十八へ/ 小説の間へ/ 翠玉館玄関へ


自宅に戻ると秋人はベッドに倒れ込んだ。静かな部屋はリンの不在を強調する。それを忘れるかのように秋人は布団をかぶりきつく目を閉じた。夕べからの出来事は悪い夢で、目が覚めたらリンが朝食を作ってくれているんだ、寝ぼけ眼の俺に「お早うございます。」って微笑んでくれるんだ、そう強く願いながら。
どれくらい眠っていたのか、秋人はインターホンの音で目を覚ました。速達が届いているらしい。寝ぼけた頭のまま配達員に応対する。速達の差出人は村上薫となっていた。何の用だろうと首を傾げながら秋人は封を開けた。右上がりの癖の強い筆跡で書かれた手紙と白い文書が一枚入っていた。秋人は手紙に目を通す。

「桜井君へ。
リンをあんなにも大事に思ってくれてありがとう。桜井君とリンの絆に心を打たれました。私も機械に対する認識を改めなくてはならないと強く感じました。
私はもう一度バークレーへ行きます。そして恩師や仲間達と共に、AIの平和利用を皆に真剣に考えてもらえるよう活動します。AI兵器を撲滅する運動も新たに始めます。もう会う事は無いと思うけれど、どうかお元気で。
それから、リンの正式な登録証書が見つかったので送ります。桜井君に持っていてもらいたいのです。藤沢君にもよろしく。あなた方のお陰でリンは自分の心を得て、自分の意思で生きられたのだと思います。本当にありがとう。
それでは、さようなら。
                        村上薫」

秋人は文書の方を広げる。真っ白なA4サイズの上質紙に、パソコンで印字された味気の無い文字が連なっている。「野崎医療AI研究所」の文字が目に入り、秋人はそれには目を通さずゴミ箱に放り込んだ。
「まだまだわかってねぇな、あの姉さんは。」
溜め息混じりの呟きは静かな部屋に吸い込まれる。秋人は部屋を見回した。4ヶ月間、リンと過ごした部屋。どれ程目を凝らしてもリンの姿は無い。声も聞こえない。もうあの穏やかな笑顔に、優しい心に、触れる事は叶わないのだと痛感させられる。再び涙に滲む秋人の視界の端に、パソコンに繋がれたマスコットが受信メールの存在を知らせ点滅しているのが映った。バンド仲間からの連絡か、聡一からか。何もしたくない重い気持ちを奮い立たせ、秋人はパソコンの電源を入れる。受信したメールの差出人欄には数字が並んでいる。その並びに見覚えがあるような気がして、秋人はポケットに入れていたリンの簡易登録証を取り出す。
「同じ数字だ……。」
まさか、と呟きながら秋人は震える手でマウスを握り添付ファイルを開く。添付されていたのは音楽ファイルだった。馴染みのあるメロディが再生される。秋人が作った楽曲、リンのお気に入りだった恋の歌。だが、よく聴くとそれは秋人のオリジナルの音源ではない。選ばれている楽器の音色や強弱が、オリジナルのそれとは微妙に異なっている。秋人の脳裏に昨夜の研究所での事が蘇る。この音色は、記憶を消されたリンが自己を取り戻そうとして奏でたものとそっくりだった。
「リン、お前……なのか?」
秋人の問い掛けに応えるかのようにメロディは力強い音になる。冷たく静まり返っていた部屋に、温かく優しい音が満ちる。
「リン、お前なんだな。」
リンの心は失われてなんかいないんだ。いつでも俺の側にいてくれてるんだ。ディスプレイ画面にそっと手を触れた秋人の目に涙が浮かぶ。悲しみからではない、リンの想いをそこに確かに感じた喜びからの涙。零れ落ちる涙をそのままに秋人は微笑んだ。
「リン、お前の心、確かに受け取ったよ。」
秋人の言葉に安心したかのようにメロディは静かに再生を止めた。秋人はそっとファイルを閉じる。
「リン、やっぱりお前は俺の天使だ。」
照れ臭そうに秋人は呟いた。リンは常に秋人の中に存在し微笑んでいる。それは誰にも奪えない秋人だけの、健気で一途な機械仕掛けの天使−


                       Fin

                       
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