短編の間へ『Crossroad』「2.あなたが泣く事はない」へ

『Crossroad』3.今を生きる僕を


 帰宅しても明かりのついていない部屋に、修司は未だに慣れる事が出来ない。暗い部屋は結衣の不在を、この世のどこにもいない事を強調する。深い溜息をついて修司は照明のスイッチを押した。部屋が明るくなっても、修司の心は晴れない。スーツの上着を脱ぐと、修司は机に置いた結衣の写真の前に座った。同棲を始めた頃に撮った写真だ。写真立ての中で結衣は、屈託の無い笑顔を浮かべこちらを見つめている。この笑顔を曇らせ永久に損なってしまったのは、自分の態度と言葉のせいなのだと、修司は自分を責め続けていた。同僚達に叱られても、修司を苛む悔恨の想いは消えなかった。
「結衣……。」
もう数え切れないほど繰り返した呼びかけ。返事などあるはずがないとわかっていても、震える声で修司は愛しい名を呼び続ける。忘れようにも忘れられない。寄せて行く時は修司の心を癒す事は無く、愛しさと淋しさと後悔をよりいっそう膨らませていった。
写真立ての横には紺色の小箱が置かれている。銀の指輪が納められた箱。結衣の誕生日が来たら、プロポーズするつもりで秘かに用意していたものだった。修司はそっと箱を手にとり指輪を見つめる。明日が、結衣の誕生日なのに。主のいない指輪は寂しげに部屋の明かりを反射した。どれくらいの間そうして座り込んでいたのか、雷鳴が近くに聞こえ修司は顔を上げた。いつの間にか強い雨が降り出し、稲光が暗い空を一瞬白く照らし出している。指輪を元の位置に戻し修司は窓際に立った。そういえば、結衣は雷が苦手だったな。雷が鳴ると怯えた顔で窓から離れた所に座り込んでいたっけ。カーテンを閉めようと手を伸ばすと稲光が部屋を白く照らし、直後に一際大きな雷鳴が響き部屋がふっと暗くなった。近くに落ちたらしい。懐中電灯はどこにあっただろう、すぐに復旧するだろうか、そんな事を思いながらカーテンを閉め部屋を振り返った修司は仰天した。いつかと同じように、結衣が膝を抱えて薄暗い部屋の隅に座り込んでいたからだった。
「結衣!?」
ついに幻覚まで見るようになってしまったのか。自分の目と頭を疑いながら、修司はその場に立ち尽くしていた。結衣ははっとして顔を上げ修司を見つめる。
「修司くん……。私が見えるの?」
混乱したまま修司は結衣を見つめ返した。
「結衣、本当に結衣なのか?」
泣きながら微笑み立ち上がった結衣に修司は駆け寄った。だが、その身体を抱きしめようと伸ばした修司の腕は虚しく宙を掻く。自分の身体を通り抜けた修司の腕に結衣は悲しげに微笑んだ。修司は呆然と腕を見つめ結衣の顔へ視線を移す。
「結衣、君……幽霊、なのか?」
修司の困惑した言葉に結衣は静かに頷いた。
「私、あれからずっとここにいたんだよ。ずっと修司くんを見てた。修司くん、ずっと私に謝ってたね。」
涙を零しながら微笑む結衣の言葉に、修司は跪き床に額が付くほどに頭を下げた。
「結衣、本当にごめん! 僕のせいで、君は……!」
「修司くん、もう自分を責めないで。」
結衣の言葉に修司は顔を上げる。視線の先の結衣はぽろぽろと涙を零しながらも微笑んでいた。
「そんなに泣かないで。私は大丈夫だから。」
「どうして僕を責めないんだ? 君に酷い事ばかりしていたのに、どうしてそんな風に笑えるんだよ!」
泣きながら叫ぶ修司の言葉に結衣は静かに首を振った。
「修司くんはもう充分過ぎるくらい自分を責めてる。これ以上苦しむ事ないよ。それに修司くんだけが悪いんじゃない。あなたを信じ切れなかった私もいけないんだから。」
「君は悪くない! 僕が、僕が……!」
言葉にならない修司の震えた手に結衣はそっと手を添える。触れられた感触はないが、それでも修司は結衣の手の温もりを感じた。
「私もずっと後悔してた。ちゃんと自分の気持ち言うべきだったんだって。修司くんを理解してるフリして、修司くんをちゃんと見なかったからこんな事になったんだって。私がいつまでも修司くんを苦しめてるんだって。本当にごめんなさい。ここでずっと泣いてるあなたに、何もしてあげられないのが辛かった。だから……。」
「そんな事はない! 悪いのは僕だ!」
結衣の言葉を遮って叫んだ修司に首を振って微笑み、結衣は言葉を続けた。
「だからね、お互いにもう自分を責めるのはやめよう? 私は幸せだったから。修司くんといてすごく幸せだったから。」
「……本当に? 君は、僕を許せるの?」
「当たり前じゃない。私はいつでも修司くんの心の中にいる。だから修司くんは今を生きて。私のために修司くんの時間を止めないで。輝いてる修司くんの姿を見せて。」
結衣の腕が修司の身体を包む。愛しく懐かしい感触が修司を満たす。修司も結衣の身体に腕を回した。触れ合う事の叶わない淋しさと、それ以上の愛しさが2人の心に満ちる。カーテンの隙間から時折射す稲光が、結衣の透けた身体を照らす。そっと腕を放し修司は結衣の目を見つめた。
「明日は結衣の誕生日だね。」
「うん。」
「結衣の誕生日が来たら、プロポーズしようと決めてたんだ。だけどもっと早くするべきだったってずっと悔やんでた。」
結衣の視線が机の上の写真立てと紺の小箱を捕らえる。俯いてしまった修司に結衣は微笑んだ。
「嬉しいよ、修司くん。ありがとう。」
結衣の手にそっと手を重ね修司は顔を上げた。
「結衣、僕は君を、ずっと……。」
雷鳴が震える修司の言葉をかき消す。それでも結衣は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、修司くん。私も……。」
「結衣。」
結衣の頬に修司はそっと手を伸ばす。目を閉じた結衣の唇にゆっくりと唇を重ねた。触れられなくとも、そこに確かに結衣の存在を感じる。修司の心の中に、結衣は生きている。
……修司くん、ありがとう……
部屋の明かりが音もなく点滅し、一瞬の内に部屋は元の明るさを取り戻した。宙に浮いた修司の腕の中に、結衣の姿はもう無かった。一体どれくらいの時間が経ったのか、長い時間結衣と話していたような気がするし、ほんの一瞬だったようにも思う。それとも、悲しみに暮れた挙句に見た幻だったのかもしれない。小さく首を振りながらふと机の上に目をやると、元の位置に戻したはずの指輪の箱が動いていた。修司はじっと箱を見つめる。戻したつもりで放り出してしまったのかもしれない。でも、もしかしたら。いや、そんなバカな話があるだろうか。混乱しながら微かに震える手でそっと箱を開く。そこに指輪は無かった。信じられない思いで写真立てに目をやると、写真の中の結衣は全く同じ指輪を嵌めていた。何度も見つめた写真だ。それまで指輪なんてしていなかった事は間違いないし、何より指輪を用意したのはこの写真を撮った後だ。
「結衣……!」
間違いなく結衣はここにいたんだと確信する。そして自分を許し受け入れてくれた事を感じる。零れ落ちる涙をそっと拭い、修司は写真に微笑みかけた。もう、立ち止まらない。重ねた手と唇を通して交わした想いが、今を生きる自分を優しく包み明日へと繋ぐ力になっていくのを感じる。いつか自分も向こうへ行った時に、ずっと見守ってくれた結衣に恥じない生き方をしなくちゃいけないと誓った。


いつの間にか雨は小雨になり雷鳴は遠ざかっていた。静かに優しく降る雨は結衣の微笑みに似ていると思った。


                     END


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