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『Yellow ――最後の肖像――』Side:An Artist



「そろそろ来る頃ね……。」
高村恵美は車椅子を操りキッチンへ行くとコンロの火を止めた。手にした黄色の油絵の具に目を落とし、高村は溜息をついた。

 高村は画家であった。美大を卒業し、画家を志して上京してから5年程がすぎていた。路上で絵を売ったり似顔絵描きなどをしながらアルバイトをし、画廊に絵を売り込みにいく。生活は5年経っても苦しかった。それでも絵が少しずつ売れるようになった頃、画商の成島英明の目に止まり専属契約を交わしたのだった。成島は銀座の一等地に店を持つ画商である。成島の契約の誘いに始めは半信半疑だったが、熱心な彼の説得と告げられた破格の条件に契約を交わした。成島は高村の絵を「君の絵はいいよ。こういう雰囲気の絵を描くといい、必ず売れる。」と絶賛し小さなアトリエを兼ねた部屋まで用意した。画家を志し、親の反対を押し切って上京した高村はこの破格の扱いに歓喜し、成島の期待に沿うよう絵を描き続けた。そして彼女の絵は成島の言葉通りすぐにいい値段で買い手がつくようになった。高村の絵が売れる度に成島は「俺の目は間違っていなかった、君は素晴らしい画家になる」と得意げに語った。
貧乏な生活から一転して成功者への道を歩み始めた高村は、やがて目をかけてくれる成島に対し単なる出資者として以上の感情を抱くようになった。そして成島にとっても自分は特別なのではないかと思い始めた。こんな風に破格の扱いを受け、目をかけられているのは自分だけだと思っていた。成島の気持ちを確かめたいと高村は思い始めた。
ある日、高村はアトリエの小さなキッチンで料理を作り訪れた成島をもてなした。絵を描く事しかしてこなかった彼女の料理は上手いとは言えなかったが、成島は「君は料理も上手なんだね。」と褒めた。高村の成島に対する感情は愛情へと決定的に変わった。成島の為に絵を描くと心に決めた。そして成島が来る度に高村は彼が好きだというコーンスープを作った。成島は高村の絵を情熱的に褒め、彼女の作るスープを心から喜んでいた。少なくとも彼女にはそう見えた。成島の情熱的な眼差しと語り口に嘘はないと、絵を通じて自分と成島の気持ちは、画家と画商として以上の繋がりがあると信じていた。

 高村の絵は、成島の好む画風に変わっていった。彼女自身はその事に気付いていなかった。彼女の絵は、順調に売れていた。だが幸運な日々は長くは続かなかった。

 ある日、画材を買いに出かけた高村は帰り際交通事故に遭った。信号無視のトラックに跳ねられたのである。病院に運ばれたが、目覚めた時には右半身が動かなくなっていた。医者は「手術してリハビリすればある程度回復はするが、二度と元の生活はできないだろう」と淡々と告げた。右半身不随、画家としての生命は断たれたも同然に思えた。現実を受け止めきれない高村に、医者は成島という人からの伝言だと言ってメモを差し出した。自分を気遣うメッセージだと思い紙片に目を落とした高村は、これが成島の言葉だとは信じられなかった。
『医者から話は聞いた。アトリエは他の画家に使わせるから君の荷物を引き取ってくれ。』
短い文面に何度も目を通す。間違いなく成島の筆跡だ。高村はすぐ成島に連絡を取った。電話口で成島は淡々と言う。
「話は聞いたよ。君はもう絵は描けないんだろ? だったらアトリエを貸す必要はない。描けない画家の面倒まで見られない。」
「でも! リハビリして回復したら描けます!」
「そんな時間はないし元のような絵は描けないだろう。」
「成島さんは私を大事に思ってくれてたんじゃ……。」
「君の絵に価値を見出だしただけだ。事故に遭うなんて……。描けない画家に用はない。契約は打ち切りだ。」
電話が切れた後も高村は受話器を握り茫然としていた。

 手術の後、リハビリを必死で繰り返し、車椅子を使って自力で動く事が出来るようになった。やがて退院する日がきても、成島は顔を出さなかった。アトリエに帰ると高村の物は既に片付けられていた。他の人物の荷物が置いてある。捨てられた、彼女はそう感じた。成島の期待する絵を描き成島の為に絵を描いた。画家としての生活も全て成島に捧げてきた。それを享受しておきながら成島はあっさり自分を切り捨てたと。
車椅子生活を余儀なくされた高村は、仲の良かった画家仲間に助けられ引っ越しを済ませた。そこで高村は思いもよらない話を聞いた。成島にとって絵画は投資の道具でしかないのだと。「あの人は絵画を絵の具で描いた株券だとでも思っている。」そう聞いた時、高村の中で何かが崩れ落ちる音が聞こえた。

 それから数ヶ月。未完成の絵を置いてきてしまったから成島自身がここへ持ってきてほしい、そう告げて高村は待っていた。数日後、「近くに用があるからついでに行く」と成島の連絡を受けて高村は準備を始めた。
「そろそろ来る頃ね……。」
高村は車椅子を操りキッチンへ行くとコンロの火を止めた。コーンスープが湯気をたてている。手にした黄色い油絵の具を見つめ高村は溜息をついた。暫くしてチャイムが鳴り成島が訪れる。
「ありがとうございます。そこのイーゼルに立てておいて下さい。」
成島はキャンバスを取出しイーゼルに置いた。帰ろうとした成島を車椅子で遮り引き止める。
「寒かったでしょう? スープ作ったから飲んで行って下さい。」
渋る成島を強引に座らせキッチンへ向かう。
「簡単な事ならできるくらい回復したんですよ。」
成島はそれには答えずぶっきらぼうに口を開く。
「それ飲んだら帰るからな。」
慣れない左手でスープをゆっくりつぎながら高村は問い掛けた。
「成島さんにとって絵って何ですか?」
この答え次第では全て忘れようと思っていた。だが成島の答えは高村の背を押した。
「投資の道具だ。手をかけて価値が上がれば莫大な利益になる。」
そうですか、とだけ答えゆっくりとスープを成島の元へ運ぶ。成島はスープ皿を受け取りスプーンでコーンを掬い飲み込んだ。次の瞬間、苦しげに顔を歪め成島は倒れ込む。
「君……スープに、何を……!」
目を見開く成島に高村は淡々と答える。
「ご存知でした? 黄色の顔料の絵の具はカドミウムが含まれてるものがあるんです。」
車椅子から成島を見下ろし言葉を続ける。
「絵は道具だとおっしゃいましたね? 道具に命を奪われる気分はいかがですか?」
答えはない。高村はイーゼルの前に移動する。苦悶の声を上げる成島に彼女は語り続ける。
「あなたの肖像画を私の最後の作品にしようと思うんです。」
ゆっくりと左手で筆をとる。下絵に絵の具が乗せられていく。真剣そのものの表情で高村はキャンバスに向かう。絵が仕上がるにつれ、成島の苦悶の声が途切れていく。
数時間後。高村は筆を置きキャンバスの中の成島に微笑んだ。絵の中の成島は現状とは対象的に優しい微笑みを浮かべている。そして高村は幸福そのものと言った表情で成島の飲み残したスープを飲み干した。

空になった黄色い絵の具のチューブが、倒れた高村の傍らに転がっていた。


                  END

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