こうして秋人とリンの生活が始まった。リンは髪と目の色を変え秋人の従兄弟という事にしておいた。リンは家事でも何でも完璧にこなし秋人の貧乏暮らしを助けた。リンが来てから秋人の生活は大きく変わった。夜遊びをしなくなりお金の浪費も少なくなった。バイト仲間からは「付き合いが悪くなった」と言われ、バンド仲間からは「こんな可愛い従兄弟と同居中じゃな」と呆れ顔で言われたものだった。2人は本当の従兄弟かそれ以上の仲の良さで平穏に暮らしていた。秋人に敬語を使い彼を立てるような行動は変わらなかったが、それはリンの性格だと思う事にした。
リンは秋人に連れられバンドの練習スタジオにも頻繁に顔を出した。そして秋人のバンド活動に興味を示し始めた。ライブハウスにも顔を出し熱心に聴いていた。リンに音楽についての知識はあるが、実際に触れたのは初めてである。秋人達の音楽の技術はまだまだ向上の余地があるが、生まれて初めて耳にする音楽はリンの耳に心地よく響いた。
ある日の夜中、小さな音でキーボードを弾いていた秋人にリンはそっと声を掛けた。
「綺麗な音色ですね。」
秋人はリンの言葉に嬉しそうに振り返った。
「そうだろそうだろ。俺のオリジナル曲なんだ。」
秋人は得意げな顔をする。リンを傍らに座らせて熱心に語り始めた。
「俺達がバンドを組んでそろそろ3年になるんだ。まだアマチュアだけど、いつか絶対プロになるって言ってるんだ。これでも結構ファンがついてるんだぜ。」
子供の様に純真な表情で秋人は語る。その一言一言にリンは頷く。真剣に自分の夢を聞いてくれるリンに秋人はますます惹かれた。「音楽で生きて行きたい」と語ると誰もが「甘く見るな」だの「現実を見ろ」だのと諭そうとする。やってもいないうちから諦めるのは絶対に嫌だった。そうして家を飛び出して来たのである。親からは勘当を宣告されたがそんな事は秋人にとってどうでもいい事だった。むしろ、誰にも邪魔されずに音楽に打ち込めると喜んだものだった。だがリンにそう話すと彼は少し表情を曇らせた。記憶が無く、作られたばかりで過去の無いリンには、「過去などいらない」と言い切ってしまう秋人の気持ちがわからなかった。
「自分から過去を捨ててしまわれたのですか?」
「そうだな。その方が何にも縛られないし。世間体だの何だのって全部捨てて守るものも縋るものも何も無い方が思い切って何でもできるし、成功すると思うんだ。」
「しかしそんなに上手く行くとは……。」
「おいおい、リンまでそんな事言わないでくれよ。」
「申し訳ありません。しかし客観的事実です。」
「意地悪だな、もう。リンは記憶を探してる最中だからな、そう考えるのも無理は無いか。でもあまり過去にしがみつくのも良くないと思うんだ。足元を掬われる事になりかねない。弱味になるかもしれない。それなら過去なんか捨てて何にも縋らず前だけ見て生きていく方が賢いよ。だめになっても自分の責任だろ?縋るものがあったら失敗をそいつのせいにしたくなるからさ。」
「そういうものでしょうか?」
「そうだよ。人生は守りに入っちゃだめなんだ。攻撃は最大の防御って言うだろ。追い詰められた方が強いのさ。前進あるのみ、過去は振り返らない。俺はそうして生きてきた。」
そう言うと秋人はリンから目を逸らす。強い口調で語るものの、それが果たして正しいのか確信を持てていない。後戻り出来ないという思いだけが秋人を駆り立てていた。結果それは彼の強味となっている。だがそれは、これでいいのだと自分に言い聞かせているだけだった。自分で確信の無い信念では本当の強味にはなり得ない。わかっていながらも秋人は確信のないまま「過去などいらない」と言い続ける。それが自分の真っ直ぐな想いに理解を示さず、否定し踏みにじりさえした過去への復讐だと心のどこかで思っているからだった。一番過去に縛られているのは、ほかでもない秋人自身なのである。
一方リンは急に黙ってしまった秋人の横顔を見つめながら、秋人の言葉を理解しようと思考を巡らせていた。確かに自分には記憶も過去も無いがこうして平穏に暮らしている。未来だけを見つめて生きている秋人を見ていると、記憶など戻らなくとも良いのではないかと思う事も度々あった。しかし、過去が無い事と過去を捨てる事はまるっきり違う。自分には秋人のような生き方は出来ないと思った。用途が無ければ作られる事の無いアンドロイド達にとって、製作目的はそのまま彼らの存在理由となる。自分は何の為に生まれたのか、という問いは人間のそれよりも深刻な問題であった。今のリンには自分の作られた目的がわからない。思い出せないまま過去を捨てる事は、そのまま自分の存在理由を捨てる事と同じである。そんな事は出来なかった。過去が弱味になるかもしれないという秋人の言葉はリンには理解できるものではなかった。
……存在理由?
リンの思考に疑念が湧いた。記憶を消されている自分は存在する理由はあるのか。製作目的を自覚していないアンドロイドの存在など誰が認めてくれるのか。自分の記憶が抹消されているのは、何故だ。もしかすると自分はいらない存在なのではないか。情報を抹消され処分される所だったのかもしれない。そして何かの拍子にあの場所へ放り出されたのかもしれない。推測でしかないが否定できる要素もない。
「私は、必要とされているのでしょうか……?」
ぽつりと呟いたリンに秋人は振り返った。
「何言い出すんだんだよ、急に。必要だからこうしてここにいるんだろ?」
「ならば何故私の記憶は抹消されているのでしょうか。」
それは秋人も不思議に思った事だった。眉根を寄せ考えながら答える。
「う〜ん、製作者の意図に縛られずに自由に生きろって事なんだろうと思ってるんだけど。」
「自由ですか……。なら何故私は自分をアンドロイドだと、人間の道具だと認識させられているのでしょう? 道具に自由があるのでしょうか?」
「道具だなんて言い方するなよ。俺はリンの事道具だなんて思っちゃいないぞ。」
リンの目を見据えて秋人は力強く言ったが、リンには秋人の言葉は届いていないようだった。自分の存在を否定し始めたリンは機能を停止しようとしていた。
「私は、何の為に、生まれたの、でしょう? 私の、存在する、理由は……? 記録の末梢、私は、存在しては、いけない。」
リンの目から光が消えていくように見えて秋人はリンの目を覗き込み叫んだ。
「おい、リンっ !しっかりしろって!!」
リンの肩を揺さぶりその目に自分が映るようにしてリンの身体を支えた。
「俺にはリンが必要だ。リンが作られた目的なんて俺には関係ない。だから言ってるじゃないか、過去なんて忘れちまえって。存在理由がほしいなら俺が認めるよ。リンはここにいてもいいんだ。いや、いるべきなんだ。」
「何故、そんなにも私を?私は、記憶の無い、役立たずのアンドロイドです。」
「役立たずなんて事ないぞ。リンが来てから俺の部屋は明るくなった。生まれて初めて家に帰るのが楽しみになったんだ。リンは俺の大事な……家族だよ。」
リンの目を真っ直ぐ見据える。不安げに揺れるリンの目は秋人の心を締め付けた。秋人は健気で純粋なリンに心底惹かれていた。本当は「家族」ではなくもっと特別だと言いたかった。だが、自分を機械だと認識しているリンにとって、秋人の想いは負担になるのではないかと怖かった。ゆっくりと自分を見つめかえすリンに秋人は微笑む。リンの目に光が戻ってきたような気がした。リンは嬉しそうな表情で口を開いた。
「私の存在を必要として下さるのはあなただけです、秋人さん。ありがとうございます。」
リンは、秋人の自分への興味と好意がもっと特別なものに変わっていることを感じていた。秋人が本当に言いたかった言葉も察しがついた。だが、秋人の想いに応える事は叶わないと思った。どんなに完璧なAIを搭載してもどんなに人間と違わぬ容姿をしていても、所詮自分はアンドロイドなのだ。年を取り老いていく秋人と永遠不変の自分では釣り合うはずがない。それは悲しい事実だった。リンの中でも秋人は信頼できる人から失いたくない人へと変わりつつあった。だがそれは本物の気持ちではなく自分に持たされたAIによるものだと、知能と同じ様に人の手で作り出された作り物の感情だと認識していた。秋人の気持ちに気付く事が出来たのも、秋人に好意を寄せられて嬉しいと感じた事も知識でしかないかもしれない。機械である自分が、自分の意思で人に感情を抱く事など考えられないと思っている。そして秋人はリンの言葉や行動を機械によるものだとは微塵も思っていない事がリンには辛かった。秋人の純真さを裏切っているのではないかという考えがリンを苦しめる。その苦悩さえも真実なのかどうか。何故自分は人間ではないのだろうと具にもつかない事を思う事もあった。人間なら自分のものである感情に疑いを抱く事などないだろうにと。
「リン? どうしたんだ?」
心配げに見つめる秋人の目を見つめ返し、リンは口を開いた。
「私はどうして人として生まれなかったのでしょう。人として生まれていたならこんな事で苦しむ事もなかったでしょうに。」
リンが涙を流す事が出来たら、彼の両目からは大粒の涙が溢れていただろう。その機能は無いがそれでもリンの目は涙で濡れている様に見えた。泣きたくても涙が流れない。その事がリンを更に悲しませた。涙も声も出さずに泣く顔がこんなにも悲しいものだと秋人は知らなかった。秋人にはリンの言う「こんな事」の本当の意味はわからない。たとえ秋人にAIに対する知識と理解があったとしても、秋人はリンの言動を本物だと信じていただろう。だからリンも、「アンドロイドと人間」という事実に苦しんでいるのだと思った。秋人は真剣な表情でリンの手を取った。
「誰に何と言われようとかまいやしない。お前の事は俺が守るよ。俺にはリンが必要で、リンも俺を必要としてくれてるんだろ? それでいいじゃないか。それにリンがもし人として生まれていたら出会えなかったかもしれない。だからきっとこれで良かったんだよ。」
リンは秋人の目を見つめ返す。そこには子供の様な純粋さとポジティブな強さがあった。その目を見ていると、たとえ自分に何があっても秋人は信じて守ってくれると感じられた。秋人と出会えて良かったと思った。そう感じたのはリンのAIか心か。リン自身にもわからない事だったが、そんな風に感じたという事実が大切なんだろうと思えた。
「はい。秋人さんが望んで下さる限り私は側におります。私の側にもいて頂けますか?」
「当たり前だろ。リンが望まなくったって俺は側にいるよ。」
赤面しながら答えた秋人。だがこの言葉が、後に現実のものになるとは知る由もなかった。
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三へ