄なお言葉です。」
それは、許されない2人の秘かな愛の言葉。身分も家柄も縛ることのできない2人のティータイムは終わらない。


                 END


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