「お疲れ様でした! お先失礼します!」
「お疲れ、桜井。明日な。」
店の裏口から足取り軽く飛び出してきた青年、桜井秋人はバイトを終え家路につくところであった。彼は22歳、バイトをしながらバンド活動をしている。昼は自宅やスタジオを借りて練習に明け暮れ、夜は飲食店でのアルバイトをこなす毎日である。お気に入りのバンドの歌を口ずさみながら彼はバイクを飛ばしていた。身体はかなり疲れていて注意力が散漫になっていた。そして曲がり角から急に人が現われたのに気付くのが遅れた。
「うわぁあっ!」
慌ててブレーキをかけハンドルを切る。辛うじて避けたが微かに接触した感覚があった。バイクは塀に衝突しあちこちヘこんでいる。
「ああ、俺のバイクが……。どうしてくれるんだ。」
途方に暮れて振り返ると、角から現われた人物は怪我でもしたのか座り込んでしまっていた。街灯の灯りに照らされたその姿を見て秋人は驚きを隠せなかった。どう見ても14、5歳の子供に見えた。
……何でこんな深夜に出歩いているんだ? 家出少年か?
戸惑いながら秋人は少年に声をかけた。
「大丈夫か? ごめんよ、怪我をしたのか?」
少年は顔を上げた。やや長めの銀色の髪が揺れた。そしてその下の双眸は赤く、人間ではなくアンドロイドだという事がわかる。そしてとても整った美しい顔をしていた。彼はしばらく考えるようにして答えた。
「接触した瞬間のスピードは約10キロ。活動に支障をきたす傷は出来ておりません。内部機関にも異常ありません。」
「そうか、それなら良かった。あのさ、君アンドロイドだろう? こんな時間にこんな所で何をしてたんだい?」
ほっとして秋人は問いかけた。アンドロイドは珍しくない時代であるが、こんな風に完全な会話が出来るものはめったにいない。そしてアンドロイドは人間に従属し人間と共に暮らしているものである。命じられたのでない限り深夜に街を一人で放浪しているアンドロイドなどいない。こんなに完璧なAIと美しい容姿を持つアンドロイドが誰の物でもないというのも考えにくい。問いかけられたアンドロイドは困ったような顔をした。
「私には記憶がありません。気がついたらここにおりました。私は誰の物なのか、何の為に作られたのかわからないのです。何か重要な使命を負っていたのは確かなのですが。それが何だったのか思い出せないのです。誰かの手によって情報が抹消されたようなのです。」
秋人はしばらく考えてアンドロイドを見つめ口を開いた。
「なら俺の所に来ないか? 俺はアパートに一人暮らしだし、何かわかるまで俺の所にいていいよ。ぶつかった詫びもしたいから。」
記憶喪失だという珍しいアンドロイドの境遇に興味が沸いた。彼の負っていたと言う「使命」も気になる。困っている人を放っておけないのも秋人の性分だった。そして何よりもこの美しいアンドロイドに惹かれ始めていた。
「はい、ではそうさせて頂きます。」
アンドロイドはほっとしたような微笑を浮かべた。微かな微笑みは可憐な少女のようであった。守ってあげたい、そんな気持ちが沸き起こり秋人は頬を紅潮させた。
……何赤くなってるんだ、相手はアンドロイドだぞ!
慌てて秋人は頭を振ったが鼓動の高鳴りは治まらなかった。
持っていた登録証から彼はリンという名を持っていることがわかった。かなりの額の入った電子マネーカードも持っていたので、リンを居候させても生活には困らないだろうと思った。ただ、登録証は略式のものだったし電子マネーカードの名義はリン自身になっていてそこから得られる情報は大して役に立つものではなかった。秋人の部屋で、登録証とカードを眺めながら秋人は小さく首を振った。
「手掛かりはこれだけかぁ……。リン、他に何か思い出せないか?」
「申し訳ありません。私自身に関する情報は全て抹消されているようです。抹消された情報の復元も出来ないようになっています。」
心底申し訳なさそうな顔をしたリンに秋人は慌てて言った。
「あ、いや、謝る必要はないさ。だけどどうして自分が何か使命を負っていたってわかるんだ?」
言葉を捜し選ぶようにリンはゆっくりと答えた。秋人が人工知能やアンドロイドに対する知識をあまり持っていないと聞いていたからである。
「私のメモリーの中に、「お前はこのために特別に作られたんだ」という声が残っていました。消しそびれたんでしょうか、そこから先のデータが消えているのですが。ですから私は他のアンドロイドとは異なる重要な使命を負っていたのではないかと考えたのです。」
そして不安そうに言葉を続けた。
「アンドロイドやロボットは程度の差こそあれ、何かの目的があって作られるものです。私は、一体何の為に作られたのでしょう? 私を作った方は、なぜ私の情報を抹消したのでしょう?」
秋人はこれまでにもアンドロイドやロボットを見たことがあったが、こんなにも悲しげに話をするのは初めて聞いた。不安げに揺れるリンの赤い瞳に秋人の心も揺れた。機械も心を持っているというのは本当なのだと感じた。そして思わずリンの手を取って叫んでいた。
「リンは俺と出会うために生まれたんだよ、きっとそうだ! リン、使命なんか忘れて俺と暮らそう。過去の記憶なんて無いなら無いで構わないんじゃないか? 消されたっていうなら、きっと無い方が幸せな記憶なんだよ。そう思わないか?」
秋人の目をリンはじっと見返している。やがてガラスのような赤い瞳が、心の存在を証明するかのような穏やかな笑みを浮かべた。
「有難うございます。もしかしたらそうなのかもしれません。しかし、私は作り出された以上その目的を遂行する義務があります。」
「でもそれがわからないんじゃしょうがないだろう?」
「はい……。」
「じゃ、俺も協力するよ。俺の友人にコンピューターに詳しい奴がいるからそいつに相談してみよう。ただ、忙しい奴だからいつ連絡つくかわからないけど。でもいつまでだってうちにいていいし。あ、それからさ、これからは同居人なんだから俺に敬語使わなくていいぞ。名前も呼び捨てでいいし。」
そう言うと秋人は部屋のパソコンに向かってメールを打ち始めた。リンは立ち上がって秋人の手元を覗き込んだ。
「これはかなり古いタイプのパソコンですね。秋人さんが買ったのですか?」
「いや、バンドのメンバー全員でお金出して買ったんだ。バンドの宣伝とか作曲に使ったりしてるよ。」
メールを送信すると秋人はリンを振り返った。
「だから敬語は使わないでいいって。俺はリンを従属させる気なんか無いぞ。」
その言葉に僅かに俯いてリンは答えた。
「申し訳ありません。しかし私は人間に従属するものとして設定されているのです。私の意志ではどうにもならないのです。」
俯いてしまったリンを見て秋人はしまったという顔をして慌てて首を振った。
「ああ、ごめん。俺の知識不足で……。」
リンはそっと微笑んで顔を上げた。
「いえ、構いません。アンドロイドとはそういうものですから、どうかお気になさらないで下さい。」
秋人の目をリンは見つめ返す。人工知能を搭載しているとはいえ、自分の作られた目的がわからないというのは不安であるし多大なストレスとなる。記憶喪失と同じ状態のリンにとって、秋人は唯一頼れる人間だった。リンは秋人の表情や口調から、秋人が自分に好意的な感情を持っている事を感じていた。だがその好意を前にどうしていいのかわからなかった。嬉しいと思った。だがその好意に応える術を知らなかった。それ以前に、嬉しいと感じた事が不思議だと考えていた。アンドロイドを始めとする機械とは、人間に従属はするが執着はしないものだった。人間は機械を利用し機械は人間に従うもの、というのが一般的な考えである。人間と機械の交流を考える者は稀であり、リンの知識の中にも一般的な考え方がインプットされていた。知識に無い事柄は理解し得る筈が無い。それでも、好意を寄せられている事がわかって嬉しいと感じ、それに応えたいと考えたことはリン自身にも不思議でならないことだった。
秋人は秋人で考え込んでいた。誰かがリンの記憶を消したのであれば、なぜアンドロイドとしての認識も消してしまわなかったのだろうと。自分が作られた目的を知らないという事は、リン自身に製作目的を知られまいとしてのことだと、そんなものに縛られず自由に生きろと言いたかったのだろうと考えたが、今のリンの話を聞くとどうもおかしい。
……「人間に従属するよう設定されている」とリンは言った。「アンドロイドとはそういうものだ」とも。自分の製作目的を知らないリンが人間に従属しなければならない理由などないんじゃないか?
記憶を消された理由よりもこの矛盾の方が気に掛かった。そして、記憶も無いのに懸命に自分の義務を果たそうとしているリンを可哀相だと憤りを感じた。深刻な顔をしているリンに秋人は微笑みかけた。
「大丈夫さ、リン。俺が力になるよ。それに過去なんて忘れていくから生きていけるって事もあると思う。人に限らずね。だからあんまり深刻に考えない方がいいかもしれないぞ?」
「……はい、ありがとうございます。」
リンは秋人の目を真っ直ぐ見返し微笑んだ。その可憐な微笑みに秋人は再び顔を赤らめたのだった。
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