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『約束の花』

1945年、夏――

 出撃を前に一時の帰宅を許された宗吉は、縁側で暮れてゆく庭を眺めていた。出撃すれば、もう二度とこの庭を眺める事も出来ない。育った家や庭を家族の情景と共に目に焼き付けようと、宗吉は口を真一文字に結び無心で庭を見据えていた。
「宗吉さん? 帰っていらしたのですね。」
遠慮がちにかけられた声にふと視線を上げると、隣家との境の垣根から幼馴染みの小夜が顔をのぞかせていた。頷いて宗吉は立ち上がる。3歳年下の小夜はずっと兄妹同然に育ってきた仲だった。幼い頃は互いに「小夜ちゃん」「宗兄ちゃん」と呼び合っていたが、久しぶりに会った小夜は、もう「ちゃん」づけで呼ぶのをためらわれるほど大人びた顔つきになっていた。垣根の傍に立ち宗吉は言葉を選びながら口を開く。
「出撃を控えて、一時の帰宅を許されました。父と母にこれまでの感謝を告げに来たのです。」
「そんな、今生の別れのような事を……。」
悲しげに呟く小夜に宗吉は小さく首を振る。
「そのくらいの覚悟でいなくてはならない、という事です。」
宗吉が属する部隊は特攻隊の一つであった。生還の可能性は限りなく低い。元より、戦場から生きて帰ってくる事は恥とされていた時代である。だが、目の前で泣き出しそうな顔をしている幼馴染みを前に、そんな事は言えなかった。代わりに誇らしげな笑みを浮かべる。
「私は国のため、ひいては大切な者達を守るために命をかけるのです。私の命で皆を守る事ができる、これほど光栄な事はありません。」
小夜は悲しげな顔のまま宗吉を見上げる。
「宗吉さん。どうか、生きて帰ってきて下さい。」
その言葉に、宗吉は自分の口元に指を立て首を振った。
「そのような事を誰かに聞きとがめられたら、非国民と誹りを受けてしまいますよ。」
「でも!」
「私はこの国を守りたい。父や母を、そして小夜さん、あなたを敵の手から守りたいのです。」
思いがけない言葉に小夜は目を見開いた。その頬が、夕空にも負けない程に赤く染まる。頬を染めた小夜を見据え、宗吉も同じくらいに頬を赤くしながら言葉を続けた。
「敵兵は鬼畜な連中で女子供にも容赦ないと聞きます。国が戦争に敗れれば、奴らに何をされるかわかりません。あなたをそんな辛い目に遭わせたくはないのです。そのためになら、この命を捧げる事など何でもない事です。」
宗吉の真摯な眼差しを受け、小夜の赤く染まった頬を涙が伝う。いつからか、「隣のお兄ちゃん」は「初恋の人」になっていた。自分を守りたいと言ってくれた宗吉の言葉が嬉しくもあり、だが同時にそれは永遠の別れに繋がるのだというのが宗吉の決意に満ちた眼差しからわかる。何も言えず、涙を見せまいと目を逸らす小夜の目に見慣れた花が映った。毎年この時期になると小夜の家の庭に咲く花だった。手を伸ばしそれをそっと摘み取ると小夜は精一杯に微笑んだ。
「宗吉さん。小夜はあなたをお慕いしております。」
摘み取った花を宗吉の服の胸ポケットに挿す。
「この花は毎年庭に咲くのですが、毎年見ているにも関わらず花の名前を知らないのです。」
宗吉の服に挿した花に手を添えながら、小夜は宗吉を見上げる。
「次にお会いできる時までに、この花の名前を調べておきます。ですから、どうか……。」
それ以上言葉にならず、小夜は肩を震わせ俯いた。泣いてはいけないと思うほど嗚咽が漏れるのを止められない。宗吉は小夜がくれた花にそっと触れ、幼い頃にしていたように小夜の頭を撫でた。
「では、約束です。次に会えた時に、この花の名を聞かせて下さい。」
「はい……!」


 宗吉の属する部隊が敵艦に突撃を仕掛け全滅したという知らせを小夜が聞いたのは、敗戦が告げられて間もなくの事だった。
それから65年の歳月が流れる――


「おばぁちゃ〜ん!」
公園のベンチで物思いに耽っていた小夜は孫の呼ぶ幼い声にふと顔を上げる。無邪気な笑い声を上げながら駆け寄ってくる孫の翔太に小夜は微笑み手を振った。翔太は両手に持った何かを落とさないよう気を使いながら嬉しそうに駆けて来る。小夜の傍まで来た翔太は握った手をそっと開いた。
「おばあちゃんにこれあげる!」
小さな掌から現れたものは、立葵の花だった。淡い紅色をした花は、小夜が子どもの頃住んでいた庭に毎年咲いていた、小夜の好きな花だ。あの日、初恋の人に捧げた思い出の花。
「おばあちゃん、このお花好きでしょう?」
小夜は驚いて翔太を見つめる。この子にそう話した事はあったかしらと記憶を辿る小夜の目を翔太が覗き込んだ。
「あれ? 違った?」
悲しそうな目になった翔太に小夜は慌てて微笑む。
「ううん、大好きなお花よ。ありがとうね。」
「やっぱりそうだ! おばあちゃん、このお花見かけるとじぃ〜っと見てるもんね。」
得意げに笑う翔太は小夜の手に花を握らせる。
「おばあちゃん、このお花、何ていうの?」
思わず滲んだ涙をごまかすように満面の笑みを浮かべ、小夜は翔太を見つめ返した。
「このお花はね、タチアオイっていうのよ。」
あの日の宗吉の言葉と頭を撫でてくれた優しい手の感触が蘇る。こらえ切れず零れ落ちた涙に、翔太は心配そうに小夜を見つめた。
「おばあちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
涙を拭って小夜は翔太を見つめ微笑む。
「このお花にはね、とっても大切な想い出があるの。」
興味津々といった顔で隣に座った翔太に、小夜はゆっくりと語り出す。自分達を守るためにと、戦場に散華した大切な人。忘れてはいけない、繰り返してはいけない日々の事を――


夏の午後の穏やかな風が、公園に咲いた立葵を静かに揺らしていた。


                  END


※タチアオイの花言葉「豊かな実り・熱烈な恋・平安・高貴・大志」

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