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『Yellow ――最後の肖像――』Side:An Artdealer



「つまらんな……。」
行きつけの喫茶店で窓際の席に座り成島英明は呟いた。彼は銀座の一等地に店を持つ画商である。彼自身は画家を志した事もあったが、祖父の代から続く画廊を継ぐ事になった。また画家としてよりも商売人としての才に優れていたようで、店は祖父や父の代よりもうまくいっていた。
成島は受け継いだ資産をふんだんに使い、有望な画家にいち早く目を付け専属契約を交わす。絵を描く事に集中できるようにと、アトリエを兼ねた部屋を提供し生活を支援した。絵を売るだけでなく、有望な画家を支援するのも画商としての仕事だと成島は考えていた。そして彼らの絵を価値が上がるのを待ち売る。彼のこのやり方を「金に物を言わせているだけだ。」と批判する声も多くあった。だが成島は「画商として絵を見るのと個人として絵を鑑賞するのは全く違う」と言う。ビジネスである以上、より大きな利益を求める為に資金を注ぎ込むのは当然の事だと考える彼には、批判される理由が理解できなかった。自分の好みだけでは商売は出来ないとも考えている。反面、成島は絵画を心から愛していた。店は上手くいっている。だが最近彼自身の心を打つ絵には出会えない。溜息をつきコーヒーを飲みながら、マスターが壁に新たな絵をかけているのを眺めていた。その1枚に成島は目を奪われた。陰影のバランス、筆のタッチ、その絵が放つ空気に激しく惹かれた。「呼ばれた」としか言いようのない感覚だった。
「マスター、その絵の作者を知ってるかい?」
成島は絵を指さしマスターに問い掛けた。この喫茶店では素人が持ち込んだ絵を飾る事がある。初老のマスターは成島を振り返り笑みを浮かべた。
「お気に召しましたか? 私も一目で気に入りましてね。画家を目指してるっていう女の人でしたよ。」
成島はマスターからその女性、高村恵美の連絡先を聞き即座に連絡を取った。成島は喫茶店で見掛けた彼女の絵を気に入った事、自分は画商をしている事を伝え自分の所で絵を描かないかと契約を持ち掛けた。高村は半信半疑だったが、破格の条件と成島の熱心な説得に契約に応じた。 成島は満足に画材を買う事も出来ない高村に、アトリエを兼ねた部屋を用意し生活を支援した。高村の絵は画商として見ても売れると確信していた。彼女は歓喜し、成島の為に絵を描く事でこの恩を返すと真剣な眼差しで語った。成島は何度も苦しい生活をしていた画家志望者を支援しているが、これ程に感謝されたのは初めてだった。高村の純朴さに、画家と画商はビジネス以上の繋がりを持ってはならないという成島の信念が揺らいだ。
成島はこれまでに高村が描いた十数枚の絵からいくつか選び、「君の絵はいいよ。こういう雰囲気の絵を描くといい。絶対に売れる」と絶賛した。成島の言葉通り、時が経つにつれ彼女の絵は価値が上がり始めた。売れ始めた高村といち早く専属契約を結んだ成島に対し「絵画を株券と履き違えている」と揶喩する声も多くあがった。
成島が高村の絵の仕上がりを見にアトリエを訪れたある日、彼女は成島に料理を作っていた。どこで聞いたのか、成島の好きなコーンスープが作られていた。外食ばかりの成島には手料理が嬉しかった。
「君は料理も上手なんだね。」
成島の言葉に高村は嬉しそうに頬を染めた。それ以来、成島がアトリエに顔を出す度に彼女はコーンスープを作った。

 他の画家の所よりも高村の所に赴く時間が多くなっていた。成島は表には決して出さないが彼女に惹かれている事を自覚した。彼女の絵は順調に売れていた。

 ある日、店を訪れた顧客の言葉に成島は愕然とする。
「高村さんの絵、変わったね。」
「え?」
「どこがどうと言うより雰囲気がね、初めの頃の方が良かったなぁ。」
高村の最新の絵を成島は眺めた。確かに初めて見た絵とは雰囲気が違う。だが決して技術が落ちているわけではない。成島の好きな絵だ。そこまで考え成島ははっとした。高村は成島の影響を受けすぎているのではないか? 自分も彼女に手をかけすぎている。画家として生きる彼女にとってそれは良くない事だと思えた。自分達は画商と画家でありそれ以上の繋がりを持つ事はお互いの為にならない。高村への気持ちを戒めなくてはならない。成島は彼女の絵を見つめ静かに首を振った。
ある日、成島の店に病院から電話が入った。高村が事故に遭ったという。成島は病院に駆け付けた。高村は身元を示す物を持っておらず、手帳に挟まれた成島の名刺しか連絡先が無かったという。医者は成島と高村の関係を聞いた後、彼女の容態を説明した。右半身不随、リハビリである程度回復するが元の生活はできないだろうと告げた。成島は悩んだ。絵を描く事で成島に恩返しすると言った高村。描けなくなる彼女の側に、画商の自分がいる事は彼女の重荷になるだろう。自分はもう彼女の側にいてはならない。意を決し成島はペンを取る。何度も書いては破りを繰り返したが上手く気持ちを表す事は出来なかった。
『医者から話は聞いた。アトリエは他の画家に使わせるから君の荷物を引き取ってくれ。』
高村には自分の事を忘れ彼女自身の為に生きてほしいと願った。医者に手紙を託し成島は病院を後にした。程なくして高村から電話がかかってきた。成島は努めて淡々と言った。
「話は聞いたよ。君はもう絵は描けないんだろ? だったらアトリエを貸す必要はない。描けない画家の面倒まで見られない。」
「でも! リハビリして回復したら描けます!」
「そんな時間はないし元のような絵は描けないだろう。」
「成島さんは私を大事に思ってくれてたんじゃ……。」
「君の絵に価値を見出だしただけだ。事故に遭うなんて……。描けない画家に用はない。契約は打ち切りだ。」
必死に縋ってくる高村に、やはり自分は彼女から離れるべきだと感じた。高村の自立の為だと、揺れる心を叱咤しわざと彼女に冷たく当たった。

 数ヶ月後。
成島の店に高村から電話があった。アトリエに未完成の絵を置いてきてしまったので成島自身が持ってきてほしいという。成島は悩んだ。高村が今も自分に執着している事は明らかだった。きちんと話をするべきだったと後悔したが、成島自身彼女から離れられなくなりそうで恐かったのだ。書きかけの彼女の絵はアトリエから店の倉庫に移してあった。暫く悩んで絵を持っていこうと決めた。
インターホンを鳴らす。鍵は開いていた。玄関に入ると車椅子に座った高村が待っていた。彼女の示したイーゼルにキャンバスを置く。帰ろうとした成島を高村は車椅子で遮った。
「寒かったでしょう? スープ作ったから飲んで行って下さい。」
成島を座らせ彼女はキッチンへ向かう。
「簡単な事ならできるくらい回復したんですよ。」
やはり自分に依存している様子の彼女に成島はわざとぶっきらぼうに答えた。
「それ飲んだら帰るからな。」
腰をおろしてしまった事を後悔した時、キッチンから彼女の声がした。
「成島さんにとって絵って何ですか?」
どう答えるか悩んだ。高村の望む答えは察しがついた。だが自分達は、一緒にいてはお互い駄目になると考え成島はゆっくり口を開いた。
「投資の道具だ。手をかけて価値が上がれば莫大な利益になる。」
そうですか、とだけ高村は答えゆっくりとスープを成島の元へ運んできた。スープ皿を受け取りスプーンでコーンを掬った時、嗅ぎなれた臭いを感じた。顔料絵の具の臭い。画家を志した成島は画材についての知識もあった。高村がしようとしている事を悟った。動揺と安堵が同時に成島の心に去来する。成島自身が彼女から離れたくなかったのだ。そして自分の一方的な考えが彼女を傷つけたのだと悟った。一息にコーンを飲みこむ。焼けつくような痛みが身体を包んだ。成島は苦悶の声をあげ倒れ込む。高村の決意を感じ何も気付かないフリをしようと決めた。
「君……スープに、何を……!」
高村は淡々と答える。
「ご存知でした? 黄色の顔料の絵の具にはカドミウムが含まれてるものがあるんです。」
苦しげな息をする成島を車椅子から見下ろし高村は言葉を続ける。
「絵は道具だとおっしゃいましたね? 道具に命を奪われる気分はいかがですか?」
成島は霞む目を必死に開き高村を見上げた。彼女はイーゼルの前に移動する。
「あなたの肖像画を私の最後の作品にしようと思うんです。」
成島は徐々に薄れていく意識の中で彼女の言葉を聞いた。その肖像画の完成を見届けたいと願った。
数時間後。高村は筆を置いた。静まり返った部屋で、高村が成島の肖像に微笑みかけ残ったスープを飲み干した事を成島は知る由もない。絵の中の成島は微笑んでいた。


                     END

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