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『雪に散る華』



 雪が降るといつも思い出す光景があります。それは私と彼女との恋の記憶であり、私の罪の記録でもあるのです。


 あれからもうすぐ10年が経とうとしています。
当時私は、藤堂家という華族の家に住み込みの使用人として仕えておりました。まだ身分というものが重く圧し掛かっていた時代の事です。藤堂家は古くから続く由緒ある家柄であり、私の家は代々藤堂家に仕えてきたのです。私が仕えていた旦那様は藤堂正助様という方で、政財界に広く顔の利く方でございました。曲がった事が嫌いな方で、ご自身にも他人にも厳しい方でありました。そして旦那様には一人のお嬢様がいらっしゃいました。沙織様とおっしゃり、遅くに恵まれた子だという事もあって旦那様はそれこそ目の中に入れても痛くないといったほど可愛がっておいででした。沙織様は生まれつき難しい病を抱えておられ、学校に通う事も叶わず、数名の家庭教師に勉強を教わっておいででした。そういうご自分の運命を嘆かれる事なく、誰に対しても笑顔を絶やさず幼いながらも凛とした表情をしていらっしゃり、聡明で心優しく美しいお嬢様でした。
もうお気付きでしょうか。私は沙織お嬢様に恋をしたのです。住む世界が違う、畏れ多い事だとわかっていながら、自分の気持ちを止める事が出来なかったのです。そして、お屋敷の中で一番歳の近い私を沙織様は慕って下さり、私の思い上がりでなければ、沙織様も私に恋心を抱いて下さったのだと思っております。
しかし、この恋はやはり許されざるものだったのです。あの時私は18歳、沙織様は13歳になられたばかりでございました。ちょうど今と同じような、静かに雪が降りしきる日の事でした。
沙織様は高熱を出されて1週間程寝込んでしまわれました。ようやく熱が下がりお屋敷の中を歩き回れる程に回復された頃、私に沙織様はこうおっしゃったのです。
「一郎、私をどこか遠くへ連れ出してくれませんか。」
私は驚いて沙織様を見つめ、ゆっくりと首を振りました。
「何をおっしゃいますか。遠出などなさったら沙織様のご病気は悪くなってしまいます。どうかご辛抱下さいませ。」
しかし沙織様は私を見据えこう続けられたのです。
「ここにいても私の病気は良くはならない。私はお医者様とお父様が話しているのを聞いたのです。私の命はもってあと3ヶ月だと。だから残りの人生を、したい事をして生きると決めたのです。」
確かに沙織様が高熱を出された時、藤堂家の主治医の先生は「お嬢様の命はもってあと3ヶ月です。」と旦那様に告げられました。しかし旦那様も奥様も、全財産を投げ打ってでも娘を救うとおっしゃっていました。沙織様にも「必ず治してやるからそれまで辛抱するのだよ。」といつも話しておられました。私がそう言うと沙織様は私の手を掴んで叫ばれたのです。
「一体いつまで辛抱すればよいのです! 13年間ずっと私は辛抱しているのです。もう我慢なりません!」
そして淋しげに俯きこうおっしゃいました。
「お医者様がそうおっしゃったのなら間違いないのでしょう。いくらお父様がお金を沢山持っていても、お金ではどうにもならない事もあるのです。それにお父様もお母様もいつも忙しくて私の側にいて下さらない。いつも側にいて私の事を見ていてくれたのは一郎、あなただけです。」
その時、いつも笑顔を絶やさなかった沙織様は本当はお辛かったのだと悟りました。まだ13歳だというのに、その人生の大半をベッドの上で過ごされお屋敷からほとんど出た事のない沙織様。同年代のご友人もいらっしゃらず、辛くないはずがありません。どんな思いでいつも微笑んでいらっしゃったのでしょう。病気は治ると信じ、泣き言を一つも言われなかった沙織様。それも、主治医の先生の言葉で打ち砕かれてしまったのでしょう。沙織様は真っ直ぐに私を見上げられました。その時の真摯で悲しげな沙織様の眼差しは忘れる事が出来ません。
「こんな事を頼めるのは一郎しかいないのです。私の望む場所へ連れて行ってほしい。残された時間を、どこか遠くで一郎と2人だけで過ごしたいのです。」
その言葉に私は己の耳を疑いました。沙織様が私と2人だけで過ごしたいと? なんと畏れ多い聞き違いをしているのでしょう。言葉にならない私に沙織様はじれったげにおっしゃいました。
「もう、鈍い人ですね! 私は私に残された時間を一郎と過ごすと決めたのです!」
そして頬を真っ赤に染めながら私に指を突き付けられました。
「これは藤堂家の娘からの命令です。よいですね。」
「畏まりました。仰せのままに、どこへでもお連れ致しましょう。」
主治医の先生は「少しでもお嬢様を生きながらえさせたいなら絶対安静にさせるべきです。」と言っておられました。沙織様に遠出をさせる事は沙織様の寿命を縮める事になるのです。沙織様のお身体の事を思えば外へ連れ出すなどとんでもない事で、どうにか納得して頂くように言葉を尽くすという道もあったでしょう。しかし私は、沙織様のお言葉に逆らう事が出来ませんでした。お屋敷に留めてしまっては、沙織様のお心が壊れてしまいそうだったのです。沙織様のお覚悟を前に私も心を決めました。沙織様を外出させたと旦那様に知れたら私はただでは済まないでしょう。それでも私は沙織様の望みを叶えて差し上げたかったのです。沙織様の願いが私の全てでした。そうして私は沙織様をお連れしてお屋敷を出ました。長いようで短い、そしてあまりにも幼く純粋な逃避行でした。
沙織様は白いコートを羽織り、赤い鞄に少しの荷物を持っておいででした。手鏡にハンカチーフ、おしろいに口紅、お財布、小さな皮表紙の日記帳等が入っておりました。私はといえば、その時手元にあったお金を全て持ってまいりました。この時間の中で沙織様に不自由な思いをさせたくなかったのです。沙織様は「まずは街へ出てお買い物をしたい。」とおっしゃいました。私達は辻馬車に乗り込み街に向かいました。初めて乗る辻馬車に沙織様ははしゃいでおられました。街に着くと沙織様は沢山のショウウィンドウに惹きつけられ目を輝かせていらっしゃいました。一軒一軒のお店をゆっくりと見て回られ、白い清楚なワンピースに目を止められたのです。
「ねぇ、一郎。これ私に似合うかな?」
「えぇ。沙織様ならどんなお洋服でもお似合いになりますよ。」
私の言葉に沙織様は少し淋しげな顔をされました。
「一郎、今は私を『沙織』と呼んで欲しいです。」
私は困りました。そんな畏れ多い事出来るはずがありません。しかし私がそう言うと沙織様は腰に手をあて私を見上げられました。
「私が良いと言うのだから良いのです! 敬語も使っては駄目です! 本当に一郎は鈍い人ですね。」
そこがいいのだけれど、と呟かれた沙織様は頬を真っ赤に染めておられました。沙織様の真剣な想いに触れた私は、私なんかを想って下さる事を光栄に思い、沙織様を愛おしく想う気持ちでいっぱいになりました。そして私は沙織様がお気に召した服を買うため財布を出しました。「自分で買う。」とおっしゃる沙織様の口元に私は手をあてました。先程言われた言葉を思い出し、緊張しながら口を開きました。
「沙織、こういう時は男を立てるものだよ。」
「うん!」
その時の沙織様の嬉しそうな表情は私の心をさらに愛しさで埋め尽くしたのです。早速そのワンピースに沙織様は身を包まれました。沙織様の凛とした美しいお顔立ちに白いワンピースはとてもよく似合っておりました。沙織様はワンピースのお礼にと、私に青いハンカチーフを贈って下さいました。私の生涯の宝物です。そして街を歩き回り日が暮れ始める頃、沙織様は私の手を取り泣きそうな顔をなさっておっしゃるのです。
「このまま私をどこか遠くへ連れて行って。屋敷に帰ったらまた私はベッドの上。薬だの点滴だのもう嫌なのです。私は死ぬのなら一郎の側で最期の時を迎えたいの。一郎に迷惑をかける事になるのはわかっています。でもどうか、私を屋敷に連れ戻さないで。私の最初で最後の我が儘を聞いてほしいの。」
私の心はすでに決まっておりました。沙織様のお心を救うのは薬や点滴ではないのだと。私は頷いて沙織様の手を取り駅へ向かいました。列車に乗り込むと沙織様はお疲れになったのか、私の肩に身を委ね静かに窓の外を見ておられました。外はまだ雪がちらついていました。寒くないかとお尋ねした私に沙織様は微笑まれました。
「一郎がいるから、平気。」
何とも幸福な時間が過ぎていきました。このまま時が止まればいいのにと何度願った事でしょう。私達は街を離れ列車を乗り継ぎ、民宿を転々としながら旅を続けました。お給金を貯めてあったので沙織様に不自由な思いをさせる事はありませんでした。沙織様を捕らえようとする死の影から少しでも遠ざかりたくて、私達は現実からの逃避行を続けました。
しかし幸福な時は長くは続かず、残酷な現実はついに沙織様を捕らえたのです。雪の降りしきる、静かな街に辿り着いた時の事でした。沙織様は真っ青な顔をされ私にしがみつかれたのです。
「一郎、一郎! どこにいるの?」
私ははっとして沙織様の手を握り返しました。沙織様の目つきから、目が見えていらっしゃらない事に気付いたのです。
「私はここにいるよ、沙織。大丈夫だ。」
「一郎……そこに、いるのね?」
沙織様は真っ青な顔で苦しげに咳き込み私の手を強く握り返されました。その直後、沙織様の口から真っ赤な血が零れたのです。何度も何度も咳き込まれる沙織様。その度に血が雪の上に零れていきます。私は蒼白になって叫びました。
「沙織! 死なないでくれ! 沙織っ!」
「い……ちろ……う……! 死にたく……ない! 死にたく、ないよぉ!」
私達の願いも虚しく、沙織様のお身体からぬくもりが消えていきます。沙織様の命という華が、雪の上に赤く次々と散っていくのを前に、私はなす術も無く沙織様を抱き寄せる事しか出来ませんでした。
「いち……ろう。好きよ。私……幸せだわ。ごめん……ね。」
沙織様は心から幸せそうに微笑まれました。その言葉を最後に、沙織様の目から光が消えてしまいました。沙織様のお身体はがくりと力を無くし、私の腕の中で沙織様は天に召されてしまったのです。
「沙織っ! 沙織ーっ!!」
その後、私はどうしていたのかよく覚えていません。気が付いたら沙織様の亡骸とともにその街の病院におりました。病院から連絡が行ったのでしょう、旦那様と奥様が運転手を伴っておいでになったのです。旦那様は私を見るや否や目を見開き激昂されました。
「貴様! 何て事をしてくれたのだ!」
奥様や運転手が止めるのも聞かず、旦那様は私を力の限りに殴られました。旦那様のお怒りは至極当然のもので、私は黙ってそれを受け止めておりました。ご自身の拳に血が滲むのも構わず私を幾度も殴られると、旦那様は肩で息をしながら私を睨み付けられました。
「今すぐ私の前から消え失せろ。今後一切藤堂家の敷地を踏む事を許さん。藤堂の名を口にする事も許さん。」
「……申し訳ありません。」
私が沙織様の為に出来る事はもうありませんでした。私は深々と頭を下げ病室を後にしました。雪がまだ降り積もり、街は真っ白に染まっていました。


 あれからもうすぐ10年。分不相応な想いの果てに、ご病気の沙織様を連れ出した私の行為は罪深い事。あれは許されざる恋でした。ただ、沙織様にとっては正しい事だったのです。当時も今も、私にとってはそれが全てなのです。雪の上に散った沙織様のお命、幸せそうな最期の微笑みを私は生涯忘れる事はありません。この記憶と共に私は沙織様の分まで一人で生きて行くと決めたのです。
私は青いハンカチーフを握り締め、降りしきる雪をずっと眺め続けていました。


                             END
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