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『海に舞う花』

――僕は地上に咲くという花のように舞い、あなたを送る――

 海底王国は平和そのものだった。海神様の魔法のおかげで、加護のある海底にいる限り人間に見つかることもなく、父上は善政を敷き臣下や王国民から慕われている。争いや事件が起きることなど全くないのだ。そんな日々に僕は少々退屈していた。もちろん、争いや悲しい事件が起きてほしいとは思っていない。ただ、何か刺激的な、胸を高鳴らせるような何かが起きないかと思い、こっそり城を抜け出しては辺りを探索している。いずれは僕が継いで治める国だ、しっかり視察をしておかないと、なんて見つかった時の言い訳を考えながら、今日もひそかに城を抜け出す。自室のバルコニーから外へ泳ぎ出すと、城の裏手側へ回って城壁を越える。今日も潮の流れが穏やかで気持ちいい。海上から射す太陽の光が、サンゴや海草を照らして揺らぐ。陽光にきらめく海草の間を魚達が泳いで行く。彼らと挨拶をかわし海中を見渡す。今日も王国は美しく平和だ。今日はもう少し遠くへ行ってみようか。尾ひれで水を強く蹴り泳いで行くと、回遊魚の群れと出会った。彼らは僕を見つけるとスピードを上げ慌てた様子で近付いて来る。
「イドゥニル王子! ちょうどよいところに!」
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「この先に見慣れない船が沈んでいるのを見つけたんです。」
「この間の嵐で沈んでしまったんだと思います。王様に報告に行こうとしてた所でした。」
そういえば、何日か前に大きな嵐があったのを思い出す。海底は何事も無かったが、海上では海が荒れてあちこちで大きな被害が出たと聞いた。
「そうか。海上へ戻してやれればいいんだが。」
海神様の加護があるとはいえ、人間の物が海底にあるのは危険だ。不用意に近付いた誰かが怪我をするかもしれない。父上に報告しなくてはならない。本来ならば。
「よし、調べて何とかできないか考えよう。案内してくれるか?」
退屈していたところへ沈没船発見の報せ、これは何か刺激的な事が起きるかもしれない。父上へ報告するより先に、僕の目で見てみたい。
「はい、こちらです。」
「少し暗い所なので、気を付けて下さいね。」
魚達に案内された場所は、海が深くなり始める所だった。太陽の光がかろうじて届く先に、ぼろぼろの船が沈んでいた。初めて見る人間の船に興奮する。絵でしか見たことがないが、真ん中に立っている大きな柱に布を張り、風を受けて進む仕組みのようだ。帆船、というのだったか。船の周りをぐるりと泳いで観察すると、あちこち壊れてはいるが、腐ったり苔むしたりはしていない。沈んでからそれほど経っていないのだろう。やはり先日の嵐が原因か。
「誰かまだいるんでしょうか?」
「人間は海底では生きられないよ。船内に人間がいるとしたら、とっくに死んでいるだろう。もし亡骸が見つかったら、家族のもとへ返してやらなきゃいけないね。誰かいないか確かめてみよう。」
船内を調べるいい口実ができたことを密かに喜びながら、中へ入れる場所を探す。柱の傍に扉を見つけた。壊れて大きな穴が空いている。穴から中を覗きこむと、船体に空いた穴からうっすらと太陽の光が射しているようだ。けど船内を照らせるほどの光ではなく、ほとんど真っ暗だった。覚えたての魔法で掌に光球を浮かべる。辺りを照らしながら、扉に空いた穴から慎重に船内へに入る。
「気を付けて下さいね。」
「ボクも行きます!」
何匹か勇敢な魚達が船内の探索についてきた。頼もしい。光球が照らす船内は豪華な作りをしている。扉へ続く階段の手すりや、柱、窓枠などいたる所に繊細な装飾が施されていた。豪奢で美しい船だったのだろう。王族か貴族の船だったのだろうか。階段の先にはダンスパーティでもできそうな広いスペースに、赤を基調にした複雑な模様の織物が敷かれている。海水を吸って泥まみれだが、その繊細な模様と長い毛足から一目で高級な敷物だとわかる。壁に設えられた燭台にも、精緻な装飾が施されている。城の燭台とどちらが高価だろうなんて思わず考えてしまう。
「イドゥニル様、見て下さい! これ、お城にあるのと似ていますね?」
幼い魚の声に振り返ると、彼が示した先には金色の大きなハープが横倒しになっていた。弦は全て切れてしまっていて、ハープ本体もあちこち欠けたりひびが入っている。もう使い物にならないだろう。城では宴の演奏にハープがよく使われるが、人間も同じなのかもしれない。船に楽器を積んでいるということは、やはり高貴な人間の優雅な船旅だったんだろう。
「船で宴をしていたんだろうね。楽しい船旅が、こんな結末になるなんて……。」
海中で呼吸をできない人間が、嵐で荒れる海に沈んでいくのはどれほどの恐怖なのか、僕には想像もつかない。この船に乗っていた人々は、みんな海に沈んでしまったんだろうか。
「どこから来た船なのか、誰かの亡骸が残っていないか、もう少し調べてみよう。」
「はい。」
勇敢な魚達と共に船の奥へ進んでいく。傾き開け放たれた大きな扉を抜けて泳いでいくと、いくつもの部屋に分かれていた。装飾の施された分厚い扉が並んでいる。壊れて開け放たれている扉から部屋を覗こうとしていると、魚に腕をつつかれた。
「イドゥニル様、声が聞こえませんか?」
「声?」
耳を澄ませると、海鳴りの向こうに微かに声が聞こえた。女性の声のようだ。幻聴でも気のせいでもなく、その声は確かに船内に満ちた海水を震わせ僕達の耳に届く。うっすらとしか光の届かない海底へ沈んだ船内に、生き残っている人間がいる? まさか。
「誰か、いるんでしょうか?」
「行ってみよう。」
声のする方へ泳いでいく。微かな声は泣いているような、悔いているような、悲しみをたたえた声だった。ずらりと並んだ扉の奥の方から聞こえてくるようだ。一番奥にあるひと際大きく豪華な扉。壊れて傾いているそれを抜けると、壁際にある大きな寝台に、若い女性が横たわっていた。近付くと声は確かにこの女性から聞こえる。たっぷりのレースと複雑な刺繍の施された白いドレスを着ているが、あちこち破れ汚れてしまっている。身体が浮き上がったり流されたりしないようにだろうか、鞘に宝石があしらわれた重そうな長剣を大事そうに抱えていた。身体に鱗やひれは無く、腰から下には腕とは少し違うもの、これが足というものなんだろう、が生えている。初めて見るが噂に聞いていた人間だ。悲しそうな顔をしながら目を閉じている。人魚から見ても綺麗な女性だった。死んでしまっているのだろうと思っていたら、彼女の首筋は小さくゆっくりと脈を打っている。人間が、海水に満ちた沈没船の中で生きている? そんなばかな。
「父上に報告しよう。」
これ以上は僕の手に余る事態だ。父上に報告して、彼女を助けなくては。急いで城へ戻り父上に報告する。勝手に沈没船に入った事をこっぴどく叱られたが、彼女は兵士達の手で無事に城へ運ばれた。客間の寝台に横たえられた彼女はやはり眠っている。抱えていた剣は彼女の身体に沿うように置かれていた。僕は彼女が気になって、目が覚めるまで傍にいようと思った。人間が海底で眠っているなどあり得ない、というのもあるけれど、あんな暗く淋しい場所にたった一人で、悲しい顔をして横たわっていた理由を知りたかった。あの船はおそらく身分の高い人間のものだろう。船上でパーティが行われていたのだと思う。船に乗っていた他の人間がいないので分からないけど、一番広い部屋にいた事と、高価そうなドレスを着ている事から、彼女が船の持ち主ではないかと推測している。優雅で楽しいはずの船旅の末路に絶望したのだろうか。誰もいなくなった沈没船に、どうしてあなたはとどまっていたのですか? 美しい人、どうか目を覚まして下さい。あなたの愁いを晴らしたいのです。僕の祈りが届いたのか、彼女を城に保護してから数日。彼女は目を覚ました。悲しみと不安とが入り混じった目で部屋を見回している。抱きかかえていた剣が傍にある事にまず安堵し、そして寝台の傍にいる僕に気が付いた。
「あなたは、誰? ここはどこですか?」
怯えた様子の彼女を安心させるように微笑む。
「ここは海底にある王国の一つ、僕はここの王子でイドゥニルと申します。」
僕の言葉に彼女は悲しそうに呟いた。
「海底王国。そうですか。私は、海に帰って来てしまったのですね。」
命が助かったのにどうしてそんなに悲しい顔をするのだろう。それに、帰って来てしまったとはどういう意味なのだろうか。兵士を呼び彼女の目覚めを父上に報告するよう告げて、彼女を見つめる。
「王国領内に沈んだ船にあなたを見つけて保護しました。あなたは人間のようですが、どうして沈没船の中で生きておられたのですか? 『帰って来てしまった』とは、どういう意味なのでしょう?」
「どうして放っておいてくれなかったのですか。私はあの人と運命を共にすると決めていたのに……!」
両手で顔を覆い泣き出してしまった彼女に、どうしたらいいのか分からなかった。戻ってきた兵士が彼女に「王がお呼びだ」と告げる。黙って頷き寝台を降りた彼女へ手を差し伸べたが、やんわりと拒否された。兵士と共に侍女が新しいドレスを持って来ていて、彼女が着替えるため部屋を出る。父上は僕の事も呼んでいるというので、着換えを済ませた彼女と共に兵士の後をついて行く。謁見の間に通され、彼女は玉座に座る父上の前に跪いた。僕も彼女の後ろで父上に頭を下げる。父上は彼女の無事を喜び、僕達に頭を上げるよう促した。
「私はこの海域を治めるシュドア。まずは同胞たるそなたの無事に安堵しておる。名は何という?」
「私は、ここより遠く離れた王国の末姫、ネプトゥリスと申します。」
彼女の言葉に僕は驚きを隠せなった。彼女が僕らと同じ人魚だって? でも彼女の身体に鱗やひれはどこにも見当たらない。上半身と同じなめらかな肌が全身を覆っている。驚く僕をちらっと見た父上は苦いものでも食べたような顔をすると、ネプトゥリスに視線を戻し優しく問いかけた。
「我が王国領に人間の船が沈んだと聞いた。何ゆえにそなたが人間の船に乗っていたのかを聞かせてほしい。何ゆえ人魚の誇りでもある尾ひれを失ったのかも。」
ネプトゥリスと名乗った彼女は父上を見上げる。
「はい。私は愚かにも人間の男性を恋慕ったのです。あの人も、私を愛して下さいました。そうして、生命の理を覆すという愚を犯したのです。私は魔法使いに頼み、あの人の真実の愛を受け人間になる事ができました。みなに祝福され、あの船で結婚式を挙げていたのです。ところが嵐に遭い、船に乗っていた人達は私以外みな荒れ狂う海に投げ出され、死んでしまいました。沈む船に取り残された私は、船が海底へ沈んでも死にませんでした。これは、神様がお創りになった生命を勝手に作り変え、自然の理に逆らった罰なのでしょう。」
「罰だなんて! 誰かを好きになって結ばれて祝福されたのに、そんなのおかしいよ!」
「これ、口を挟むでない。そなたはこれからどうするつもりか? 悲運を辿った若き同胞を放ってはおけぬ。尾ひれを取り戻し故郷へ帰りたいのであれば協力する。我が王国領で暮らすのもよいだろう。そなたの望む通りにするがよい。」
父上の言葉にネプトゥリスは深々と頭を下げた。
「お心づかい、感謝致します。心の整理ができるまで、しばしお時間を頂けますでしょうか?」
「うむ、道を急かしはせぬ。辛い目に遭ったばかりだ、まずは身体を休め、ゆっくりと考えるがよかろう。イドゥニル、お前には言いたい事が山ほどあるが、今は彼女についててやりなさい。」
「はい、父上。お任せください。」
お説教から逃れられた事にちょっとだけほっとする。部屋に戻り、悲しみに満ちた目で僕を見つめるネプトゥリスに微笑んだ。
「どうか、生き延びた事を罰だなどと仰らないで下さい。」
「だけど、私は多くの優しい人達を死に追いやったのです。あの人は伯爵家次期当主となる方で、ご両親である当主様も奥様も優しくおおらかな方でした。由緒ある家柄で責任ある地位であるにも関わらず、素性を明かした私を『愛する息子が愛した人なら間違いない』と、ためらいなく受け入れて下さいました。お屋敷の方々にも祝福されて、幸せでした。あの時までは。」
ベッドに置かれたままの長剣にそっと触れながら、彼女は俯く。
「船の上で永遠の愛を誓って、皆が祝福してくれました。けれど、生命を歪めた私が神様の前で愛を誓ったりしたから、神様はお怒りになられたのでしょう。あの人もご両親も、お屋敷で働く皆さんも、神父様も楽団の方々も祝福に来て下さったあの人のご友人達も、私のせいで荒れ狂う海に沈んでしまったのです。私一人が生き残ったのは、罰に違いありません。」
声を震わせるネプトゥリスを抱きしめたかった。でもきっと彼女には届かない。
「嵐が起きたのは決してあなたのせいではありません。人間になれたという事は、あなたの愛は真実だった証です。真実の愛を罰するなど誰にもできません。」
「でも私は海に沈んでもこの通り生きています。本当の人間にはなれなかったのです。」
大きく首を振ってネプトゥリスはそれきり口を閉ざしてしまった。彼女の悲しみを払い退け、笑顔にしたかった。幸せになってほしいと思った。だけど、今の彼女の幸せって何だろう。亡くした愛しい人を想い続けて生きる事だろうか。それは悲しくて辛い事だと思うけど、彼女にとってどうなのか、僕には分からない。

 それから僕はネプトゥリスに他愛のない話をたくさんした。城を抜け出して見つけた海賊の宝の事や、僕が幼い頃に兵士達に仕掛けたイタズラの事、笑ってくれそうな話をたくさんした。彼女にとって何が幸せなのかは分からないままだけど、少しでも笑ってほしかった。生きていて良かったと思えるようになってほしかった。ネプトゥリスも少しずつだけど僕に心を開いてくれたように思う。海底には無い地上のきれいなものの話を聞かせてくれた。ある日、僕の尾ひれを見つめて言ってくれた言葉は、僕の心を躍らせる。
「あなたの尾ひれ、とてもきれいね。もっとよく見せて頂けるかしら。お屋敷の庭に咲いていた花とよく似ているわ。」
頷いて僕は大きく尾ひれを揺らめかせた。根元から大きく広がり、海の青に珊瑚の赤を走らせた鮮やかな色合い、幾重にも分かれた先端は波に合わせ揺れ煌めく。僕自身も美しいと思っている自慢の尾ひれだ。
「ありがとうございます。花というのは、地上の生き物なのですか?」
「えぇ。地上の植物で、とてもたくさんの種類があるの。お屋敷の庭にもたくさんの花が咲いていたのよ。お屋敷で働く人が毎日手入れをしていてね。季節ごとに違った花が咲くのよ。私がいた頃は、あなたの尾ひれによく似た色合いの花がたくさん咲いていたの。懐かしいわ……。」
ネプトゥリスの瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。ごめんなさいと言って涙を拭った彼女に胸が痛む。僕に彼女を笑顔にする事は、幸せにする事は、できないのだろうか。夜も眠れずネプトゥリスの事を考え続ける。僕は彼女を好きになっていた。彼女の幸せって何だろう。人間の姿のまま、もういない愛しい人を想い続けて泣く事が、幸せだとはどうしても思えなかった。どうして彼女は人間の姿のまま海底で生き続けているのだろう。悲しみに沈み、彼女の時は止まってしまったのだろうか。ならば彼女を人魚に戻せたら、彼女は未来を見てくれるかもしれない。彼女が頼った魔法使いを探して、人魚に戻す魔法をかけてもらえないか。その魔法使いはどこにいるのだろう。ネプトゥリスに聞いてもきっと教えてくれないだろう。父上なら、何か知っているのではないか。思い立つと居てもたってもいられず父上の部屋に向かった。
「父上、お話があります。」
「あの娘の事か。」
「はい。」
さすが父上。わかってらっしゃる。
「あの娘に惚れたのだな。」
「はい。僕は彼女に幸せでいてほしいんです。悲しみのあまり止まった彼女の時を動かさなくては、彼女は前に進めないのではないかと考えています。」
父上は僕を真っ直ぐに見据える。
「あの娘には心に決めた人がいる。彼女の幸せに、お前の存在は無関係かもしれんぞ。」
僕は背筋を伸ばして父上の視線を受け止めた。
「それでも構いません。彼女がこれからの時を幸せに生きてくれるなら。」
「その言葉に偽りは無いな? 生命を操る魔法を扱える者に心当たりがある。自然の理に手を加える力ゆえに、あらゆる種族から邪術使いと言われ迫害されていた者だ。一筋縄にはいかないだろうが、協力を仰いでみるといい。」
「ありがとうございます。必ず、彼女を幸せにすると誓います。」
すぐさま僕は父上が示した海域へ向かった。一昼夜休まず泳ぎ続ける。人間が暮らす陸地にほど近い浅瀬の洞窟に、魔法使いは住んでいた。高齢の女性のようだが、黒いローブをすっぽりと被っていて、顔以外の肌は見えない。人間なのか人魚なのか、それとも別の種族なのだろうか。薄暗い洞窟の奥に薬草や小瓶の並んだ棚が見える。棚の前で魔法使いはゆっくりと僕を振り返った。
「こんなところへ来客とは珍しいね。何の用だい?」
「僕はここから南の海域にある王国の王子、イドゥニルです。あなたが以前、人間と恋をした人魚に、人間になる魔法をかけたと聞いて来ました。」
「あぁ、あの娘か。元気にしているのか?」
「それが……。」
かいつまんで事情を話すと、魔法使いは表情を曇らせた。
「そうか。やはり私の力は不幸を招くか。」
魔法使いは僕を見据えて首を振った。
「何をしに来たか知らんが、私はもう二度と力を使わないと決めたのだ。悪いが帰ってくれ。」
背を向けた魔法使いの腕を思わず掴む。
「不幸だなんて。彼女は愛した人と結ばれて祝福されて、幸せだったと言っていました!」
「その幸せを維持できず不幸を招いたのなら、この力が招いたも同然だ。」
僕の腕を軽く払い「帰ってくれ」と繰り返す魔法使いに尚も叫ぶ。
「あなたの力は人を幸せにしたんです! その後の事は、ただの偶然に過ぎません!」
「どうしてそう言い切れる? 私があの子に力を貸さなければ、多くの人間が死なずに済んだのだぞ。」
「そんな事はありません。船上で結婚式を挙げるというのは、上流階級の人間ならよくある事だそうです。あなたの力を借りず彼女の恋が破れて、彼女の想い人が他の人と結ばれたとしても、彼らが同じ目に遭わなかったとは言い切れません。」
魔法使いは僕を振り返った。悲しそうな目が潤んで揺れている。
「そうか。私のした事は、私の力は、罪ではないのか?」
「もちろんです! 今彼女は悲しみに沈んで時を止めてしまっています。彼女の時を動かすために、力を貸して下さい!」
魔法使いは静かに頷いて棚から小瓶を一つ取り出した。
「いいだろう。あの子にこの薬を飲ませてやってくれ。だが、これはただの薬草を煎じた薬。そこへ真実の愛が加わって初めて魔法は発動する。」
差し出された小瓶を見つめる。透明な液体が揺れる中に、虹色の光が舞っていた。
「真実の愛?」
「そうだ。あの子を想う者の気持ち、あの子が想う者への気持ち、それぞれが合わさって魔法は効果を発揮する。」
言葉を切って魔法使いは僕を真っ直ぐ見つめた。
「だが、何があの子にとって真実か、幸せかはあの子にしかわからん。愛する者を死の国へ追うかもしれんし、人魚に戻っても亡くした者を愛し続けるかもしれん。それでもいいのか?」
「構いません。悲しみの底で時を止めている彼女を救いたいんです。」
「わかった。あの子に幸せであれと伝えてくれ。」
「はい、ありがとうございます。」
小瓶を受け取り急いで城へ戻る。休む間もなく父上に帰還を伝えると、ネプトゥリスのところへ向かった。小瓶を差し出し、驚く彼女の手を取る。
「ネプトゥリス、僕も魔法使いから魔法の薬をもらってきました。悲しみのあまり止まってしまったあなたの時間を動かして、未来を見てほしいんです。あなたの幸せを、多くの者が願っています。」
ネプトゥリスは戸惑いながら僕を見つめ返した。
「未来、ですか。でも私は生命の理を歪めた罪人、未来を見る資格などありません。まして、幸せになどと。」
「あなたは罪人なんかじゃありません!」
思わず叫んでネプトゥリスの手を強く握った。
「あなたの愛は真実でした。だから生命の理を越える奇跡が起きたんです。真実の愛が奇跡を起こしたのなら、今また奇跡を起こせるかもしれない。僕の想いも真実だから。僕を愛してほしいなんて言えません。ただ、僕もあなたを愛していると、あなたを大切に想う人々の片隅に、僕もいるのだと知っていてほしい、それだけです。」
「あなたは、優しいのですね。」
涙に潤んだ瞳でネプトゥリスは僕を見つめ、差し出した小瓶をそっと受け取った。ふたを開け口をつける。
「私の幸せを、見守ってくれますか?」
僕が頷くのを見て微かに微笑み、彼女はゆっくりと瓶の中身を飲み干した。
「人間としてあの人と共に死ぬ事は出来なかった。どれ程の奇跡を起こしても、あの人のいない世界では生きている意味はありません。人魚に戻って海の泡と消えたなら、あの人がいる天へ行けるでしょう。死が私達を分かとうとも、真実の愛が私達をもう一度結びつけてくれるでしょう。」
ネプトゥリスは微笑んで僕を見つめた。彼女の身体はゆらりと浮かび虹色の光に包まれる。
「ありがとう、優しい王子様。」
虹色の光をまといながら泡となって、彼女は海の上へゆっくりと消えていく。僕はあなたが綺麗だと言ってくれた尾ひれを目いっぱい広げ、弔いの舞いを踊る。僕の舞は見えますか。想いは届いていますか。地上の花がどんなものか知らないし、それがあなたに愛しい人を連想させるものだったとしても、綺麗だといってくれたのが、嬉しかったんだ。

――僕は地上に咲くという花のように舞い、あなたを送る――


                      END


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