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憂鬱な気分を追い出すように頭を振ると河に沿って歩きだす。地図によれば上流付近の小高い山の中に神殿が建っているようだ。神殿には誰かいるのだろうか。ロレウスはそこに向かっただろうか。しかし今ロレウスと再会しても事態は変わらない。自分が今得ている情報など、ロレウスはとっくに知っているだろう。世界を変えたいと思うものの、そのためにどうしたらいいのか皆目見当がつかない。だが後戻りはできないのだと、折れそうになる心を叱咤し歩き続ける。河をさかのぼるにつれ河端は狭くなり、流れが速くなっていく。勾配も急になり道が険しくなった。休息を取りながら足場の悪い森の中をゆっくり歩いていく。太陽はとっくに頂点を過ぎ傾き始めていた。日暮れ前には神殿に着きたいと考えていたがこれでは無理だろう。野宿にも早く慣れないといけない、そんな事を考えながら歩き続けた。シュロンの街からの追手は撒けたようで、辺りに人の気配は無い。河の流れる音と風の音、アルバスの足音と息遣いだけがしばらく聞こえていた。太陽が先ほどよりも傾き足元が暗くなってくる。もう少し進むか、ここで今日は休むかと考え始めた時だった。立ち止まったアルバスの耳に、木の枝を踏み折る音が微かに聞こえた。気を引き締め慎重に辺りを見回す。夕刻が迫り空気が冷たくなっていた。風の音が響く中、低い音が混じる。一つではない。複数の獣の唸り声だ。アルバスを取り巻き様子を伺っている気配がある。剣に手をかけ身構える。樹々の向こう、狼が頭を下げ低い唸り声を上げながら姿を現した。二頭、三頭と続いてアルバスを取り囲む。縄張りを荒らしたとでも思われたのか、明らかな敵意に恐怖が沸き起こる。どうする、震えそうな足を踏ん張り狼を見つめる。急勾配の森の中、逃げても狼の足から逃げきれるとは思えない。だが戦っても勝ち目はあるのか。一歩後ずさると狼も距離を詰めてくる。森に棲んでいるであろう狼だ、地の利は向こうにある。背を向けて無残に食い殺されるよりは、戦って追い払うか逃げ場を見つけるかする方がいいだろう。あまり使いたくはないが、雷を操る力を使えば多少は互角に渡り合えるだろうか。覚悟を決めて狼と対峙する。ひと際大きな咆哮を上げ先頭の狼が飛びかかってきた。剣を鞘ごと振り上げると狼の足を狙い勢いよく払う。攻撃を弾かれた狼は頭に血が上ったのか、牙を剥き出しにし咆哮を上げる。それを合図にするかのように他の狼もアルバスに飛びかかった。飛びかかって来た一頭を紙一重で交わし、雷を呼ぼうと右腕を掲げる。深い森の樹々から微かに見える空。響く狼の咆哮。再び飛びかかろうと体勢を低くした狼に向かって腕を振り下ろす。次の瞬間、伸ばされたアルバスの腕に狼が噛みついた。腕に走った鋭い痛みにアルバスは混乱する。慌てて剣を抜き噛みついた狼に斬りつける。危険を察し飛び退いた狼を見据える。なぜ雷が落ちないのか。狼から距離を取り血の滴る腕を押さえながらもう一度雷を呼ぼうと手を空に向ける。だが、どれ程願っても空は静かに夕暮れの光を森に射し落とすだけだった。
「なんでだよっ!」
街では二度も雷を呼んだのに、どうして今は何も起こらないのか。焦りながら剣を握り直す。飛びかかってくる狼を切りつける。だが傷を負った腕では俊敏な狼の身体をかすめもしない。狼の牙がアルバスにいくつもの傷を負わせていく。盾にしようと構えた剣は狼の太い足に容易く打ち払われた。大きな樹に背を打ちつけ倒れ込む。倒れたまま荒い息を吐く。失血と痛みに眩暈を感じながら、振り飛ばされた剣を手探りで探す。こんな所でこんな死に方はしたくない。倒れたアルバスを狼がゆっくりと取り囲む。倒れたアルバスの視界の端で、狼の目が赤く光ったように見えたのは、夕暮れの光のせいなのか。狼が倒れたアルバスに飛びかかろうとした瞬間、凛とした声が響いた。
「お前達、静まりなさい!」
その声に狼の唸り声はぴたりと止み、狼達は声の主を迎えるように道を開けた。
「森が騒がしいから来てみたら……。すまない、大丈夫か。」
声の主は心配そうな声でアルバスに手を差し伸べる。ゆっくりと身体を起こし声の主に視線を合わせた。黒い髪を高い位置で結わえた女性だった。年はアルバスより十ほど上だろうか。左目を覆う黒い眼帯が彼女の凛々しさを際立たせている。
「はい、どうにか大丈夫です。」
アルバスの答えに安堵の息を吐くと女性はアルバスの背に腕を回し「立てるか?」と問う。小さく頷きながら彼女は何者なのだろうと考えた。狼の群れを一声で従わせたのはどんな方法を使ったのだろう。
「近くに私達の集落がある。傷の手当とこいつらの行動のお詫びをさせてもらいたいんだが、構わないだろうか?」
「はい、よろしくお願いします。」
疑問の解決は後にして、今は彼女についていこう。細身ながらも鍛えられた彼女の腕に身をゆだね歩きだす。狼は彼女の一声で散会し辺りは静けさを取り戻していた。彼女に支えられながら更に上流に向かって歩く。陽はすっかり沈み、月明かりが樹々の隙間からわずかに届くものの森は夜の闇に包まれていた。だが彼女は夜の森を歩き慣れているようでしっかりした足取りで歩いていく。河から離れているのだろう、水の音が聞こえなくなった。アルバスの不安を解くように穏やかな口調で彼女は口を開く。
「ここは私の庭みたいなもんだ。夜目も利くから安心してくれ。集落はもうすぐだ。」
その言葉通り、少し歩くと樹々の開けた空間に出た。月明かりに照らされたその奥、更に広がる森の中に小屋が点在しているのが見えた。
「河沿いを行けば神殿があるけど、こっちへは滅多に人は来ない。安心して休んでくれ。」
自分が追われる立場だということを見透かされているのだろうか。にわかに浮かんだ警戒心を悟ったのか、彼女は大きく首を振り笑った。
「君を神殿に突き出すような真似はしない。私達は同胞なんだから。」
「え?」
困惑するアルバスをよそに彼女は一番手前の小屋に向かう。
「今戻った。怪我人を連れているから手当の準備を。」
「スー様、ご無事でしたか!」
「私の心配は無用だ。早く怪我人の手当をさせてくれ。」
「かしこまりました!」
年配の男は深々と頭を下げ小屋を出ると集落の奥へと走り去って行く。そのやり取りに唖然としてアルバスは彼女を見上げた。
「スー様、って?」
苦笑いを浮かべスーはアルバスを見下ろす。
「大仰な扱いは止せって言ってるんだがな。一応、私がこの集落をまとめている。それだけの事だ。」
ひらひらと片手を振りアルバスを促す。
「そんな事より傷の手当てを。私の小屋へ行こう。」
「あ、はい。」
スーに支えられ彼女の小屋に向かいながら、アルバスはスーの横顔をそっと見上げる。自分より年上のようだが、それでも養父のエルセンよりずっと若い。本当に彼女は何者なんだろうか。先ほどの「私達は同胞」といった言葉も気になった。
「さぁ、ここだ。入ってくれ。」
スーの小屋では先ほどの男が水や薬草を用意して待っていた。彼に礼を言うとスーはアルバスに座るよう促してきぱきと手当を始める。傷を水でそっと洗い傷口に手をかざした。
「けっこう深いな。あいつらも気が立っていたか。すまない。」
憂いを帯びた表情でそう言ったスーの手のひらから熱が伝わってくると同時に、痛みが嘘のようにひいた。傷が皮膚の内側から塞がっていく感触は、神官に付けられた傷を自分で治してしまった時と同じものだった。驚くアルバスをよそにスーは足と背の傷も治し、他に傷がないか確認し始める。
「あ、あの、今のは……?」
戸惑うアルバスにスーは自分の眼帯を外し穏やかに笑った。黒い眼帯の下の目は、アルバスと同じ真紅だった。
「だから、私達は同胞だと言ったんだ。」


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