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『僕の世界に降る雪は』


 街を白く雪が包んでいく。手を繋いだ幼い娘は嬉しそうにはしゃいでいた。
「パパ、遊んできていい?」
「あぁ、足元に気をつけるんだよ。」
歓声を上げて走り出す里奈の背を見つめ祐介は微笑んだ。雪に包まれた公園、はしゃぐ里奈を抱き止める妻の優子。平凡な、でも幸福な光景に祐介は嗚咽を漏らした。近い将来に現実になるはずだったこの光景は、バーチャルリアリティによって構築された仮想現実だ。現実の優子と里奈は空の上に行ってしまった。家族で出掛けた先で遭った交通事故で祐介だけが生き残り、失意の底にいる彼を見かねた友人が研究中のバーチャルリアリティ体験の被験者になってほしいと誘ったのである。友人の研究室へ行き簡単な健康診断を受けた後、優子と里奈に自分のデータ、見たい場所の風景などのデータが打ち込まれる。眠りに落ちるような感覚の後、見慣れた近所の公園が広がっていた。繋いだ里奈の手は柔らかく温かい。優子の笑い声がはっきりと耳に届く。吐く息は白く触れる雪は冷たい。これは本当に架空の世界なのか。ここが本当の現実ではないのか。事故なんて悪い夢だったんだ。
「パパも遊ぼうよ!」
里奈の声に応え走り出す。静かに降り積もる雪の中、優子と里奈以外に誰もいない公園。親子三人だけの世界は静謐で美しい。もう何者にもこの幸福を奪えない。駆け寄ってきた里奈を抱き締める。温かく柔らかい感触が祐介を包んだ。愛しい妻と娘がいる、これが私の現実だと祐介は強く自分に言い聞かせる。悪夢は忘れて二人の為に生きよう、そう決意した祐介の頬を里奈の手がそっと撫でた。
「パパ、泣いてるの? どこか痛いの?」
里奈の手をそっと握り返す。
「大丈夫だよ、パパはママと里奈がいれば何でもできる。」
心配そうに優子は祐介の顔を覗き込む。
「あなた、顔色が良くないわ。」
「大丈夫だよ、ほら。」
里奈を抱き上げて祐介は立ち上がる。僅かに足元がふらついた。里奈も心配そうに祐介を見つめる。
「パパ、あんまり大丈夫そうじゃないよ。」
祐介の腕から里奈を下ろし優子は真っ直ぐに祐介を見据えた。
「ここはただの仮想現実。あなたはここでは生きられないし、私達も長くここにはいられないわ。」
「そんな事はない! ここは、君達は、現実に存在する! ほら、君の手は温かいし雪が降ってこんなに寒い、これが現実でないなら何だと言うんだ!」
「これはあなたの願望と電子が作り上げた夢、あなたは現実に戻らなきゃだめよ。あなたには帰る場所がある。」
「嫌だ、君達がいない世界など何の意味も無い! 君達がいるここが僕の現実、僕が生きるべき世界なんだ!」
優子は一瞬困ったような表情を見せた後、思い切って祐介の頬を引っ叩いた。
「愛する人の死を願う人がどこにいると思ってるの。」
その言葉に里奈が泣きそうな声を上げる。
「パパ、死んじゃうの? そんなのいやだよ!」
これでもまだわからないのかと言いたげに優子は静かに祐介を見つめる。祐介は叩かれた頬を呆然とした表情でさすった。微かな痛みが残る。
「どうして、君達だけが……。どうして僕だけが……。」
それはわからないと首を振り優子は祐介の頬に手を添えた。
「一人にさせてごめんなさい。でもここで夢を見続ける事の方が無意味よ。」
「パパずっと泣いてるでしょ。パパが泣いてると悲しいよ。」
涙を拭い祐介は照れ臭そうに笑う。
「見てたのか?」
当たり前でしょと頷く二人に祐介は参ったなと呟く。顔を上げると雪は規則正しく降り続いていて、走り回っていたはずの里奈の足跡は一つも無かった。公園の向こうには真っ白で何も無い。こんな世界に二人を繋ぎとめてはいけない。二人の手を握り祐介は微笑んだ。
「行かなきゃね。」
安心したように微笑む二人の姿が雪景色に溶けるように白く消えていく。ありがとう、という声が聞こえた気がする。同時に全ての景色がゆっくりと消えていった。
「気が付いたか?」
目を開けると友人が心配そうに見下ろしていた。時間になってもログアウトが実行されないので心配したと言う。凝り固まった身体をほぐしながら祐介は聞いた。
「データの中の人物は自分で考えて行動するのか?」
怪訝な顔で彼は祐介を見つめる。
「まさか。データ上の人物はプログラム通りの行動を取るだけだ。サーバー内で自由に動けるのはログインしてる奴だけだぜ。」
「そうか……。」
あれはサーバーにログインしている間に眠ってしまって見た夢だったのか。それとも。
「憑き物が落ちたような顔してる。呼んで良かったのか迷ったけど、良かったみたいだな。」
「あぁ、ありがとう。」
感謝を告げて外へ出るといつの間にか雪が降っていた。傘をさしゆっくりと歩き出す。僕の世界に降る雪は、僕の足跡を確かに残し強弱を変えながら不規則に降り積もる。


                  END


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