宝物庫へ翠玉館玄関へ

「これも社会勉強」と友人に無理やり連れて行かれた娼館に、彼女はいた。

『手活けの花は凛として』

 むせかえるような香水の匂いと艶やかなドレスの女性達に身の置き所に困りながら、目の前にいる少女を見つめる。「お前にはこの娘がいいだろう」と友人が勝手に指名したのが彼女、モニカだった。肌が透けるドレスを身にまとい濃い目の化粧を施したモニカは、見た目より幼いのではないだろうか。何故このような場所で働いているのだろう。奥の部屋に案内され、ベッドに腰かけるモニカを見てもそんな事ばかり考えていた。
「どうかされましたか?」
僕のように不慣れな客も多いのだろう、彼女は戸惑う様子も無く僕を見つめている。その真っ直ぐな瞳は、薄暗い部屋の中でも凛とした輝きを放っているように見えた。身体を穢されても心までは穢されないと。こんな強く悲しい目をした女性を今まで見た事がない。その凛とした眼差しに惹きつけられながらも不躾な視線を送るわけにもいかず、元よりこのような場所で楽しめる性格ではない僕は顔を赤くして佇むばかりだった。
「あの、こういう所には慣れていないもので。今夜はお話しをするだけでもいいですか?」
やっとのことでドレスを脱ごうとするモニカの手を止めそう切り出すと、彼女は子供をあやすような笑みを浮かべる。
「構いませんよ。そういう方もいらっしゃいますから、お気を楽にして下さい。お茶をお淹れしましょう。」
なんて綺麗に笑うのだろう。モニカの淹れたお茶は屋敷のメイド達が淹れるものに勝るとも劣らないよい香りを立ちのぼらせている。会話は機知に富み、友人達や屋敷の者達よりも彼女ははるかに物事を知っていた。何故モニカがここにいるのかは、聞けないままだった。以来、昼も夜も彼女の事が忘れられなくなった。あのような場所で働きながらも、綺麗に笑える真っ直ぐな心。彼女の綺麗な笑みが、穏やかな声が、凛とした眼差しが、くっきりと脳裏に浮かぶ。モニカに会いたい、話がしたい、傍に置きたいと思う。これは恋なのだろうか。友人にそう話すと、「ならば身請けしてやるといい」と言われた。身請け金を払ってモニカを娼館から救い出し、僕の屋敷で働いてもらう。それは彼女にとっても僕にとっても良い話のように思えた。その後何度かモニカの下へ通った。僕が行くと彼女は嬉しそうな顔をしてくれたように思う。そして何度目かに訪れた時、彼女はようやく自分の境遇を語ってくれた。モニカの家は没落した貴族だという。親の借金を返済するために、彼女は娼館に売られたのだ。もう客を取れる歳だからと、すぐに客の相手をさせられるようになったという。理不尽な話に腹を立てた僕は絶対に彼女を身請けしようと決意した。その日から数週間後、隠居する父に代わって屋敷を継ぐ事を条件に莫大な身請け金を用立てた。使用人が足りないという話を聞き、モニカを屋敷の使用人に迎えた。友人の紹介であり身元はきちんとしていると周囲を納得させた。身請けの話を聞きモニカは戸惑っていたが、「僕の屋敷で働いてほしい」と告げると「心よりお仕え致します」深々と頭を下げる。その時彼女がどんな顔をしていたのか、深く頭を下げた姿からは窺い知る事はできなかった。 モニカは屋敷の仕事をすぐに覚え、使用人達の中にも溶け込んでいった。当初は訝しげな眼を向けていた父も、モニカの誠実な仕事ぶりに心を許してくれたようだった。以前より僕と会話を交わす時間は少なくなったが、恋しい人がすぐ傍で暮らしていると思うと幸せな気持ちになれる。モニカが淹れてくれるお茶を飲むのが日々の楽しみだった。彼女を救ったのだという満足感と、彼女への恋心でいっぱいだった。いずれはモニカを僕の妻にしたいと思うようになった。使用人と主人が恋愛関係になる事は許されない。だけどそれも、乗り越えられると思い込んでいた。彼女もきっと喜んで受け入れてくれるだろう。だがそれはとんだ思い違いであったと、後に思い知る事になる。

 正式に当主を継いだ後、僕に縁談が寄せられるようになった。貴族の当主として妻を娶り後継者を望まれるのは当然の事だ。だが僕には心に決めている人がいる。いつかモニカへ、そして屋敷の者達に告げなければならない。プロポーズには早いかもしれないが、僕の気持ちだけでもモニカへ伝えておきたいと思った。
ある日僕は買い出しから戻ったモニカを呼び止める。他の者が周りにいないことを確かめ、僕の部屋に招いた。
「フェリク様、お話とは何でしょうか。」
「モニカ、僕は以前から君を愛している。いずれは僕の妻になってほしい。」
単刀直入にそう告げると、モニカは俯き首を振った。
「それはできかねます。」
「何故? 身分の事も過去の事も気にする必要は無い。僕が何とかするから。」
「そういう問題ではございません。」
モニカは真っ直ぐに僕を見上げる。その瞳は、初めて会った時と同じように凛としていて、明らかに僕を拒絶していた。心までは渡さないとでも言うように。
「私をあそこから救って下さった事はとても感謝しております。そのために多大なご迷惑をおかけした事を申し訳なくも思っています。」
「迷惑だなどと!」
思わず叫んだ僕を制してモニカは言葉を続けた。
「しかし、私が失ったものをフェリク様は今も当然の事として持ち続けていらっしゃいます。そんなフェリク様のお気持ちを、素直に受け取る事はできません。」
モニカの言葉にハッとする。僕は自分の気持ちしか考えていなかった。モニカを娼館に売った親、そこで彼女を買った者達、身請けすると言い出した僕、そこには貴族の人間という共通項が存在する。僕と彼らの違いを理解してくれと言うのは、酷な話だろう。俯いてしまったモニカの肩に伸ばした手が止まる。触れてはいけないと思った。摘み取って大事に慈しんできたつもりの花は、僕の手など必要としていなかったのかもしれない。こんなにも近くにいるのに、想いは届かない。見ている世界が違うのだ。ゆっくりと顔を上げたモニカは僕を再び真っ直ぐ見据えた。
「フェリク様のお気持ちを知ってしまった以上、私はここにいる事はできません。」

 モニカが屋敷を去ってから僕はずっと考えている。僕の気持ちを秘め主人と使用人のままでいれば幸せだっただろうか。けれどモニカへの想いを秘めたまま他の女性を娶る事などできない。結局、僕は自分の事しか考えられない人間なのだろう。モニカは何を思ってこの屋敷に来たのだろう。自分が奪われたものを持っている人間に尽くすのは、辛かっただろうか。だが少なくとも、娼館から身請けした事は間違いではなかったと思う。事の顛末を聞いた友人は「恋なんてそんなものさ」と言ったけれど、ならばどうするのが正しかったのだろうか。その答えが解るまで、僕はこの届かなかった恋を抱えたまま生きるのだろう。


                END


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