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『月光遊戯』

〜第4話〜

 先日の贋作絵画騒動から数日。斎賀要は自室で新聞に目を通していた。他に目立ったニュースが無いのだろう、新聞は連日子爵による贋作売買事件で賑わっている。自分の見立ては正しかったと要は静かに笑った。この腐った世界に復讐を。上流社会の澱みが世界を腐らせているのだ。子供の頃から誓っていた事をようやく実行に移せる喜びを噛みしめる。新聞を片付けると、要は御剣優と名付けた青年と初めて出会った時の事を思い返していた。

 裏庭から屋敷に忍びこもうとしていた同い年くらいの少年を捕まえたのは、要が12歳の時だった。やせ細り今にも倒れそうなみすぼらしい少年は、水と食べ物を盗もうとしたのだと白状する。隙を突いて逃げ出そうとする少年を引き止め、「家の者には内緒だよ」と言って水とパンをあげた時の、彼の驚いた顔をよく覚えている。身寄りが無く、スリや空き巣をして生きていると聞いた時、要はひどく驚き自分の境遇を呪った。そんな事をしてでも生きようとしている子供がいる。それに引き換え自分は、貴族の家に生まれていながら早く死んでしまいたいと思っているのだ。なぜ世界はこんなにも理不尽なのだろう。要が泣いているのに気づいた少年は不思議そうな顔をする。
「どうして君が泣くの?」
涙を拭う要の手を取った少年は、長袖シャツの袖に隠れた痣に気がつき目を見開いた。
「これ、どうしたの……?」
「何でもないよ。」
慌てて少年の手をそっと払う。袖口を引っ張って痣を隠す要に少年は悲しそうに目を細めた。
「何でもなくないだろう。転んだくらいじゃここまでの痣にはならないよ。僕はしょっちゅう殴られてるから解る。誰かにやられたんだろう?」
口を閉ざし俯いた要の手を少年はそっと握った。細いが温かな手だった。
「話せないなら無理には聞かないけど。パンありがとう。嬉しかった。お金持ちにも優しい人っているんだね。この恩は必ず返すよ。」
微笑んだ少年の手を要は握り返す。礼を言われたのも微笑みかけられたのも、手を握られた事さえ生まれて初めてだった。こんな自分に恩を感じてくれるなんて、彼はいったいどんな風に生きているのだろう。もっと彼の事を知りたいと思った。
「また、来てくれるかな? 母様の目があるからなかなか自由には会えないけど、君ともっと話がしたいんだ。」
驚いた顔をしながらも少年は頷く。
「僕で良ければまた来るよ。」
「ありがとう。約束だよ。僕は斎賀要。一応、この家の長男だ。君は?」
「僕には名前なんて無いよ。いつも『お前』とか『ガキ』とかって呼ばれてる。」
はっとした顔で要は少年に頭を下げた。
「ごめん、ひどい事聞いちゃって……。」
「謝ることないよ。前にスラムのおじさんが言ってた。名前って、他の誰かや世界に繋がれてる証なんだって。僕らは自由だから、名前はいらないんだって。」
そうなんだ、と自分の知らない世界を知り悲しい思いで呟いた後、名案を閃き小さく手を打った。
「じゃあ、僕と君を繋げる為に君に名前を付けたい。いいかな?」
要の言葉に驚きながらも少年は嬉しそうに笑った。
「僕に名前をくれるの?」
「うん。そうだなぁ……。『御剣優』ってどうかな? 僕の好きな本の主人公なんだ。強くて優しくて、弱い人の味方なんだ。」
少年が嬉しそうにその名を呟いた時、屋敷から要を探す声が響いた。
「まずい、行かなきゃ。御剣、君も早く出た方がいい。見つかったら何をされるかわからない。」
「うん、また来るよ。」
「きっとだよ。」
慌ただしく別れた後、密かに手紙のやり取りは出来たがなかなか直接会う事は出来なかった。要が御剣と再会するのは十数日後の事になる。その日、要は死んでしまおうと考え夜中に屋敷を抜け出したのである。服の下に残る無数の傷や痣は実の母親によるものだった。当主であった父が事故で他界した後、斎賀家に君臨する母親の虐待は一層激しさを増した。誰も助けてくれず、助けを求める事も出来なかった。自分は生まれてきてはいけなかったのだと思いつめ、夜の街をふらふらと歩く。どこをどう歩いたのかよく覚えていなかったが、隣町との境を流れる大きな河まで来ていた。橋から暗い河を見下ろす。流れは速く、所々で白く泡立った渦が巻いている。ここへ落ちれば死ねるかな、とぼんやり考えていた時だった。
「要!? 何してるんだよ!」
驚きと怒りの入り混じった声が響き小さな足音が駆け寄ってくる。次の瞬間、要は欄干から引きずり下ろされ両肩を掴まれた。
「あんなに身を乗り出したら危ないじゃないか!」
悲痛な声を上げて自分の肩を揺さぶっているのは御剣優だと気付き、要は呆然と彼を見上げた。
「御剣……? どうしてここへ?」
「僕はこの近くのスラムに住んでる。棲処に戻ろうとしたら君の姿が見えたから驚いたよ。何があったの?」
「御剣、僕は……僕は……。」
しゃくり上げる要の背に温かな手が触れた。欲しかった温もりにこらえ切れず御剣にすがりつく。
「僕は生まれて来ちゃいけなかったんだ!」
「どうしてそんな言うんだよ?」
ひとしきり泣いた後、要はゆっくりと自分の境遇を語り始めた。自分の白い肌と薄茶色の髪は両親のどちらとも似ておらず、母親が不貞を疑われた事。疑いが晴れてからも屋敷中の人間が母親に辛く当たった事。その矛先が全部自分に向けられている事。
「ちゃんと調べた結果、僕は間違いなくお父様と母様の子で、この肌と髪の色は母様の先祖からの隔世遺伝だって解った。でもお祖父様やお祖母様を始め家中の人間が母様に辛く当たったらしい。『斎賀家に異人の血が混ざってしまった』って。それもどうやら間違いだったらしいんだけど。それから母様は僕に『お前は悪魔だ』って言って密かに暴力を振るうようになったんだ。お父様が当主になってからも変わらなかった。お父様は僕に優しかったけど、母様がしてる事を言っても信じてくれなかった。どうしてかはよく解らないけど、『斎賀家の人間はそんな事しない』って、『お前も嘘はいけないよ』って言われた。母様は他の人の前では普通だけど、僕と二人きりになったらすぐ殴ったり蹴ったりして罵ったり、窓の無い狭い部屋に閉じ込めたりするんだ。でもみんなは優しい母様しか見てないから、僕が何を言っても信じてくれなかった。」
「そんなの酷い……!」
怒りに声を震わせた御剣の手を握り要は震えながら話し続ける。
「去年、お父様が事故で他界して母様が家を取り仕切るようになってからはますます酷くなった。誰も母様には逆らえなくなったから。」
こぼれ落ちる涙をそのままに要は御剣を見つめた。
「僕がこんな容姿で生まれたから、母様は不幸になった。僕はいなくなる方がいいんだ。」
「そんなはずはない!」
力いっぱい叫び御剣は要の顔を見つめ返す。怒りに声も瞳も震えていた。
「スラムには親子で暮らしてる人もいるから僕にだって解る。親っていうのは何があっても子供を守らなきゃいけないんだ。周りが敵だからって、それを君のせいにするなんておかしいよ。悪いのは守らなきゃいけない君を傷付ける母親だし、そんな状況を作った貴族の大人達だ。」
その言葉に要は衝撃を受けた。虐げられるのは自分が悪いからだと思っていた。だがそれは、そう思い込まされていただけなのだ。自分が暴力を振るわれる理由など無いのだと気づく。
「僕は、悪魔なんかじゃないんだね?」
「当たり前じゃないか! 君は僕を助けてくれた。こんな泥まみれの僕にためらいもせず手を差し伸べてくれた。悪いことして生きてる僕を逃がしてくれて、名前までくれた。そんな優しい君が悪魔だなんてあり得ない。僕みたいに地べたに這いつくばって生きる子供がいるのも、君みたいに傷付けられる子供がいるのも、みんな貴族の大人が悪いんだ!」
憎しみがこもった御剣の幼い声に、要は目が覚めたような気がした。自分は何も知らされないまま自分を責め続けていた。それは間違いなのだ。本当の悪は、権力をかさに着て弱い者の思考までも支配し虐げる大人達の方だ。
「僕は、生きていてもいいんだね?」
「当然だよ!」
今まで誰も言ってくれなかった言葉を、他人である御剣が心から言ってくれたと感じ嬉しかった。と同時に、身内からその言葉を聞けなかった事に憤りが湧いた。誰もかれもが「伯爵家らしく」「斎賀家にふさわしく」と口にする。そこに愛情や温もりは塵ほども無かった。要の背を撫でる御剣の手は、優しく温かい。求めても得られなかった温もりがそこにはあった。御剣にとってもそれは同じなのだろうと思った。得られたはずの温もりを奪った奴らに復讐しなくては。それには斎賀家を、伯爵の地位を、利用してやるのが効果的だろう。

 その後、要が成人するより前に母親は急死する。御剣に頼んで、街の病院からあるものを盗んできてもらい、使うタイミングを伺っていた。死因は病死とされ、数年後に成人した要が斎賀家当主の座を継いだ。自分が病院から盗んだものが何に使われたのかをおそらく彼は知っている。そうして怪盗とパトロンという関係が生まれたのだ。
「僕達で、世界に復讐しよう。」


第4話 END


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