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『祈りの届く場所〜ある英雄譚の片隅で〜』

第5話「せめて酒場は魔王なんて忘れられる場所でありたいんだがな。」

「神父さん、薬草もらえるかい?」
「どうされたのですか、その腕は?」
街で一番大きな酒場のマスターが教会を訪れた。樽や瓶を積んだ荷車を曳いている所をみると仕入れの帰りらしいのだが、腕に白い布が巻かれわずかに血がにじんでいるのが目に入り神父は心配げな声を上げる。
「交易都市に仕入れに行った帰りに魔物に襲われてな。」
「なんと……。只今薬草ご用意しますね。」
痛ましい顔で神父はカウンターに向かい、棚から傷に利く薬草を取り出しながらマスターを振り返った。
「こちらへどうぞ。傷を見せて頂いてもよろしいですか?」
「あぁ、頼むよ。」
用意された椅子に腰かけ、巻きつけた布を解きながらマスターは身震いする。
「街道にやけにでかいトカゲがいるなと思って見てたら、目を真っ赤に光らせて飛びかかって来やがったんだ。」
このくらいはあったなと両手を肩幅ほどに広げて見せながら、マスターは話を続ける。
「噛みつかれてとっさに酒瓶で殴ってひるんだ隙に逃げて来たんだが、恐ろしい世の中になったもんだ。」
「全くですね。ご無事で何よりです。しびれやめまいはありませんか?」
「あぁ、大丈夫だ。」
「見たところ皮膚の変色もないですし毒性を持つ魔物ではないようですが、遅効性の毒の可能性もありますし、念のため毒消しもお出ししておきますね。」
「助かるよ。仕入れに命がけとはね。あの酒高かったのになぁ、大損だよ。俺もギルドで護衛でも雇うかな。」
「ギルドとは何でしょう?」
薬箱から新しい包帯を取り出し手当てをしながら、神父は耳慣れない言葉に首を傾げる。
「交易都市に新しくできた組織だよ。流れの剣士や山賊家業から足を洗った連中なんかが在籍して、行商人の護衛とか荷運びとかをこなして報酬を得るって仕組みらしいぜ。」
「なるほど。このご時世にはなかなか便利な仕組みかもしれませんね。」
「まぁそうだな。けど仕入れ以外にも出費がかさむんじゃ商売あがったりだよ。最近特に売り上げも芳しくないからなぁ。」
溜め息を吐きながらマスターは首を振った。
「前は旅芸人が楽器弾いて、知らない客同士でも一緒に歌ったり踊ったりして活気があったのに、魔王が現れてからは皆この世の終わりみたいな顔して飲んでやがる。そんな辛気臭い店じゃ旅芸人は近寄らないし客足も遠のく。今じゃ一部の常連が世界の終わりだと嘆きながら飲んでる暗い店になっちまった。」
マスターが語る店内の様子を想像し神父は嘆息を漏らす。
「希望を失う事は、魔王の思うつぼですよね。」
「だよなぁ。せめて酒場は魔王なんて忘れられる場所でありたいんだがな。」
「マスターの気概があれば想いはきっと伝わりますよ。」
包帯を巻き終え神父は微笑んだ。
「マスターは襲ってきた魔物を退けました。その勇敢さはきっと皆さんの希望になります。」
「そうか? 俺は無我夢中だっただけだぜ?」
「それでも、マスターが魔物を撃退したのは事実です。希望を失う必要などないと語るには充分ですよ。」
「確かに、魔王を倒せるような力はなくても、魔物から身を守る事くらいはできる、魔物なんか恐れるこたぁないって聞かせられるな。」
明るい表情を見せたマスターに神父は安堵する。
「えぇ。マスターの武勇伝を皆さんに聞かせてあげて下さい。」
「武勇伝なんて大げさなもんじゃないぜ。」
「皆さんを奮い立たせるには多少の誇張は必要ですよ。」
苦笑するマスターを力づけるように微笑み神父は言葉を続ける。
「希望を失う事は魔王に屈する事と同義です。戦う力はなくとも、希望を持ち続けていれば魔王の侵攻にきっと対抗できます。」
「そうだな。めそめそして飲んでても何も変わらねぇし、打って出てやるくらいの気概を持ってないとな。」
「おっしゃる通りです。」
頷いた神父に力強い笑みを返すと、薬草と毒消しの入った袋を受け取って代金を支払いマスターは立ち上がる。
「手当てしてもらった上に愚痴まで聞いてくれてありがとな。」
「お安い御用ですよ。」
威勢よく荷車を曳いて店に向かうマスターの背を神父は見送る。この近辺にも魔物が出ると聞いてはいたが、実際に襲われたという話を聞くのは初めてだった。痛々しいマスターの傷痕と、魔物が目を赤く光らせ人を襲うのを想像し、恐怖を改めて感じる。だが、マスターのような気概を持った人の存在は神父にとっても心強いものだった。神託を受けた勇者が魔王を討ちに向かっても、人々が絶望していては勇者が授かった神々の力は無意味なものになってしまう。祈りや希望は、失わない限りどこででも放たれる。それらは魔王に対抗するための大きな力となるだろう。マスターの想いが、希望を無くして酒場に集う人々に届くようにと、神父は天を仰ぎ祈った。


第5話・終


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