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『吸血鬼伯爵の憂鬱』


 山の中腹にある古城から眼下の針葉樹林を見下ろし、吸血鬼伯爵ハミルトンは溜め息をもらす。
「嘆かわしい事だ。美しかった景色は失われてしまった。」
かつてこの一帯は深い針葉樹林に包まれ、人間の貴族の別荘が点在する他は太古からの自然が残る美しい場所であった。だがここ十数年で、針葉樹はことごとく伐採され無粋なレジャー施設が建ち並び、美しかった頃の面影は微塵も無い。別荘を所有し避暑を楽しんでいた貴族達は時代の流れと共に没落していったのか、ここを訪れる人々も上流階級の人間から観光客へと変わっていた。ハミルトンは再び溜め息をつく。
「清楚な貴族の令嬢達が訪れていた頃が懐かしい。品の無い人間の血など口に合わん。」
かつては避暑に訪れていた若い貴族の令嬢達から血を得ていたが、もう何年もハミルトンの好む清楚で気品ある令嬢になど出会っていない。品の無い人間の血など吸えぬと、配下の蝙蝠や森の動物の血で飢えを凌いでいる。だが、飢えに耐えかねて数年前に一度だけ、道に迷い城に近付いてきた少女から吸血した事があった。露出度の高い派手な色の服を着て甲高い声で笑う少女に辟易し、吸血した事を後悔しながら早々に記憶を消し帰らせたのを覚えている。やはり違う、とハミルトンは嘆いた。
彼の仲間達は長く暮らしたこの地を捨て、町で人間に紛れて暮らす者もいた。血を得るのは楽だが、正体がばれぬよう常に気を張っていなくてはならず、心休まる時は無いと聞く。そんな暮らしはごめんだとハミルトンは首を振った。人間に紛れて暮らすなど彼の美学に反する。だが、このままでは飢え死にしてしまうかもしれない。生きるためには吸血鬼の誇りを捨て、低俗な人間の血を得るしかないのだろうか。吸血鬼には生きにくい世界になったものだと嘆く。どうしたものかとこの日何度目かの溜め息をついた時、城の呼び鈴が鳴り響いた。こんな昼間に一体誰だとハミルトンは訝しげに首を上げる。玄関の扉を開け、訪れた人物の姿を見たハミルトンは我が目を疑った。そこに立っていたのは、数年前に吸血した少女。忘れもしない派手な色のシャツにミニスカートを履いて立っている彼女の顔立ちは、あれから何年も経つというのにあの時と全く変わらない。
……何故だ? この娘の記憶は消したはずだ。それにあれから何年も経つのに何故あの時の容姿のままなのだ?……
絶句するハミルトンを前に少女は満面の笑みを浮かべた。
「あたしを覚えてる? あなたが血に飢えてるだろうと思って助けに来たの。血が欲しいんでしょ? あたしのをあげる!」
「何だって……?」
混乱するハミルトンに少女は自分の口元を指差して答える。
「あたしあの時にあなたの仲間になったみたいなんだぁ。ほら。」
無邪気に笑う少女の口には確かに小さな牙が生えていた。硬直しているハミルトンに少女は言葉を続ける。
「あたしあの時以来、歳取らなくなっちゃったみたいだし、どんな大怪我してもすぐ治る身体になっちゃったんだよねぇ。それでみんなに気味悪がられちゃってさ、居場所無いんだ。責任とってくれるよねぇ?」
少女の言葉にハミルトンは青ざめた。この少女を吸血鬼化させるほどの量の血を吸った覚えはなかったが、飢えのあまりに見境を無くしてしまっていたのだろうか。ハミルトンは眩暈を覚えた。
……そんなばかな……
呆然とするハミルトンを見つめ少女は満足げに頷く。
「良かったぁ、カッコイイ人で。ずっと一緒にいるんだからやっぱ綺麗な人の方がいいよねぇ。あたしも容姿には自信あるし、歳も取らないから永遠に若くて可愛いまま!」
「勝手に決めるな! ここは私の城だ!」
我に返って叫んだハミルトンを少女はじっと見つめる。その瞳にみるみる大粒の涙が浮かんだ。
「そんな、ひどいよ。こんな身体になっちゃってパパとママにも気味悪がられて追い出されたのに……。ここしか、あなたのとこしか頼れる所無いのに!」
両手に顔を埋め大声で泣き出した少女にハミルトンはうろたえる。
「あ……、すまない。私が悪かった。泣くな。」
「じゃあ、ここにいてもいいのね!」
間髪入れずに言い放ち少女はけろりとして笑みを浮かべる。その頬に涙の跡は無い。
……うそ泣き! 私ともあろう者が騙されるとは……
がっくりと肩を落とすハミルトンに少女はにっこりと笑ってみせた。
「あ、ばれた? でも追い出されたってのはホントだよぉ。説教ばっかでうるさくて窮屈な家だったからちょうどいいけどさ。」
床に埋もれそうな程にがっくりと沈みうずくまるハミルトンに少女は笑顔で言葉を続ける。
「荷物はそんなに多くないし、部屋はどこか適当に使わせてもらうねぇ。」
うな垂れるハミルトンをよそに、手にしたキャリーバッグを引き少女は玄関からロビーへ進む。
「そうそう、あたしジェシーって言うの。よろしくね! あなたは?」
どんよりと沈んだ表情でハミルトンは重い口を辛うじて開く。
「……下賎な人間に名乗る名など無い。」
「え〜? あたしもう人間じゃないんだけどなぁ。」
ハミルトンが何か言い返そうとした時、ジェシーの甲高い歓声が響く。
「うわぁ、広くて素敵なお城! 気に入ったわ! ねぇねぇ、おじさんの部屋はどこ?」
「おじさんでは無い!」
「そこは反応早いのね。何百年も生きてるくせにぃ。」
ハミルトンの答えを待たずジェシーはまたしても歓声を上げる。
「わぁ、やっぱり地下室あるのね! この下に寝床の棺桶があるの?」
「その下は先祖代々の墓場だ。入ってはいかん。」
「えぇ〜、つまんないの。あ! お庭も広いねぇ、パパ。」
「私はお前のパパでは無い!」
「じゃあ、ダーリン?」
全身総毛立ちながらハミルトンは激しく首を振る。
「私とお前は断じてそんな関係ではない!」
「あ、あたしの事子どもだと思ってるでしょ。脱いだらスタイル抜群なの知ってるくせにぃ。」
「そんなものは知らん。それに私はお前のような騒がしい娘は好まん。」
「じゃあ、好みの女に育ててみる?」
再びハミルトンはがっくりと肩を落とす。今までの静かで平穏な生活が失われていく音が聞こえた気がした。
……あぁ、私の静かな生活が……飢えるよりましと考えるべきか、飢えた方がましなのか……
「これは夢だ、悪い夢を見ているのだ……。」
「何一人でぶつぶつ言ってるの、ダーリンったらぁ!」
「その呼び方は止めろと言っている!」
「じゃあ名前教えて?」
ハミルトンは深い溜め息をついた。
「……ハミルトン。」
「やっと名前教えてくれたぁ! よろしくね、ハミルトン。あたしの事はジェシーって呼んでね!」
満面の笑みではしゃぐジェシーを見つめ、自分の名前を知った事の何がそんなに嬉しいのかとハミルトンは首を傾げる。中庭に面した日当たりの良い部屋に荷物を置き「この部屋に決めた!」とはしゃぐジェシーに、何を言っても無駄かとハミルトンは溜め息をついた。
「綺麗に使えよ。」
「もちろんよ!」
心底から嬉しそうな笑みを浮かべたジェシーに、一瞬「この娘と暮らすのも悪くないか。」という思いがよぎり、ハミルトンは慌てて首を振った。
……私は孤高の吸血鬼伯爵、私は……
ハミルトンの思考を遮りジェシーの声が響く。
「ねぇ、ハミルトン。お風呂はどこ?」
「そこの廊下の突き当たりだ。」
「一緒に入る?」
「入るわけ無かろう!」
「照れなくていいのにぃ。」
きゃっきゃと笑うジェシーにハミルトンは盛大な溜め息をついた。
……私の好みの娘はもっとこうしとやかで清楚で……あぁ、何故こんな事に……
嘆くハミルトンの背後で上機嫌に鼻歌を歌うジェシーの声が聞こえていた。


                    END

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