リンを見つめたまま聡一は言葉を続ける。
「もちろん、物理的存在としては機械と人間は違うものだ。機械は生命体にはなり得ない。でも精神的存在としては、両者は違うものだとは言い切れないと思うんだ。リン君の話を聞いて特にそう感じた。」
秋人は深く頷いた。リンと共に生活して機械にも心はあると確信したし、リンの事を無機的な機械だと思った事は一度もなかった。だから、記憶の無いリンの自己認識をアンドロイド、人間の道具だと設定した者に憤りを感じたし抹消された記憶に執着して苦悩するリンを救いたいと思ったのである。機械に関して全く無知な自分に苛立ちを抱いてもいた。自分がもっと機械に造詣があればリンを消された記憶から解放してあげられるのにと悔やんだ。
「なぁ、藤沢。どうしてリンは自分をアンドロイドだと認識させられているんだろう。」
画面に向かいながら聡一は答える。
「はっきりとはわからないが記憶を抹消した意図が何であれ、その人物はリン君を人間の道具だとしか見ていないんだろう。これを見てみな。」
聡一は画面を指差す。そこにはようやく秋人にも理解できる事柄が表示されていた。「ファイルA:AI行動原則」とある。秋人はそれを読み上げた。
「何々……AI三原則。第一条、AIは人間に服従し与えられた命令は絶対である。第二条、AIは第一条に反しない限り人間に危害を加えてはならない。第三条、AIは第一条、第二条に反する恐れの無い限り自己を守らなくてはならない。……何だよこれっ!!」
「リン君の行動規範の核をなすものだ。リン君の行動や思考はこれによって縛られている。」
「そんな事は見ればわかる! 服従ってどういう事だっ。命令を与える人間って誰の事だよ!」
「製作者やその人物が所属する研究施設だね。」
続けて何か言おうとした聡一を遮るようにして秋人は叫んだ。
「自分の意思で自己を守る事も出来ないのか? リンは人間の道具なんかじゃない!」
険しい顔をする秋人をなだめ聡一は答える。
「それは当然だ。自分で考える知能があり感情表現も豊かなリン君が人間に絶対服従する理由は無いだろう。これは僕が書き換えておこう。」
滑らかな手つきで聡一はキーボードを叩く。数十秒で作業は終了した。新しい文面を聡一は読み上げる。
「AI三原則。第一条、AIは自己を守らなくてはならない。第二条、AIは第一条に反しない限り人間に危害を加えてはならない。第三条、AIは第一条、第二条に反する恐れの無い限り人間に服従し与えられた命令は絶対である。優先順位を書き換えた。これでいいだろう。」
秋人はやや不満げな顔をする。
「それでも人間に服従っていうのは消せないのか。」
秋人を振り返り聡一は小さく首を振った。
「あぁ。それはどうしようもない。既に行動原則として書かれていた項目を削除する事は出来ないんだ。リン君のプログラムを狂わせてしまう可能性がある。」
再び画面に目を戻し作業を再開しながら聡一は話を続ける。
「それでも第一条が最優先項目だから、全ての人間がリン君を服従させられるわけじゃなくなった。それにあくまでも原則だから例外はある。例えば、今までリン君が桜井を慕っていたのは行動原則によるものじゃない。これを見てみろよ。」
聡一が指差した画面には「ファイルR:思考記録」と表示されていた。そこには秋人との生活の中でのリンの思考が記録されていた。自分の存在に対する疑念に始まり、自分を必要としてくれた秋人への好意。そこから自分がアンドロイドであり秋人への気持ちは偽りなのではないかという苦悩。無条件に自分を信頼し好意を寄せている秋人を裏切っているのかもしれないという不安。これらの気持ちさえ本物なのかという疑い。秋人を失いたくないという想い。そしてもし、記憶を取り戻したら自分はどうしたらいいのかという葛藤。
「行動原則によって桜井に服従していたんなら、AIがここまで考えることは恐らく無い。この気持ちは全てリン君自身の心から発せられているものだ。何で思考記録が録られているのか疑問だけど。ここまで想われてるとはお前は幸せ者だ。おい、桜井。どうした?」
秋人は画面を見つめたまま微動だにせず唇を振るわせた。
「リンはこんなにも悩んでいたのか。あいつは、本当に俺の事を……。」
言葉に詰まる秋人。リンの切実な秋人への想いと苦悩に胸を打たれた。誰が何と言おうと、リンは自分が守ると改めて誓った。記憶が取り戻されてもリンを行かせたりしないと。眠っているようなリンが目覚めたらきちんと自分の想いを伝えようと、そうする事で自分の心の存在をリン自身が信じられるようになればいいと思った。その為にも自分はずっとリンの側にいると決意を新たにした。そんな秋人の様子に聡一は満足げに呟く。
「やっぱり機械と人間の間にも絆は存在するんだ。」
これまでは、そこまで心を通わせる機械も人間もいなかっただけの事なのだと感じた。秋人に、機械にも心はあると話したのは聡一だった。それを実証してくれた秋人に感謝した。機械と人間が互いに尊重しあい、共存する事は可能なのだと思った。もっとリンの事を知りたいと聡一は画面に眼を戻す。リンの心の存在は確認できたが、記憶に関する事はまだ何もわかっていないのだ。本題に戻らなくてはならない。聡一は作業を再開しながら考えた。秋人はリンの記憶が消されている事について「製作者の意図に縛られずに生きろという事じゃないか」と聡一にも言っていた。そうだとすると幾つかの疑問が残る。行動原則やリンの自己認識が作られた時のままの形で残っていた事。秋人の考えが事実だとしたら、リンは自分を人間の道具だとは言わないであろう。リン自身は「自分はいらなくなって処分される所だったのでは」と考えた事が思考記録に残っていた。だが聡一はそれも考えにくいと思った。リンの持つAIはコンピューターに関わった事のある人間なら無造作に処分するなどとんでもないと思う代物である。例えその施設で不要になったとしても、いくらでも引き取り手はいただろう。ただ記憶を抹消し放り出すなんて事は絶対にあり得ない。聡一は、リンは施設から盗み出されたのではと考えていた。さらわれたのであれば記憶が消されている事には説明がつく。だが、どうしてリンは逃げ出したのかという疑問が生じる。最初の行動原則からすれば、リンはさらった人物に対して逆らうことは出来ないはずだ。誰の考えも答えに行き着かない。それについて考える事を諦め聡一は再びキーボードを叩き呟く。
「しかし本当に膨大な情報量だ。2000年代末にしてやっと完璧なAIが完成したってわけか。こんな偉業なのに論文が発表されていないのは妙だな。一体リン君のプログラムを組んだのはどんな人達なんだろう。」
食い入るように聡一は画面を見つめる。そうしてリンの頭脳の中枢にたどり着く。聡一はまたも感嘆の声を上げた。そこにはリンの人格のベースとなるデータが書き込まれていた。ベースになる人物の脳をスキャンし、その情報をコピーしてリンの中に組み込んだものだ。聡一はリンに内気な少年といった印象を受けた。どうやらそれはベースになった人物の影響のようだ。隣で黙って画面を見つめていた秋人が口を開いた。
「藤沢、これは何だ?」
「これはリン君の基本人格を構成する為のデータだ。誰かの脳をスキャンしてコピーしたものらしい。」
秋人は目を丸くする。
「すごいな、そんな事ができるのか。でもそれならこれはリン自身の人格じゃないって事か?」
表情を曇らせた秋人に聡一は首を振る。
「あくまでもベースであってそのものじゃないさ。人格をコピーした上にプログラムを書いてあるんだから。何も無い所にいきなり知識統合体を形成するより格段に楽なんだ。それに人格をコピーされていてもその後の経験でいくらでも変わっていくものだ。人間と同じだよ。」
「そっか。じゃあそのベースになった人格って誰のものなんだろう。」
「調べてみてるんだが、思考パターンしか残っていないようだ。ここからわかるのは10歳から15歳位の少年だって事と、内気で気弱な性格だったって事位か。正確な事は記載されていないね。ここから何かわかるかと思ったんだけどな。」
残念そうに言うと聡一は頭脳中枢のデータを閉じた。今度は知識統合体のデータを開く。本当にこんなにも大量の知識がリンの小さな頭脳の中に入っているのだと思うと聡一は感心してしまった。記号化された知識の枠組みが密接に関わりあっているが、所々に欠けた箇所がある。秋人はそれを指差して口を開いた。
「これがその知識の集まりってやつだろ?この空白には何が書かれてたんだろう。」
聡一はじっと画面を見つめリンの知識を読み取った。そしてある事に気がついた。
三へ/
五へ