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平穏に日々は過ぎていった。秋人はバンド活動とアルバイトに精を出し、リンは秋人と共に自身の記憶に関する情報を捜し求めていた。だが乱れ飛ぶ膨大な情報の中で、何の手がかりも無いたった一つの情報を捜し求めるのはほぼ不可能に近かった。リンの記憶に関しては何の進展も無いまま日々は過ぎていた。しかし秋人はこのままこの生活が続けばいいと考えていた。リンの記憶が取り戻されて、彼に与えられていた任務が明らかになってしまったらもう二度と2人でこんな風には暮らせないだろう。この静かで幸福な日々を失いたくはなかった。けれどリンの前では懸命にその本音を押し隠していた。記憶を取り戻したいと願っているリンにそんな浅ましいことは言えなかった。たとえ記憶を取り戻しても、リンは自分の側にいることを選んでくれると信じていたからでもある。

リンの情報を探し始めてから数ヶ月、諦め半ばほっとしていた秋人の元に1本の電話があった。以前に秋人がリンの手助けを求めて連絡を取った友人からだった。仕事がひと段落したのですぐに秋人の家に向かうこと、完全なAIを持つリンへ非常に興味を抱いていること等を告げ電話は切れた。
「リン、やっとコンピューターに詳しい奴と連絡ついたぜ。これからすぐこっちへ来るってさ。」
「はい。」
秋人にはリンが嬉しさと緊張と、やや残念そうな表情を浮かべたように見えた。もしかしたらリンもこの生活をずっと続けたいと、記憶のことは諦めて自分とずっと2人で暮らしていこうと考えているかもしれないという微かな期待からであった。

数時間後、チャイムが鳴らされた。入ってきたのは背の高い少し冷たい感じのする男だった。人懐っこい印象の秋人とは対照的な人物である。彼は秋人の部屋を見回し呆れた顔をする。
「相変わらずのようだな、桜井。バンドは売れてるのか? メディアでちっとも名前聞かないぞ。」
部屋は楽譜や機材、雑誌等が所狭しと散乱している。これはリンがいくら片付けても秋人が散らかしてしまうのだった。
「うるせぇ、とっととあがれ。お前の嫌味も相変わらずだな。」
軽口を叩きあいながらも数年ぶりの再会を互いに喜んでいた。対照的な2人だが意外と馬が合うのである。
「リン、紹介するよ。こいつは藤沢聡一、俺の中学時代からの悪友だ。昔っからコンピューターいじりが好きな奴で今は……何やってんだっけ、お前?」
「友達がいのある奴だ、僕は感激だよ。君がリン君だね。僕は今フリーのプログラマーをやってるんだ。ロボットや乗り物のプログラムを組んだり人工知能の研究も始めてる。誰かさんと違って忙しいけどちゃんと定収入のある生活をしてるのさ。」
「お前は一言多いんだよっ! 嫌味だけ言いに来たんなら帰れっ!」
コーヒーを入れながらむっとする秋人を軽くあしらう聡一。2人に挟まれリンはおろおろするばかりである。秋人からコーヒーを受け取り聡一はパソコン前の椅子に腰を下ろした。
「わかったわかった。ではさっそく始めようか。リン君、こちらへ。」
傍らにリンを立たせ聡一はリンの目を覗き込み肩に触れたり背に腕を回している。
「何やってんだよ、お前は!」
思わず赤面して叫んだ秋人に聡一はしれっとした顔をする。
「安心したまえ。リン君は男性だろう? 僕はそっちの趣味はないよ。」
「変な言い方すんな!」
「何が言いたいのかわからないな。僕はリン君の内部機関にアクセスするために彼のボディを確認していたのだが?」
秋人は言葉を詰まらせた。聡一は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。昔から秋人の感情は聡一には筒抜けだった。秋人がストレートなのか、聡一の洞察力が優れているのかは定かではない。
「藤沢さんはユニークな方でいらっしゃいますね。」
2人のやり取りを見ていたリンはくすくす笑いながら聡一を見つめた。リンの目を見返し聡一は微笑む。
「最大級の賛辞だよ、リン君。ありがとう。」
そしてバッグからヘッドギアのようなものとヘルメット型の小さなスキャナーを取り出した。
「では始めようか。リン君、これを装着してくれ。」
秋人のパソコンを起動させリンとパソコンを繋ぐ。作業を続ける聡一に秋人は不安げな声を浴びせる。
「おい、大丈夫なのかよ、これ。リンの身体に影響ないのか?」
「大丈夫だ。僕の専門分野だぞ。これはリン君の内部にアクセスするためのものだ。リン君には不恰好な外部端子は無いからね。」
聡一はリンが2つの装置を装着したことを確認すると秋人のパソコンに視線を移す。軽やかな手つきでキーボードを打ちながら2度目の呆れ顔をした。
「ずいぶん旧式なパソコンだな。きちんと起動するなんて奇跡に近い。」
「しょうがないだろ。俺達の収入じゃこれが精一杯だったんだ。」
むくれながら秋人は答える。同い年でありながら高度な技術を持っている聡一に、秋人は微かな劣等感と大きな羨望を抱いていた。無論、その思いを口にしたことは無い。
しばらく真剣な顔つきで画面を見つめていた聡一はやがて感嘆の声を上げた。
「素晴らしい! AIはここまで完成していたのか! ほぼ完璧だよ。この知識系統。百科事典が丸ごと入ってるような情報量だ。リン君はこの世の全ての事柄に精通してると言っていい。一体どうすればこんなことができるんだろう。」
その後も聡一はひたすら感嘆の声を上げては1人で盛り上がっている。専門用語の羅列で聞いていてもさっぱり理解できない秋人はたまらずはしゃぐ聡一を遮った。
「頼むからもっとわかりやすく説明してくれ。それから、リンの記憶に関する情報はないのか?」
「あぁ、そうだった。まずはリン君の持つAIについて説明しようか。」
秋人を振り返った聡一の目には未知の物に触れた科学者の喜びに溢れていた。
「1900年代の研究では機械に知識を与えることは出来ても、人間が自然と身に着けている感情や常識を機械にも教えることは不可能とされていた。そんな状況がずっと続いていたんだけど、2000年代に入ってそれが少しづつ可能になってきたんだ。感情も常識も全て知識としてコード化してしまうんだよ。そしてコンピューターはそれを自分が蓄積してる他のあらゆる情報と一緒に再統合させる。自分の頭脳にある情報の中から、その状況に相応しい知識や事柄を引っ張り出す、そうして機械は行動を開始するんだ。だから事柄に対する理解より関連する知識を統合させるほうが先になる。ただ、その知識の表現や量にも限界があって、2000年代前半には1つの事柄にはエキスパートなのに日常社会生活には全く適応しないっていう偏ったロボットが沢山いた。この段階ではまだAIは完成したとは言えないね。」
聡一は目を輝かせて語る。一方の秋人はまだわからんといった顔をしていた。
「まぁ、どうしても難しい話にならざるを得ないんだけどね。ではリン君の場合に移ろう。彼のAIは最新鋭だ。知識の再統合にかかる時間もほんの一瞬、表現方法や知識量も半端じゃない。幾つもの知識統合体が密接に関わりあっている。世界の全ての事柄に精通し日常生活を送るのも全く問題ない。ここまで完璧なAIは見たことが無いよ。ただ、リン君には知識の統合体が抜け落ちている箇所がある。これが恐らく抹消された記憶なんだろうね。」
「それで、その記憶を取り戻すことはできるのか?」
聡一は静かに首を振った。
「残念だけど、抹消された記憶の復元は出来ないようになっている。」
「それじゃ、リンの記憶は戻らないのか?」
「そうとも限らない。抹消された情報を追うんじゃなく、彼に残された情報から探ることなら出来そうだ。ちょっとやってみよう。」
聡一は画面に視線を戻した。画面には秋人には理解できない記号化された情報が飛び交っている。こんなものでリンは動いているんだと感心していた。この中にリンの心を形成するものがあるのだと考えると不思議な気もした。だが案外、心の構造そのものはこんな風に形に出来るのかもしれないと思った。アンドロイドの持つ記号化された情報や記憶は、人間の細胞内の情報と同じようなものなのかもしれない。それを口にすると聡一は画面を見たまま頷いた。
「それは言えるな。僕は昔から、機械と人間の境界線は何なのかって考えていたんだ。人間の脳や細胞内にも多くの知識や情報が詰め込まれている。機械だってプログラムの中に様々な知識や情報を持っている。では機械と人間を区分するものは何か? 古来は「人間には知能や感情がある」とされていたけど、人工知能の発達によってその線は消えた。機械は心を持ち得ないっていう考えは間違っていると思う。頭脳っていう媒体と視覚や聴覚といった感覚器官があれば心の動きは生まれるんじゃないかな? 人工の知能や器官だから本物ではないって考えは人間の驕りだ。ならば「人間は成長する」と言った者がいた。けどそれも違うと思う。身体が大きくなることだけを成長と呼ぶわけじゃない。学習や内面的成長なら機械にもできる。なら何をもってして人間というか? それは、それ自身の意思にかかってると思うんだ。自分は人間だと主張すれば誰もそれを確実に否定することは出来ないんじゃないかな。例えば「機械は心をシュミレートしているだけだ」っていう主張があった。でも誰もそれを立証出来なかった。何故なら心ってものが理論的なプロセスじゃないからだ。わかるか? 僕の言ってること。」
秋人は困ったような顔をする。
「う〜ん、わかるようなわからんような。」
「なら、リン君が「自分は人間だ」と主張したら受け入れられるか?」
「そりゃもちろん。外見も人間と殆ど変わんないし、笑ったり悲しがったりする。時々リンがアンドロイドだってこと忘れるくらいだぜ。」
「そうだろう?リン君が自分をアンドロイドだと言うのは、自分をアンドロイドだと認識するようプログラムされているからだ。」
2人はコードに繋がれたリンを見つめる。2人の会話が聞こえているのかいないのか、リンは目を閉じ眠っているように見える。その顔は10代半ばのあどけない少年そのもので、重大な任務を背負っているとはとても信じられなかった。


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