Act.1 『役者失格』



「お疲れ様です。」
屋敷の門に立つ巡査の敬礼に軽く手を挙げて答えると、桐生は立ち入り禁止の札が下がったロープを潜り抜けた。部下の堤が駆け寄ってくる。
「お疲れ様です、警部。」
「あぁ。で、どんな状況だ?」
堤は手帳を取り出す。
「被害者は遠野圭介、32歳独身。2階の自室で胸を刺されて死んでいるのを通いの家政婦さんが発見し通報しました。凶器は発見されていません。部屋が荒らされており格闘の跡もあります。」
「第一発見者は家政婦か。家族はいないのか?」
現場の部屋へ桐生を案内しながら堤は言葉を続ける。
「被害者の父親がこの屋敷の主です。遠野宗一郎、有名な歴史小説家ですよ。」
僕大ファンなんですよ、と目を輝かせて付け加えた堤に桐生は気の無い返事を返す。本を読まない桐生にはピンとこないが、郊外に建てられた事件現場の屋敷の広大さを見れば、遠野宗一郎なる人物が成功者に分類される事はわかる。
「作家ってのは儲かるんかね。」
桐生の呟きを聞き流し堤は手帳をめくる。
「遠野先生は5年前に事故に遭いまして、先生は右足を負傷しただけで済んだんですが一緒にいた奥様が亡くなられています。」
「あぁ、その事故なら覚えてるぞ。大御所有名人が被害者だってんでニュースで騒いでたな。交通課の奴らピリピリしてたんだ。」
「そうでしたね。事故は業務上過失致死の判決が下ったんですよ。で、それ以来先生はこの屋敷に1人で暮らし始めたそうです。ここは先生の別荘だったそうですよ。現在は被害者と2人だけで住んでいたそうです。」
「ふーん。ガイシャはどんな奴なんだ?」
堤は軽く眉間にしわを寄せ言葉を続ける。
「それがですねぇ、ギャンブルで莫大な借金を抱えていたようです。定職に就かず女性の家に居候してたり……。」
「32だっけ? その歳でそんなんかよ、最低だな。」
眉をひそめる桐生に堤も頷く。
「借金の件でその筋の人間に追われていたとの事です。」
その筋、と言って堤は頬に傷をつける仕草をする。
「で、絶縁状態だった先生の元に昨年押しかけてきて強引に住み着き、先生にお金をせびっていたと家政婦さんが証言しています。」
「ふーん……。関係者の話は聞けるのか?」
「はい、先生も家政婦さんも部屋にいらっしゃいます。」
現場の部屋に着くと慌しく捜査員達が動き回っている。投げ込まれたと見られる石と割れた窓ガラスが散乱し、棚も机も荒らされている。カーペットには血の跡がべっとりと残っていたが、それ以外は土埃一つない部屋だった。桐生は手袋を嵌め、窓枠を調べながら呟く。
「掃除が行き届いてるなぁ。家政婦が全部やってるんだろうか。」
オーダーメイドと思われる質の良い調度品が並ぶ中、ベッドは部屋の雰囲気にそぐわない粗末なもので、強引に住み着いたという被害者が持ち込んだ物だと知れる。微かに酒とタバコの臭いのする8畳ほどの部屋で、裏庭に面して窓があった。裏庭にも捜査員の姿が見える。桐生はドアの近くに倒れた遺体の側に屈み込んだ。派手な柄のシャツを着た大柄な男だった。衣服があちこち破れ激しい格闘の跡が伺える。いくつか打撲と刃物による傷があり、胸の刺し傷が致命傷となったようだ。
「凶器は見つからないのか?」
「はい、細長い刃物のような物だとの事ですが、見つかっていません。犯人が持ち去ったのでしょうか。」
遺体を調べていた桐生は立ち上がり堤に視線を移す。
「まだ何とも言えんな。関係者に話を聞きに行こう。」
1階の応接室に行くと、小柄な中年女性が立ち上がり、家政婦の酒井昌子だと名乗った。
「捜査一課の桐生と申します。この度はとんだ事で……。」
桐生が挨拶すると酒井は小さく首を振った。
「雇って頂いてる先生の息子さんですから悪く言いたくはありませんが、天罰が下ったんだと思っています。」
疲れたようにため息をつく酒井を見つめ桐生は口を開く。
「いくつか伺いたい事があるんですが、遠野宗一郎さんはどちらに?」
「先生は落ち着かないからと奥の書斎にいらっしゃいます。お呼び致しましょうか?」
「いや、ではまず酒井さんのお話から伺いましょう。」
桐生達はソファに腰を下ろした。
「酒井さんが遠野さんの下で働くようになったのはいつの事ですか?」
「先生がここへ越してらした時からです。元々私は不動産屋を介して別荘だったこの家の管理をしていたんです。そして先生が家政婦を探していらしたのでここで働かせて頂く事になりました。」
「そうですか。住み込みではなく通っておられるんですか?」
「はい、電車とバスで2時間程かかりますが私も家族がおりますから。」
「なるほど。酒井さんから見て、遠野さんと被害者の圭介さんはどんな方ですか?」
酒井は少し考えるように頬に手をあてた。
「遠野先生は厳格な方ですが、心根は優しい方です。私や私の子どもの事も気にかけて下さいます。作家として大成されても少しも驕った所のない立派な方です。圭介さんは、軽薄そうな方という印象しかありません。ギャンブルばかりしていて勘当されたにも関わらず去年強引にここに住み着いて、先生に頻繁にお金をせびっていましたし。そんな人でも先生にとってはただ一人の肉親でしたから勘当を解いたのでしょうね。でも圭介さんが来られてからガラの悪い人達が来て、『金を返せ』と騒ぐ事が多くて本当に困っていたんです。」
借金の取立人が市街地から離れたこの屋敷を突き止め押しかけていたという。桐生と堤は思わず顔を見合わせ、なんて奴だと首を振った。
「では、発見時の様子を聞かせて下さい。」
酒井は更に疲れた表情でゆっくりと口を開く。
「はい、私はいつも8時にここへ来て先生の朝食をお作りして掃除や洗濯を始めるんです。今朝も8時に来て朝食をご用意した後、部屋の掃除をしようと2階へ上がったんです。」
「圭介さんの部屋も酒井さんが掃除されてるんですか?」
「そうです。先生から言われておりますので、圭介さんがいない時に掃除をしています。それに昨夜またガラスが割られたようだから様子を見るよう言われましたので。」
「なるほど。それで死んでいる圭介さんを発見されたのですね。」
「はい。もう本当に驚きました。」
酒井はその時の事を思い出したのか青ざめた顔で小さく頭を振った。
「お部屋に入ると窓が割られているのが目に入って、床に圭介さんが倒れていたんです。黒ずんだ血が床に広がっていて、忘れる事は出来ません。」
「お察しします。夕べは圭介さんに会われましたか?」
「いえ、圭介さんは夜遅くに帰って来る事がほとんどでして、夕べ私が帰る時にはいらっしゃいませんでした。」
「酒井さんが帰られたのは何時頃でしたか?」
「夕方5時頃です。いつもその位です。」
「倒れている圭介さんを発見した時に何か変わった事はありましたか?」
記憶を辿るように酒井は天井を見上げ答える。
「変わった事ですか。窓が割れていて部屋が荒らされている事以外は特には……とにかく驚いてとてもじっくり見ていられませんでしたから。」
酒井の言葉に桐生は頷く。
「そうですね。ではまた何か思い出した事があればいつでも仰って下さい。」
青ざめた顔で首を振った酒井に桐生は手帳を閉じてそう告げると堤を振り返った。
「遠野さんの話を聞きに行こう。」
酒井の案内で書斎に向かう。被害者の部屋とは屋敷中央の階段を挟んで反対側に位置する部屋だった。重たそうな木の扉を酒井がノックする。返事を待って一同は書斎に入って行った。棚に多くの厚い本が詰め込まれた正に書斎と呼ぶに相応しい部屋だ。壁際の棚にはコレクションなのか作品の資料に使うのか、日本刀を始めとする古い武具や地図等が飾られている。扉の正面の机で書き物をしていた遠野宗一郎は万年筆を置きゆっくりと顔を上げる。姿勢がよく、質素な和服を着こなしたいかにも厳格そうな雰囲気を持つ人物だ。70歳を越えているとの事だが体格もよく、武術の達人を思わせる。桐生は丁寧に頭を下げた。
「初めまして。捜査一課の桐生俊之と申します。こちらは部下の堤誠二です。この度は大変な事になりまして……。」
痛ましげに言う桐生の言葉を制し遠野は首を振った。
「いや、自業自得です。息子の生活ぶりはもう聞き及んでいるでしょう。あれは働きもせず賭け事に夢中で、借金を抱えては人様に迷惑ばかりかけておったんです。お恥ずかしい話ですが、遅くに出来た一人息子でしてな。甘やかした結末がこれです。」
自嘲気味に言ってため息をついた遠野に桐生は戸惑いながら口を開いた。
「さっそくですが夕べの状況をお聞かせ下さい。窓が割られて圭介さんは格闘した痕跡があります。その時遠野さんはどちらにおられましたか? 他に何か不審な事に気付かれませんでしたか?」
遠野は天井を眺めながらゆっくりと答える。
「あいつはいつも夜遅くに帰って来るので、夕べもいつ帰って来たんだか知りませんでした。夜にガラスの割れる音が聞こえましたが、5年前の事故で足を負傷しましてな、杖があれば歩けますが2階へ上がるのは誰かの手を借りねば困難ですので、どうせいつもの事だ、また修理屋を呼ばねばならんな等と考えながら、たいして気に留めずまた寝てしまったのです。」
傍らに置いた杖を左手で軽く撫でながら遠野は桐生を見つめる。梅の花が彫られた高価そうな杖だ。遠野の視線を受け桐生は口を開く。
「それでは今朝酒井さんが発見されるまで圭介さんの死をご存知なかったのですか。」
「えぇ。酒井さんに2階の掃除と部屋の様子を見るよう頼んだら、真っ青な顔で彼女が下りてきて、2人で部屋へ行ってあいつが死んでいるのを見た時には、情けない事にどうしていいやらわからず放心してしまいました。」
恥じ入った様子の遠野に桐生は首を振る。
「他殺体を、しかもご自身の息子さんの遺体を前にしたら誰でもそんな風になりますよ。で、その借金取りの連中ですが、度々こちらに来られたのですか?」
「そうです。ガラの悪い連中が騒いだり物を壊したりするので迷惑しておったのです。」
「そうですか。最後に圭介さんと顔を合わせたのはいつですか?」
遠野はしばらく考えて口を開いた。
「確か2、3日前だったと思います。昼間から酒の臭いをさせて書斎へ来て『金をくれ』等とぬかしおるので、私はお前の借金なぞ知った事ではない、住まわせてやってるだけありがたく思えと一喝してやりました。」
遠野は桐生を真っ直ぐに見つめた。
「圭介は金貸しの連中に殺されたんですかな?」
桐生は言葉を選ぶように答える。
「まだ何とも言えません。怨恨や物盗りの犯行の可能性もあります。」
遠野を見つめ返し桐生は言葉を続けた。
「何か圭介さんの部屋から無くなっている物があるかどうか、一緒に見て頂きたいんですがよろしいでしょうか。」
遠野はゆっくりと頷いた。
「わかりました。行きましょう。」
椅子から立ち上がる遠野の右側から酒井が手を貸した。堤が遠野の左に置かれた杖を取ってやろうと手を伸ばした瞬間、
「触るな!」
遠野が叫んだ。
「あ……すみません。」
びくりと手を止めて謝る堤。緊迫した空気が流れ遠野ははっとした表情で口を開いた。
「あ、いや、すまない。これはその……妻の形見の品でしてな。つい神経質に……。」
桐生は場を和ませるように口を開く。
「こんな状況ですから、神経質になるのは仕方ないですよ。」
そして思い出したかのように堤を見遣る。
「そうそう、堤は遠野さんの大ファンだそうですよ。」
桐生の言葉に遠野は驚いたような感心したような声を上げる。
「ほぉ、そうでしたか。若い方が私の作品を読んでくれていたとは光栄ですな。」
シュンとしていた堤は遠野の視線を受け背筋を伸ばし遠野を見上げた。
「はい、先生の作品全て拝読させて頂きました! 先生の描かれる武士達の生き様に感動致しましたでございます!」
興奮のあまり敬語の使い方がおかしい。そんな堤に遠野は笑みを浮かべた。
「小難しいものばかり書いておるので、若い読者がいたとは嬉しいですな。」
桐生は興奮する堤に苦笑しながら口を開く。
「堤、せっかくだからサインを貰ったらどうだ?」
堤は困惑して桐生を見上げる。
「桐生さん、こんな時に何を……。」
桐生は堤の言葉を遮って遠野に問い掛ける。
「遠野さん、よろしいですか?」
遠野は快く頷いた。
「構いませんよ。先程の親切に対する私の非礼をお詫びしなくては。」
遠野は椅子に座り直し堤から手帳を受け取った。左手に万年筆を取りサインする。堤は更に興奮し目を輝かせる。
「うわぁ、ありがとうございます! あっ、遠野先生は左利きでいらっしゃるんですね!」
桐生も遠野の手元を覗き込む。
「へぇ、遠野さんのお歳で左利きの方というのは珍しいのではないですか?」
遠野は桐生に視線を移す。
「そうですな。筆も箸も全て左です。幼い頃親に矯正させられましたが、治りませんでした。」
遠野は堤に手帳を返し大事そうに仕舞うのを見て桐生に視線を戻した。
「さて、では行きましょう。」
堤を先頭に遠野と酒井、その後ろを桐生が歩き現場に向かう。酒井に支えられ杖をつきながら遠野はゆっくり階段を上がる。小柄な酒井には体格のいい遠野を支えて階段を上がるのは大変そうだった。階段を上がりきり酒井に礼を言うと、遠野は突き当たりの現場の部屋へは杖をつき自分で歩いて行った。現場の部屋はガラスと遺体は片付けられていたが、荒らされた箇所はそのままでカーペットにもまだ黒々と血の跡があり、惨劇があった事を物語っている。桐生は遠野を見つめ口を開いた。
「何か無くなっている物や不審な点がないか見て下さい、現場検証は済んでますので触っても構いません。」
桐生の言葉に遠野は部屋を見回す。酒井は発見時のショックが蘇ったのか青ざめた顔で壁に寄りかかった。遠野は酒井の肩を慰めるようにそっと叩くと棚の方へ歩み寄る。杖を右手に持ち替え、引き出しや開き戸を開けて真剣な眼差しで中の物を確認している。机や棚、クロゼットを全て調べると遠野は桐生を振り返った。
「あいつの持ち物全てを把握してはおりませんのではっきりした事は言えませんが、じゃらじゃらと身に付けておった安っぽい貴金属が無くなっとるようです。ここに元からあった物は無くなってはおりません。」
「そうですか。圭介さんが使っていたのはこの部屋だけですか?」
「そうです。」
「わかりました。ありがとうございました。」
階段を下りながら堤は小声で桐生に問い掛ける。
「被害者の財布も見つかりませんし、やっぱり物盗りか金貸し業者の犯行でしょうか?」
桐生はそれには答えず階段を下りてきた遠野達に声をかけた。
「では何か思い出した事があればいつでも言って下さい。」
「わかりました。早く犯人が捕まるよう、願っとりますよ。」
「尽力します。」
その時、巡査が顔を覗かせた。
「警部、村野さんから報告があるそうです。」
「わかった。行こう。また何かご協力頂く事があるかと思いますがよろしくお願い致します。」
遠野達にそう告げた時、廊下の電話が鳴り響いた。レトロな黒電話である。酒井が電話にでる。
「はい、遠野でございます。はい、いつもお世話になっております。少々お待ち下さいませ。」
左手で送話口を覆い遠野に告げる。
「先生、雑誌社の高橋様からです。」
「後で折り返すと言っといてくれ。」
遠野はそう言うと電話台にあった新聞と雑誌を右手に抱えゆっくりと杖をつき書斎に向かって行った。酒井が電話に向かってお辞儀をするのを見ながら桐生達は屋敷を出る。日は既に高い。門の前で村野が待っていた。
「よぉ、わざわざお疲れ。何かわかったか?」
「あぁ。まず検死の結果だが、死因は心臓を刺された事による心筋梗塞だ。心臓を刃渡り20センチ程の細い刃物で貫かれている。ほぼ即死だな。傷が右向きに出来ている事から犯人は左利きなんじゃないかって意見もある。まぁ、格闘した痕跡があるからわからんけどな。死亡推定時刻は昨夜10時から12時の間。動かされた形跡は無いからあの部屋で殺されたと見て間違いないだろう。それと、裏庭の足跡だが深さや靴の大きさから2人の人間のものだと判明した。それから被害者のポケットにこんな物が入っていた。」
手帳から顔を上げ村野は白い粉末入りの小瓶とくしゃくしゃになった一枚の名刺の入った袋を取り出した。名刺は生命保険会社の人物のものだという。
「瓶の中身は毒物だ。飲むと心臓麻痺によく似た症状で死に至る。瓶にも名刺にも被害者と家政婦、遠野宗一郎氏の指紋が残っていた。この保険会社に問い合わせたら、遠野氏に生命保険が掛けられている事がわかった。受取人は遠野圭介だ。」
「そういう事なのか?」
桐生の呟きに堤は困惑して尋ねる。
「そういう事って、どういう事ですか?」
桐生が答えるより先に村野は一枚の写真を取り出して見せる。被害者の手のひらのアップだ。幾つかの平たく小さい円形の痕がある。
「これを見てくれ。被害者の手のひらに妙な痕が残っていた。犯人と揉み合った時に何かを強く握ってそこの模様が残ったらしい。この模様、あれと似てる気がするんだ。」
村野の視線の先には梅の花が咲いていた。
「遠野さんは梅が好きなんだな。」
確信を得たような顔で桐生は呟く。
「え?」
桐生の言葉の意味を図りかねて堤は困惑する。
「玄関にも書斎にも梅の花が飾られていた。お前が持とうとして怒られた遠野さんの杖にも梅の花の彫刻がされていたぞ。」
桐生は堤を見遣り表情を曇らせた。
「この事件、お前にとってショックな結末になるぞ。」
「どういう事ですか?」
「犯人は遠野さんだ。被害者の手に残った梅の花、そしてもう一つ、遠野さんはミスを犯した。それは遠野さんが嘘を吐いている事を示している。何故遠野さんがそんな嘘を吐く必要があるか。それは遠野さんが犯人だからに他ならない。」


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