翠玉館玄関へ小説の間へ一へ




薄暗い部屋に、キーボードを叩く音と微かな電子音が響く。部屋にはキーボードに向かう女性とそのコンピューターにコードで繋がれた一体のアンドロイドがいる。
「ここのデータも消さないとね。」
彼女は画面を見ながら呟いた。画面には彼女が所属する研究所のデータが映し出されている。その内容に目を通し彼女は顔をしかめた。
「こんな事のためにあなたを作ったんじゃないわ。」
コードの先にいるアンドロイドに視線を移し怒りをあらわにする。人間と全く変わらぬ容貌を持ったアンドロイドは、その声に反応して目を開けた。
「しかしそんな事をしてはあなたの立場が悪くなります。」
赤い瞳を彼女に向けてアンドロイドは言った。それは明白な事実であり、赤い瞳には心配げな色が浮かんでいた。彼には人工知能が搭載されている。それが彼に心配をさせているのだろうか。手を止めて彼女はアンドロイドを見遣った。
「あら、心配してくれるの? 大丈夫よ、リン。ばれるようなへまはしないわ。」
強気な笑みを浮かべて彼女は画面に目を戻す。
「あとはあなたの記憶を消して完了。」
やがて全ての作業を終えると彼女はリンとコンピューターを繋いでいるコードを取り外した。
「さぁ、ここから逃げるのよ。荷物に紛れればばれないわ。できるわね?」
「逃げる。荷物に紛れてここを脱出するのですね。命令を了解しました。ただちに行動に移ります。」
記憶を抹消されたリンには目の前の人物がさっきまで会話をしていた人物とは認識できなかった。今彼は人間に従順なただの機械にすぎない。
「これを持ってね。あなたの当面の生活費と登録証。と言っても名前と写真と登録番号だけの簡略化されたものだけど。身分証としての役割は果たせるから。」
本来、作業用ロボットやアンドロイドには製作者や製作された施設の名称、製作目的等が細かく記された登録証の発行が義務付けられていたが、一度に何百体も作られることのあるロボット達全てにこれを作るのは非常に煩わしい作業であるため、最近は簡略化されたものが用いられるようになっていた。
「それじゃ、行って。」
電子マネーカードと登録証を持たせると彼女は少し淋しげに言った。貨物搬入口へ向かうリンを見送り彼女は部屋へ戻った。リンが研究所から遠く離れる頃にはここを脱出した記憶も抹消するようプログラムしてあった。人間と寸分違わぬ上に美しい容姿を持ち、また完全なAIを持つリンならば新しい生活の場はすぐに得られるだろうと彼女は考えていた。そして機械にとって過去の記憶などたいして重要なものではないだろうと考えていた。記憶などなくても、ごく普通のアンドロイドとしての機能には全く問題は無い。平凡なアンドロイドとして暮らせるだろうと。

綺麗で人間と変わらない容貌を持ち完璧なAIを搭載したアンドロイドのリン。彼はいったい何のために作られたのか。己の存在意義とは。彼自身がそれを知るのはもう少し先の事である。

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